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【落語好きの諸般の事情】#17 21世紀落語界における「しんぶん爺」問題(後編)

まず前回書き忘れたこと。明治時代の歌舞伎通から生まれた「古い役者=ヨシ、新しい役者=認めない」の基準で論評する「団菊爺」の考え方は、100年前の時代背景に基づくものである。これと、古今亭志ん生と八代目桂文楽を基準に落語を論評する「しんぶん爺」の違う所は、志ん生・文楽の落語を21世紀生まれの若者ですら聴こうと思えば聴ける点である。
昭和期に録音録画機材が日本中に普及したことで、たとえ演者と同時代を生きていなくても、志ん生・文楽がどんな落語をしていたかはCDやDVD、ネットで見聞できるし、論評もできるのである。100年前の「団菊爺」の自慢の中には、「おめーら若造は見てねーだろ」という世代的優越心理が含まれていたが、現在の「しんぶん爺」はこれができない。ここが何より違っている。
ただし過去の経験値自慢ができない分、「〇〇年のあのホールの高座を見た」という一期一会の伝説を探し求めるマニアの存在が新たに登場した。さらに、自慢したい心とは別の、落語ファン同士と情報を共有したいと考えるシェア心理も、現代ならではだ。ネット時代、SNS社会における落語ファンの典型2例といえるかもしれない。

で、ここからようやく私の「しんぶん爺」話。
私は1962年生まれのため、ナマの志ん生・文楽はまったく知らない。間に合わそうと思えば円生・彦六正蔵・先代馬生は間に合ったが、田舎暮らし、しかも10代の頃はナマ落語に行きたいとも思わなかった。1985年に上京後も、仕事柄エアチェックや市販音源で落語を聴く生活ばかり続いた。

初めて東京の寄席(新宿末廣亭)に出かけたのが1987年2月で、ここでかろうじて先代桂小南師(1996年5月没)の『お化け長屋』が聴けた。このあたりのことは初回の当コラムのオマケ欄(有料ゾーン)で書いたので興味ある方はどうぞ。
初めてのホール落語が1990年10~11月の博品館劇場、春風亭小朝師の連続30日間公演。ここで四代目桂三木助師(2001年1月没)の高座に二度触れた。
五代目柳家小さん(2002年5月没)と古今亭志ん朝師(2001年10月没)のナマ高座は、1997年4月の池袋演芸場での橘家円太郎真打昇進襲名披露興行で二度ずつ。病後の小さん師は『二人旅』と『道灌』を静かに語っていた。幾分痩せた志ん朝師の高座は『無精床』と漫談『男の勲章』。こういう寄席向けネタを演じる志ん朝師は逆に貴重かも。何しろどの音源にも無い。口上の鈴々舎馬風師とのやりとりに爆笑した。
2000年以降は頻繁に寄席通いを始め、そこで接したのが春風亭柳昇師(2003年6月没)と十代目桂文治師(2004年1月没)の訃報。頻繁に触れる前に亡くなられた小さん・志ん朝両師を除けば、私の中で「亡くなって知る存在感の大きさ」を最初に実感したのがこのお二方だった。

寄席通いを始めて好きになった芸人さんの思い出は書きだすとキリが無いのだけど、既にだいぶ予定文字数がオーバーしたので別の機会に回す。一つだけ書き残すなら、過去ばかり悔やんでも何も始まらないのは承知とはいえ、やっぱり一度はどんな形でもいいから桂枝雀師(1999年4月没)のナマ高座に接しておきたかった。自分を落語好きにしてくれた人だったから。


さて、ここから先は今回のオマケです。
過去に拙サイト「落語別館」の日記やブログで書いた、東京時代に足を運んだ寄席と落語会の観覧記。それにちらっと説明を加えてのリサイクル公開(一部本邦初公開もアリ)。17回目は、2004~2006年の記録その7。

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