見出し画像

改造「ごん狐」、驚愕のラスト

 子供が学校で演劇をするのは、それなりに続いている伝統のようです。演劇というからには、舞台に出ずっぱりの主人公から、数秒しか出ない端役までいる。どちらがいいという話ではなく、登場人物にはそれぞれ課せられた役割があり、適切な登場時間というものがある。そして、物語とは往々にしてそういうもので、全キャラ出ずっぱりがいいわけではない。

 しかし、幼い子供が学校でする演劇となるとそうはいきません。この手の劇は学芸会とか学習発表会とか呼ばれ、ほぼ必ず親御さんたちに披露される。「主役も大切だし脇役も大切」なんて陳腐な演劇論なんか、「大事な我が子が2秒しか舞台に上がらないんじゃ納得いかない」という怒りの前では軽々と吹き飛ばされて終わりです。結果として主要人物を何人かの子供が担当することになり、場合によっては全員が揃って舞台上で同じ人物の演技をする。つまり、同じ人物が複数人いる、ド派手なドッペルゲンガー演劇が展開されるわけです。

 演じる子供は何となくそういうもんだと思い、観劇する大人たちは何となく事情を察しているためか、ドッペル演劇は主に小学生以下の学芸会や学習発表会で長らく続けられているようです。それ自体には何の問題も感じませんが、主要キャラを強制的にドッペルしてるせいか、たまに不思議な現象が起きるようです。

 「ごん狐」という有名なお話がありますね。新見南吉が18歳の頃、元猟師の間で言い伝えられていた話をもとに書き上げた作品で、初めて発表されたのは1932年だそうです。それを鈴木三重吉によって一部書き換えられたものが1956年に国語の教科書へ初めて採用されます。以降、現在に至るまで教科書の定番悲劇として子供たちを地味にへこまし続けています。

 大体のあらすじは以下の通りだったと記憶しています。

 イタズラが好きな狐の「ごん」が、兵十という男の獲ったウナギをイタズラして逃がしてしまう。しかし、それは兵十が病気の母親のために用意していたものだと、兵十の母の葬列を見て悟ったごんは反省し、償いとして栗や松茸を兵十の家の前に置き始めた。しかし、ある日、いつものように貢物を持って来たごんは兵十に見つかり火縄銃で撃たれてしまう。そこで貢物を見つけた兵十はようやくごんが栗や松茸を持って来てくれていたのだと知る。

 「ごん、おまえだったのか。いつも、栗をくれたのは。」という兵十のセリフは悲劇を象徴する言葉として読者の心に強く残ります。有名なお話で、話も分かりやすく、登場人物も限られているためか、学校の劇にしばしば選ばれているようです。

 友人の息子が通っている学校もそうでした。もちろん、主役がドッペルなのは既定路線です。その時の「ごん狐」は、ごん8匹に対して兵十ひとり。どういうバランス感覚かよと思いながら、物語はラストに向かって突き進みます。ごんが見つかる。兵十が怒って火縄銃を手に取り、引き金に指をかける。

 ダーン!ダーン!ダーン!ダーン!ダーン!ダーン!ダーン!ダーン!

 火縄銃の弾は1発ずつしか出ませんから、当然ながら1匹ずつ始末する羽目になります。8匹のごんは律儀に順番を守りながら凶弾に倒れてゆきました。一通り撃ち終えた兵十はもちろん言います。「ごん、おまえだったのか」。いやいや、絶対に途中で気づいてたし。何なら中盤から狐狩りを楽しんでた疑惑まであるし。

 友人はそこが1番面白かったと言ってました。「あなたは父親なんだから素直に息子の晴れ姿を見て感動しないと」とツッコんだら笑ってました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?