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習い事を開拓しておくべきだった

 人は経験から判断しがちです。未知のことに遭遇し、何らかの判断を迫られた時、どうしても今までの経験にヒントを求めてしまう。「未知なんだから経験に頼ってもさ」と言ったところで、人はなかなか新しいものを生み出せはしませんし、生み出したところで使う勇気が出ないかもしれない。よそから新しい情報を持ってくるという対応策もあるでしょうが、持ってきた情報がちゃんとしているのか分からないと不安で活用できない人もいるでしょう。とにかく、いろんな理由により、人はまず知ってる知識、つまり経験をまず使うことが多い。

 未知の出来事だってそうなんですから、既知の出来事なんてなおさらそうでしょう。だから、自分がやっていた習い事を子供にもやらせる人がいる。もちろん、全ての人がそうではありませんが、私が見る限りなかなかの頻度でいらっしゃいまして、親戚はもちろん、友人知人の中にもそういう人がいます。勝手知ったるもののほうが親としては安心なのでしょう。お気持ちはよく分かります。

 自分がやっていた習い事を子供にやらせる場合、その習い事は親の世代から世間に根付いていますから、言わば王道寄りのものが圧倒的に多い。ピアノだったり習字だったり、野球だったりサッカーだったり、どの街にも大抵は教室が存在し、指導法も確立されている。そういう意味では安定感のある習い事と言えましょう。親御さんの安心には根拠があるわけです。

 私の母もまた子供に安定感のある習い事をさせていました。ピアノとか習字とか、見事なまでの王道寄りでございました。何しろ王道ですから、近所に住んでいる子たちも結構通っていました。兄弟姉妹で通っている子もいましたし、私の家もそうでした。

 それからだいぶ時は流れ、姉が結婚し、子供もそれなりに大きくなると、姉は子供にピアノや習字を習わせ始めました。彼女もまた、勝手知ったる習い事を子供にさせようと思い立ったんです。

 私が子供だった頃、何の疑問も抱かず両親が勧める習い事をしていました。ひょっとしたら、姉の子供も両親に「行きなさい」と言われたから何となく通っているだけかもしれない。

 私は何の疑問も抱かず通っていたことを今更ながら後悔しました。もし、私にもう少し自我があり、自分で習い事を選びたがる子供だったら、どうだったでしょう。場合によっては、他人と違う習い事をしたいと考えたに違いない。もしそうだったら。

 例えば、幼い私がセパタクローを習いたくなったとします。理由なんてありません。事の始まりは時に原因不明の衝動から始まるんです。

 きっと親には反対されるでしょう。セパタクローなんてゲンゴロウの親戚くらいにしか考えてくれないかもしれない。しかし、自我に目覚めた私は諦めません。地元で唯一のセパタクロー教室を根性で見つけ出し、両親に「通いたい」とねだり、どうにか許可を得たとします。嬉々としてセパタクロー教室へ通い続ける私を見て、姉も弟も「通いたい」ときっと言い出すでしょう。その頃には両親もセパタクローに対する理解が進んでいるはずですから、恐らく通わせてくれるに違いない。

 セパタクローを経由して大人になり、結婚して子供を生んだ姉は可愛い我が子を暖かい目で見つめながら、きっと当然のようにこう思うはずなんです。「この子にもセパタクローを習わせよう」。姉の子供は何の疑問も抱かず、地元のセパタクロー教室に通い、毎週のようにせっせとセパタクローに励んだに違いありません。

 本当に惜しいことをしました。悔やんでも悔やみきれません。

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