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ウィルソンの写真と私の木簡

長田のバス停近くに田園書房が開店したのは、私が小学校高学年の頃、近所に初めてできた書店だった。奥の文庫のコーナーでまだ読むには早い背表紙を眺めて、なぜサガンはあんなに薄くてたくさんあるのか?と不思議がったり、中に挟まれているしおりのデザインが出版社や時期によって変わるのをチェックしたりする道草の場所だった。ここで、出版されたばかりの「ノルウェイの森」に出会い、吉本ばななの「キッチン」や澁澤龍彦の「フローラ逍遥」は、少し離れたビルの1〜2階に移転した新店舗で購入した。
宜野湾の国道330号線沿いには中古車販売店が多かったことから「中古車街道」と呼ばれていたが、立地的に2つの大学の間にあったことが関係していたのか、長田交差点近くには一時期、田園書房の他にもコミックや少しアダルトな内容の本を扱う書店と、古書店が2店舗あった。
里帰り出産の際に、当分無理だけれどいつか読むに違いないと買ったメイ・サートンの「夢見つつ深く植えよ」は、20年以上の積読期間を経て人生の晩秋に寄り添う1冊になっている。

子育て時代から現在まで住んでいる街には、長らく小さな書店が1軒しかなく、年に何度か、隣県のデパート内の書店や、夫の実家がある大阪市内の大型書店へ行った。実家から歩いて行けて、漫画や雑誌から一部の専門書までを扱っていた田園書房。あの店がここにあったらなぁ。しかし、近隣でショッピングセンターが次々と開店する度に書店が増えていった2010年代、故郷では知らぬ間に田園書房宜野湾店が閉店していた。

現在、長田交差点の近くにはブックオフと古書店が1軒と、落ち着いて本が読めるカフェがある。

mofgmona(モフモナ)へ行くのは、いつも平日の午後14時過ぎだったので、それ以外の時間帯が読書に適しているのかはわからない。昼ごはんの片付けを終えて夕ご飯の目処を立ててから「ちょっと散歩とカメラ」と告げて、実家から歩いて行く。バッグの中に本は入っていない。いつも店内に置いてある本からその日の気分で選んで読んでいた。ある時はひとん家の冷蔵庫の中を撮影した写真集、別の日にはもう発行されていない雑誌のバックナンバーを読み、また別の日にはアメリカのトラクターメーカーの社史のような英字の本を眺めた。

あの日、目についたのは白黒写真の風景写真が表紙の「ウィルソン 沖縄の旅1917」だった。

ウィルソンって「ウィルソン株」のウィルソン ?
沖縄にも来てたの?!

ウィルソン株とは、屋久島にある巨大な杉の切り株のことである。伐採当時の推定樹齢が2000年、周囲15.2mの切り株を調査し、その存在を世界に紹介したプラントハンター、アーネスト・ヘンリー・ウィルソンにちなんで「ウィルソン株」と名付けられている。
子供の頃、屋久島の自然について書かれた本で知ったウィルソン株と縄文杉を、実際見ることが出来たのは、夏休み中の大学の実習だった。
(その時の引率してくださったのが「クワクサ 」に出てくる先生である)

この本は著者が、ウィルソンが沖縄で撮った写真に出会い、100年前の撮影場所を現在の沖縄の中で探したプロジェクトの結果と考察を記したものだ。
フィルムではなく、乳材をガラス板に塗布したガラス乾板を感光させて写し取られた100年前の沖縄の樹々。その鮮明な白黒写真からは、植物の姿、その高さや広がりや勢いが見えるだけでなく、何かしら胸に迫ってくるものがある。
樹木の高さが捉えやすいよう、その傍に人を配して撮られた写真の中に印象的な面立ちの日本人がいて、ウィルソンの調査の同行者だったその人物については、本のおしまいのあたりで紹介されていた。

園原咲也さん。
緑や花に携わることが運命づけられていたかのような名前である。長野県出身で1912年に林務技手として沖縄に赴任し、現在は沖縄本島北部の山原(ヤンバル)と呼ばれる地域に眠る人だ。
人物が特定されたのは、この本が出版される以前に企画展が開催された沖縄県立博物館・美術館の担当者の一人から「ウィルソンの写真の中に私の祖父を発見しました」というメールが届いたことからだそうだ。その「もうひとつの物語 ウィルソンと琉球を歩いた男」の項を読み進めるうちに、あることに気づいた。

晩年の園原さんは、89歳まで北部農林高校で講師をしていたという。もしかしてと思い、手帳の後ろの年齢早見表とスマホの電卓を使ってザッと計算してみると、父の高校在学期間に被っている。
続く「剪定鋏とフライパンだけが入ったリュックを背負って山に入る仙人のような咲也の姿は」という記述で思い出したことがあった。
ずっと以前に、ヤンバルの山に軽装の身ひとつで入り、ハブに噛まれることもなく、何日も寝泊りする仙人のような人がいると聞いたことがある。おそらく父か、同じく本島北部出身の亡き恩師からだ。

少し興奮気味で家に帰ったものの父は出張中で、フライングで母に聞いてみた。
「お父さんに園原咲也っていう人のこと聞いてみようと思うんだけど」
「あ〜、園原先生のこと?」
「なんでお母さんが知ってるの?」
母は沖縄本島から遠く離れた離島の出身だ。
「昔、聞いたことがある。北農の先生でしょ。」
嫁との話題に出てくる高校の先生! ビンゴだ。

帰宅した父が話してくれたのは、園原先生は林業の授業の講師だったこと。ヤンバルの山の中を、当時70歳を超えているとは思えない高校生もびっくりのスピードで歩いていたこと。時々ノートを提出させてページ数の多さで成績をつけていたこと。あのリュックの中にはフライパンと剪定鋏だけでなく古い古い週刊誌(平凡パンチ?)も入っていて、同じものを何度も何度も読み返していたらしいこと。父が大人になってから一度新しい号を差し入れたことがあること。ポケットの中にはいろんな樹の種が入っていて、何も生えていないところを見つけるとポンポン投げていたこと。父の出身地を知って、昔、君の親戚が所有していた土地の大木に登って種を採っていたら「何しているんだ?」と下から声をかけられたことがあると話してくれたこと。最後にお見かけしたのは那覇の街中で、その時もいつものあの格好だったこと。
語る間、父は始終ニコニコしていた。

「もし写真や標本で記録を残さなかったならば、100年後にはその多くは消えてなくなってしまうだろう」とウィルソンは記した。実際、彼が沖縄で採集・撮影した樹々のほとんどは自然に枯れ、あるいは戦火や開発に呑まれ、絶えた種がある可能性もある。

記録には、残そうとしたものと、そんなつもりはなかったのに残ってしまったものがあるのだと思う。ここからほど近い平城京で約1300年前の木簡が発見されたのは、屋敷のゴミ捨て穴跡からだった。使い終え当然のように捨てられていた大量の木簡は、現代で発掘された時には奈良時代を知る重要な手がかりと化していた。同様に、ある目的のために記録していたものが、後年その目的とは違う予想もしなかった形で活かされることもあっただろう。私がウィルソンの写真を元に編まれた本に出会って、父の高校時代の思い出を開き、この文章を書いていることもそうだと言えるかもしれない。

そもそも、人はなぜ記録を残そうとするのだろう?
大きすぎる問いを持て余してしまっていると、偶然助け舟がはいった。大学時代、映画研究会に所属していた知人2人がそれぞれ、映画の興行記録を残す活動や、8ミリフィルムで撮られた映像をアーカイブする活動をしていることをネット上で見つけたのだ。
人は、誰のためであれ、何のためであれ、重要だと思ったもの、惹かれたもの、放っておくと消えてしまいそうなものを記録に残したくなるのではないか。その価値が何であるかに関わらず、記録が開かれる未来を想像できなくても。

そうならば、私は自分の身に起こったありふれた出来事や、かつてあった街と私のたわいもない思い出を文字で記録しよう。アーカイブとは呼べないそれらは、やがてデジタルの地層に埋もれる木簡となるだろう。

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