見出し画像

たまの休みに遭難する

 以前の職場で登山が趣味の後輩がいました。ここでは仮に山本君としておきます。

 山本君が登山をしている。正直、意外だったんです。山本君は良くも悪くもほんわかしていて、山の厳しい自然に立ち向かえるような人に見えなかったんです。見る目がないとはまさにこのことでございます。山本君は職場でほんわかしながら、休日には厳しい山道を登っていたんです。

 しかし、いざ登山の話を聞いても山本君の返答はどうもよく分からないんです。どの山を登るのか、どんな風に登るのか、登山の楽しみは何なのか。あれこれ尋ねても「まあいろいろと」「まあ何となく」「まあ適当に」みたいな返答ばかりで、どんなスタイルで山に登っているのかが全く目に浮かんでこない。

 都合の悪いことを言いたくないばかりにのらりくらりやってる風にも見えたのでしょうか。「山本は本当に山を登っているのか」と言い出す人が出てくる始末でした。ただ、山本君が休日に実在の山を登ろうが妄想の山を登ろうが業務には何の関係もないため、山本君に「君は本当に山を登っているのか」と問い詰める人はいませんでした。社会人として当然の判断だと思います。

 そんなある連休明けのことです。山本君に挨拶をすると、相変わらずほんわかはしていましたが、どこかうなだれていました。理由を聞くと、彼は珍しく具体的な話をしてくれました。

 連休というわけで、山本君は近くの山を登ろうと思い立ったそうです。山本君の登山スタイルは、その日の朝に「今日は登るか」と思い立ち、その辺を散歩するようなノリで登山に向かう感じだったようです。当日の朝に決めるくらいですから、装備も散歩スタイルでございまして、要は軽装でございました。

 当日の朝に決めるくらいですから、登山ルートも「分かれ道に遭遇したら、どっちに行くかその時決める」という無計画スタイルでございました。それでも今まではなぜか無事にやってこれたようなんですけれども、しっかり準備していても事故る時は事故るのが山です。ロクに準備をしないスタイルを貫いてきた山本君、いよいよ道に迷いまして、日帰りの予定が軽装のまま山で一泊する羽目になってしまいました。

 ただ、山本君は自分なりに登山の勉強をしていたのか、緊急時の対処法はそれなりに心得ていたようで、「夜になったら下手に動かない」「迷ったら沢を下らない」「できれば来た道を戻る」など山登りの基本には忠実だったようです。軽装の割には食べ物も充分に持っていたようで、特に怪我や空腹に悩まされず、翌朝に行動を再開した山本君は無事に帰宅できました。当然ながら家族は大激怒したそうで、無期限の登山禁止令が出されたそうです。

 そんな大変なことを、いつものようなほんわかした口調で話すものですから、事の緊急さがいまいち心に入っていかず、なぜか私は思わず吹き出してしまいました。話を聞いた他の同僚も私と似たような感想を抱いたのか、山本君は「たまの連休に遭難して、ちゃんと帰って来た男」としてその名を職場に轟かせていきました。

 それからの山本君は登山禁止令をちゃんと守っていたようで、何なら登山に代わる新しい趣味も見つけたようです。でも、山本君に新しい趣味の話を聞いても「はあ、まあ」と、またもや要領を得ない回答ばかり。

 そのうち登山のような事故を起こして、でもちゃんと無傷で出社してくるのかと勝手に思っていましたが、私が転職してしまったため、事の顛末は分からないままです。残念と言えば残念ですが、そうでもないと言えばそうでもない。でも、ネタにできないと思うと、比較的残念寄りなのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?