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【落語好きの諸般の事情】#26 落語家のTVバラエティ番組進出史問題(前編)

TV番組がドラマや公開収録など大掛かりなものから、長時間ワイドショーやロケ、トークなどの低予算番組へと移行が続く現在、落語家さんがTVにキャスティングされる機会、つまり「出シロ」が以前より増えつつある状況である。
実際、立川志らく師は大手芸能事務所に移籍以降、コメンテーターとしてTV露出が飛躍的に増えたし、ゴールデンタイムの人気番組で落語家さんの姿を見かける機会も多くなった。多いといっても、年1~2回だったのが月数回になった程度なのだが、それでも長らくゼロだった時代を知る者としては格段の伸びに感じる。

ところで、過去に落語家さんたちはどんなTV番組に出演してきたか。落語家さんとTV番組の関わり合いの変遷を、今回はバラエティ番組に限定してたどってみたい。
なお、自分の目で確認していない時代の番組にまつわる記述は、『昭和のTVバラエティ』(高田文夫氏監修・太田出版、1989年刊)と『戦後落語史』(吉川潮氏著・新潮新書、2009年刊)を参考にさせていただく。

落語家さんのTV出演で真っ先に頭に浮かぶのは、50年以上続く『笑点』。また過去には『お好み演芸会』や『小朝が参りました』、さらに古いところで『お笑いタッグマッチ』など、落語家さんありきの大喜利・寄席形式の番組。これらはTV草創期から常にあった。しかしいずれも落語家さんが出演して当然の番組であって、本記事で特に注目したいのは、落語家さんが他の芸能人または一般人と混ざり、一タレントとして出演するケースである。
念のためお断りしておくと、落語という職業に対するポリシーは落語家さんごとに違い、ハナからタレント的仕事に興味を持たない人もいれば、名前を売るため頑張ってTVに出る人もいて、若い時分に頑張ってから徐々に減らす人もいる。そうした個々のポリシーをすべて尊重し、その上で「芸能ジャンルとしての落語がTVという混沌とした媒体の中でどんな位置にあり続けたか?」を俯瞰的に検証するのが本記事の目的である。
その流れをより分かりやすくするために、時系列で追ってみることにする。

まず、日本のTV放送の開始は1953年2月。その5ヵ月後には早くも落語家がバラエティ番組に進出した。日本初のTVバラエティ『ジェスチャー』の柳家金語楼師である。当時既に落語ではなく劇団や映画出演がメインになっていたとはいえ、戦前からの人気は衰え知らずで、『ジェスチャー』は長寿番組となった。

それから5年後の1958年秋、落語界からTVスターが続けて誕生した。9月には日本芸術協会(今の落語芸術協会)から桂伸治(のち十代文治)・春風亭柳昇・三笑亭夢楽・二代目桂小南・三遊亭小円馬・四代目春風亭柳好という6師が同時真打昇進。のちに芸協の中軸となる人たちばかり。そして翌10月、落語協会で真打昇進したのが、二ツ目時代から既にTVのハチャメチャな司会ぶりで人気を集めていた林家三平師だった。
前者は先述した『お笑いタッグマッチ』で、タイトルに「お笑い」とつけた初のバラエティ番組でもある(その前から放送されていた『お笑い三人組』は喜劇ドラマだった)。柳昇師が司会で、伸治・夢楽・小円馬・柳好の各師がレギュラー、これに落語協会の小せん・馬の助の両師が加わって、落語人気拡大に一役買った。
後者の三平師は、二ツ目時代から1970年代に至るまで、演芸番組・歌謡番組・ワイド番組・素人参加番組などで八面六臂の活躍ぶりを見せる。特筆すべきは、同年10月5日には民放のKR(今のTBS)で真打昇進記念特番まで放送された点。今みたいに企画が週替わりするスペシャル枠など無い時期だけに、いかに注目された存在だったかが分かる。

このあと1960年代に突入すると、TVの演芸ブームとの相乗効果で、続々と売れっ子タレントが登場する。東は志ん朝・談志・円楽・円鏡(円蔵)、西は仁鶴・三枝(文枝)といった具合。しかしその一方で、巨大な相手を向こうに回しての新たな戦いも始まるのである。さてどうなるか、ここからが面白いが、続きはまた次回。


さて、ここから先は今回のオマケです。
過去に拙サイト「落語別館」の日記やブログで書いた、東京時代に足を運んだ寄席と落語会の観覧記。それにちらっと説明を加えてのリサイクル公開(一部本邦初公開もアリ)。26回目は、2004~2006年の記録その16。ようやく2006年に突入。旧大須演芸場での初観覧や東京の寄席初席、ホール落語の新春公演などなど。

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