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【落語好きの諸般の事情】#27 落語家のTVバラエティ番組進出史問題(中編)

前回はTVが放送開始した1953年から1960年代にかけて、バラエティ番組で活躍した落語家さんを紹介した。今回はその続きを、行ける所まで。

60年代中盤~後半は、TVで演芸番組が人気を集めたことから「演芸ブーム」と言われ、クイズやゲーム企画など多くの人気バラエティ番組に芸人さんが出演し、顔を売った。
当時は、TVでデビューしてTVで育って売れてゆくという「TVタレント」の概念がそもそも無かった。スクリーンなり、舞台なり、音楽畑なりで注目を浴びた人が、その勢いでTVにも出る…というパターンが主で、寄席演芸陣もその一ジャンルに過ぎなかった。芸能事務所からのタレントの売り込みも今ほど盛んではない時代、当時の人材の少なさが、演芸人のバラエティ進出の大きなきっかけになったわけだ。

そんな状況下で、1962年5月に24歳の若さで真打昇進した古今亭志ん朝師は、林家三平師と並んでTVスターとなる。古今亭志ん生師の息子という話題性もあったし、何しろ若くてアイドル性も高かった。『サンデー志ん朝』(1962年)などの冠番組を持つほどの人気者だったが、70年代に入ってからは徐々にバラエティでの露出を抑え始め、出演してもドラマ中心となる。高座に集中する時間を増やしたのである。
志ん朝・三平両師以外では、『お笑い三人組』で既に顔が売れていた三遊亭小金馬(金馬)師、三遊亭歌奴(円歌)師・桂米丸師ら新作派メンバー、立川談志師・三遊亭円楽師・桂歌丸師・林家こん平師ら『笑点』メンバーなどが、この時期タレントとしても活躍した顔触れである。

一方大阪は、最初にマスコミで売れっ子になった落語家さんが笑福亭仁鶴師で、次が桂三枝(文枝)師。さらに月亭可朝師や森乃福郎師が続くといった順番。ただし仁鶴・三枝の両師が最初に人気を集めたのは深夜ラジオで、可朝師はレコードだった。
TV発で知名度を高めた最初の落語家さんといえば、1969年にスタートした毎日放送の『ヤングおー!おー!』に出演した「ザ・パンダ」(桂文珍・桂きん枝・林家小染・月亭八方の4師)だろう。「ザ・パンダ」のレギュラー入りは1972年からで、吉本興業の「第二の仁鶴・三枝を作る」という確固たる目標のもと、吉本興業制作の番組発信でスターになった。
個人事務所だった桂米朝師が1960~80年代まで大黒柱として長くTVの司会を務めたのとは対照的である。米朝師の『ハイ!土曜日です』(1967年から担当)懐かしいなぁ。

TVの「演芸ブーム」は70年代にはだいぶ落ち着いたが、それでも当時はまだまだTVでタレント的活動をする落語家さんが大勢存在した。
土曜7時半の人気番組『お笑い頭の体操』(番組開始は1968年)における月の家円鏡(橘家円蔵)師の存在は、子供心に面白かった。司会の大橋巨泉さんの「早いのが取り柄、月の家円鏡さん」というフレーズを覚えてしまったほどだ。
体を張るゲーム番組の草分けバラエティ『底抜け脱線ゲーム』(1963~1973)には、今の五代目三遊亭円遊師、当時の笑遊さんが当時からビン底メガネで時々登場していて、これまたインパクトがあった。現在ならリアクション芸人枠だろう。この路線は後年、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』における林家ペーさんのポジションに受け継がれる。
八代目古今亭志ん馬師は『お昼のワイドショー』で司会を務め、桂朝丸(ざこば)師は『ウイークエンダー』、三笑亭夢八(夢丸)師は『TV三面記事』のレポーターとして、共に長く活躍した。「事件に対して芸人さんがコメントする」仕事は何も最近始まったわけではない。
意外な所でいうと、三笑亭茶楽師は若手の頃いくつものクイズ番組に出演し、「クイズ番組荒らし」として有名だった。こちらは現在のクイズ芸人の走りである。

総体的に振り返って、この時期TVタレント活動に力を注いでいた落語家さんは、芸術協会所属の人が多かった気がする。最もTVに出演していた落語家さんは、二ツ目の三笑亭夢之助さん(1983年真打昇進)ではなかったか。当時とにかくよくTVで見た。『お笑いタッグマッチ』に始まるTV草創期からの意識の継承かもしれない。

そして大阪では、吉本の仁鶴・三枝両師に続く存在として、70年代に松竹芸能の笑福亭鶴光・鶴瓶両師がブレイクする。ちなみに鶴瓶師が本格的に東京のTVに進出するのは80年代のこと(それ以前の1975年に、例の東京12チャンネル出禁になった深夜番組出演がある)。
今でこそ東京でも手広く仕事をする吉本も、そのきっかけは80年代の明石家さんまさんの東京進出と全国区的活躍だった。松竹にとってはそれが格好の前例となった。それまで働き盛りの若手に全国ネットのTVタレントがほとんどいなかった松竹としては、鶴瓶師のタレントとしての東京進出は会社的に意義深かったはずである。

うーむ、全然終わらん。まだ80年代前か。次回はちゃんとまとめます。


さて、ここから先は今回のオマケです。
過去に拙サイト「落語別館」の日記やブログで書いた、東京時代に足を運んだ寄席と落語会の観覧記。それにちらっと説明を加えてのリサイクル公開(一部本邦初公開もアリ)。27回目は、2004~2006年の記録その17。2006年2月+3月の寄席および落語会。この年の前半は立川流の会によく通っておりました。鈴本の真打披露興行も行きました。

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