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【落語好きの諸般の事情】#28 落語家のTVバラエティ番組進出史問題(後編)

さて、3週目突入のこのテーマ、今週は落語界にとって激震の1980年代について。
ここまで来ると記憶もかなり鮮明。

1980年は漫才ブームがスタートした年。落語界的には、1980年5月に真打昇進した春風亭小朝師が売れに売れた一人勝ちの時期だ。(一方大阪では桂枝雀師の人気が高まるのだけど、この時期は東京の情勢変化が慌ただしいため、今回大阪の情勢は1回お休み)

「落語も漫才に続け」とばかりに、1982年4月からフジテレビで落語番組『らくごin六本木』がスタート。深夜枠で4年半続いたものの、この番組で最も知名度を上げた落語家は、皮肉にも番組構成作家の高田文夫氏だった。
1983年11月に立川談志師が落語立川流を旗揚げ、芸能人や文化人を大量に弟子に取ったその中の一人が高田氏(芸名・立川藤志楼)で、番組内ではビートたけしさん(芸名・立川錦之介)と家元との3ショットで入門披露の模様をオンエアした。その後高田氏は談志家元の推挙により1988年真打昇進を果たす。

高田氏は当時の落語雑誌の記事で、「本職の落語家さんの反撃を待っている」と語っていた。それほど当時、落語界のマスコミ注目度は枯渇状態だったのだ。『らくごin六本木』のスタッフは高田氏始め落語好きが揃っていて、落語界に期待と奮起を込めて、落語家さん以外の芸能人に座り高座で落語を演じさせるカンフル剤を注入したりもしたが、落語ファン以外からも注目されるような小朝師に次ぐ「タレント」はついに番組からは現れなかった。
実は立川流設立の経緯の一つに、当時の低迷する落語界への失望から端を発した「売れっ子を作る」という談志家元の理念も込められていたのだが、これについては後述する。

とはいえ、立川流が誕生した1983年前後、小朝師以外にマスコミで顔が売れた落語家さんは、いなくはない。
1983年『欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子』に、当時「宮崎美子のそっくりさん」として話題だった二ツ目・金原亭駒平さん(現・世之介師)が「良い下宿人」役でレギュラー出演した。ちなみにこの時「悪い下宿人」で共演していたのが、素人時代の現・柳家喬太郎師である。
一方、三遊亭小遊三師が1981年『オレたちひょうきん族』に殺人犯のそっくりさんという衝撃のカメオ出演をしたのも話題になった。小遊三師の盟友・桂米助師が日テレの朝ワイドで『突撃!隣の晩ごはん』を担当するのは1985年から。
あとバラエティではないが、古今亭志ん輔師が二ツ目・朝太時代の1984年4月から15年間にわたり、NHK『おかあさんといっしょ』でレギュラーだったのも、落語家さんのTV露出が少ない時期だっただけに忘れ難い。
ただし残念なことに、以上のメンバーのTV露出はすべて「個」による散発だった。60年代の演芸ブームや、80年頃の漫才ブームのように、「塊」で脚光を浴びないことには業界全体の鳴動にはつながらない。

そうこうしているうちに、TVバラエティの中の「芸人枠」という出シロの存在を察知し、動き始めた会社があった。大手芸能プロダクションである。
まず西の大手・吉本興業が1982年、新人タレントを育成する養成機関として「吉本総合芸能学院」(NSC)を創設した。
続いて東の大手・渡辺プロが1984年、若手お笑い専門セクション「BIG THURTHDAY(ビッグサースデー)」を開設してオーディションを始めた。
そしてこの二大事務所を他の事務所が追随する、よくある図式となる。折しも都内はライブハウスが脚光を浴び初めて流行スポットとなりだした頃。永六輔氏が「ライブハウスは現代の寄席」と称した時代だ。多くの事務所が、新人発掘の目的で定期お笑いライブを始め、マスコミで取り上げられた。
大小いくつもの芸能事務所が一度に若手芸人をTVに送り込む経路が出来上がったことにより、あったはずの出シロはすべて塞がる。そして、ほどなくして起こる「第三次お笑いブーム」から、落語家さんは姿を消してしまった。

その流れに参戦してきた落語家さんこそ、誰あろう、立川流を旗揚げしたばかりの立川談志家元である。自らも若い頃ずっとタレント活動を経験してきただけに、落語界がマスコミの視野の圏外に追いやられる現状に忸怩たる思いがあったのかもしれない。
まず1983年に入門したばかりの立川志の輔さん(1984年二ツ目)に「マスコミで売れろ」と言明した。元広告代理店勤務でアイディアマンの志の輔さんは、二ツ目昇進と共に自らを放送局各社にプレゼンし、ライブハウス公演も重ねて、1990年真打昇進までに多くのレギュラー番組を獲得。家元から「立川流の純粋培養第1号」と称賛された。
ただしこの異例の躍進ぶりも、残念ながら「個」であった。落語家さんの「塊」が脚光を浴びるのは平成に入ってからになる。

あれ、これだけ書いてまだ80年代だ。自分でもびっくりするぐらい進まない。
あのね、次回こそはね、ちゃんとやりますよ(アサダ二世先生風に)。多少ハショっても21世紀まで進みますので。次回、堂々の完結編!

最後にちょっとだけ余談。
実は三遊亭円丈師も、真打昇進した1978年から、渋谷の老舗ライブハウスで「実験落語会」公演をしておられた。ただしこちらは純粋に新作落語を発表するライブであり、TVタレント育成とは元々別次元の話。
その円丈師、著書『三遊亭円丈 実験落語の世界』(教育出版センター、1981年刊)の椎名誠氏との対談の中で、椎名氏が「東京芸能界における吉本とナベプロの勢力争い」を予見する発言をしたのに対して、「対抗勢力として大きな演芸プロダクションがあれば…」と語っておられた。私がここで3週執筆してようやく辿り着いた問題提起を、37年前の本で既に指摘しておられたわけ。
……参りました。慧眼恐るべし。


さて、ここから先は今回のオマケです。
過去に拙サイト「落語別館」の日記やブログで書いた、東京時代に足を運んだ寄席と落語会の観覧記。それにちらっと説明を加えてのリサイクル公開(一部本邦初公開もアリ)。28回目は、2004~2006年の記録その18。今週掲載するのはそのうち2006年3月+4月の寄席と落語会7公演。生涯の記憶に残るあの寄席興行と、あの落語会(の開場前のひと時)。今回の本文で登場したあの方も登場します。

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