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『濹東綺譚』永井荷風を読んで

“溝の蚊の唸る声は今日に在っても隅田川を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変わりなく、場末の町のわびしさを歌っているのに、東京の言葉はこの十年の間に変われば実に変わったのである。”


誰しもが、「物語を生きている」と、そう思う。


「煙草屋までの旅」という言葉があって、気に入ってる。


意味は、歩く人が歩けば、例え近所の煙草屋までの歩みだったとしても、異国に旅するほどの情味を感じることができる。と解釈。


同じ道を歩いても、同じ場所で過ごしていても、人によっては、林檎と野球ボールくらい違う時間がそこにある。

綺=あやぎぬ・譚=物語る


『墨東綺譚』は語り手の“私”が、明治、大正、昭和と変わり果ててしまった東京の下町を歩く。


「変わり果ててしまった」というくらいなので、当時の昔、明治の生まれの人。

“今年の夏も、昨年、一昨年と同じように、毎日まだ日の没しない中から家を出るが、実は行くべきところ、歩むべき道がない。”


散歩の目的は、執筆中の小説の舞台を視察するためと、隣家のラジオの騒音を避けるためと、さまざま。

“そのころには男を「彼氏」といい、女を「彼女」とよび、二人の詫住居を「愛の巣」などと云う言葉はまだ作り出されていなかった。馴染みの女は「君」でも、「あんた」でもなく、ただ「お前」と言えばよかった。亭主は女房を「おッかあ」女房は亭主を「ちゃん」と呼ぶものもあった。”


着物は洋服に変わり、開発によって景観も変わり、暮らしの洋化する中で、言葉も変わって行ってしまった。

時代は、進み変わり続ける者にいつも開かれている。大勢の取り残された人間を背後に。


いつの時代の年寄りも、また自分自身もいつか感じることなのかもしれないけれど、まるで、母国に居ながら、異国になっていくかのような惨事。


漢文の本を携え歩く“私”の歩みは
実のところ“自分の生きた時代の名残り”を求めて止まないように感じる。


そんな私が巡り合うのが芸妓“お雪”だった。

“衣紋竹に掛けた裾模様の単衣物に着かえ、赤い弁慶縞の伊達締を大きく結ぶ様子は、少し大き過るの潰島田の銀糸とつりあって、わたくしの目にはどうやら明治年間の娼妓のように見えた。”


足繫く通ううち、私はお雪から好意を寄せられるようになっていく。


“私”にとって、お雪はやっと見つけた憩いの場所だった。


“私”と世間は、共有すべきものを、次々に失っていき、“私”の孤独はいよいよ深まるばかりだった。


時代の流れが、容赦なく個人の生活にまで流れ込んでくるさまを、現代に生きる私たちは痛いほど知っている筈なので、古いはずの本書が、却って、今の人に共感されるのではないかと思う。

“このような辺鄙な新開地に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのだった。況や人の一生に於いてをや。”

世界ではなく世間


やっと安息の地を見つけたかに思えた“私”はお雪の恋によって、現実へと連れ戻される。

“「ねぇ、あなた」と突然わたくしの手を握り、「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」”


願ってもない話ではないようで。
“お雪”の好意を受け取れない訳も、“私”には存在する。

“彼女たちは一たび其境遇を替え、其身を卑しいものではないと思うようになれば一変して教う可からざる懶婦となるか、然らされば制御しがたい悍婦になってしまうからであった。”
“お雪の後半生をして懶婦たらしめず、悍婦たらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗の経験にのみ富んでいるわたくしではなくして、前途に猶多くの歳月を持っている人でなければならない。然し今、お雪はわたくしの二重人格の一面だけしか見ていない。わたくしはお雪の窺い知らぬ他の一面を曝露して、其非の一面だけしか見ていない。それを承知しながら、私が猶躊躇しているのは心に忍びないところがあったからだ。これはわたくしを庇うのではない。お雪が自らその誤解を覚った時、甚しく失望し甚しく悲しみはしまいかと云うことをわたくしは恐れて居たからだ”


“私”の降参だった。


“私”の生活はか細い。
食べていくためには、なんでもしなければならないと、今日を生きる人の力強さを私は当に無くしてしまっている。

“お雪の後半生をして懶婦たらしめず、悍婦たらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗の経験にのみ富んでいるわたくしではなくして、前途に猶多くの歳月を持っている人でなければならない”

前途に猶多くの歳月を持っている人という言い方はどうだろう。

実のない虚飾に感じる。

年数ではなく、前途に希望を持って生きている人とするとしっくりくる。


失い続ける人は失い続ける人やものと
進み続ける人は進み続ける人やものと


同類とは固く結びつきこそすれ、異者とは相容れない。

“窓の外の人通りと、窓の内のお雪との間には、互いに融和すべき一縷の糸の繋がれていることである。(略)窓の外は大衆である。即ち世間である。窓の内は一個人である。そしてこの両者の間には著しく相反目している何者もない。これは何に因るのであろう。お雪はまだ年が若い。まだ世間一般の感情を失わないからである。お雪は窓に座っている間はその身を卑しいものとなして、別に隠している人格を胸の底に持っている。窓の外を通る人はその歩みを此路地に入るるや仮面をぬぎ矜負を去るからである。”


“私”はお雪の元から足を遠のかせる形で自然とフェードアウトしていく。


本書を読んだ人は“私”をどのように受け止めて読んだのだろう。


紳士が火傷する前に手を引いた恋愛談なのか
老年の郷愁を描き、懐古に郷を添える一冊としてだったのか

感想

数読目で印象がガラリと変わった。

当初、浅草公園から始まる玉ノ井へかけて始まる“私”の歩みの、どことなく飄々として、目に映る景色から詩情を汲み上げ、街と人との変わりようを鋭く斜視した文章の一つ一つに読みふけった。

お雪との展開がなければ、その美しい描写や、懐古を楽しむこともできたかもしれないが、お雪との出会いによって次第に一皮、一皮と向かれていく“私”の人間を考えていくうちに、“私”のかぼそさや、弱さといったものが、次第に眼に留まるようになる。


生活のかぼそさ。


これが人を蝕む。


“私”は漢詩に慣れ親しんで、古書を持ち出し、東京の旧観を古書より懐かし見ながら歩む。

古本屋にいくのも、むかしと変わらない店主と会いにいくため。

“お雪”に会いにいくのは、自分の青春を懐古するため。現実逃避。


『濹東綺譚』は新聞に連載されたと在って、当時の読者から迎合され、知識人からの評判も高かったとあるが、それも頷ける。


当時の日本は洋風化一色だったから。
渦中にいた人々の混乱は甚だしかっただろう。
廃仏毀釈とか、浮世絵などは、輸出陶器の包み紙されていたというくらいだから、想像できないほど、“私”と同世代の人々の価値観への破壊は恐ろしかったに違いない。


そんな
失い続ける人は失い続ける人やものと
進み続ける人は進み続ける人やものと


を隔てる壁を、娼窟の窓の女と世間とを対比させ、描ききったのが『濹東綺譚』の最大の魅力なのではと感じる。


感情的な読み方をすれば、“私”の諦念が、どうしても気に入らなかった。


すべての人間がデフォルト的に、時代を背景に生きているとは言え


街を歩けば着物を着て歩いている人に出会えるし


自身が生産者となって牧歌的な生活を送っている人
もいる


世界はかわってしまったかわってしまったと嘆いたところで

個人に見えているのはせいぜい隣家の庭くらい


世界と称しているのは狭量な世間でしょう、と。


年寄りは年寄りらしく
若者は若者らしく
男は男らしく
女は女らしく


馬鹿も休み休みに云えと。
“私”とであったのならこんな話をしてみたい。


再読必至の一冊です。

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