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【読書感想文】フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』

『グレート・ギャツビー』を読むと、もちろん感動し、感傷的にもなるのだが、結構捨て置けない感情が残る。非常に幼稚な感想なのだが、幼稚な感想文の体で書くと「ギャツビーの周りの人間がひどい人間ばかりで、ギャツビーが可哀想だと思いました」という感じである。ギャツビーの恋人のデイジーは女を轢き殺してしまうが、罪をギャツビーにかぶせる。少なくとも名乗り出ず、夫トムにも真実を秘す。トムはギャツビーが轢き殺したという示唆を、被害者の夫に示す。被害者の夫はギャツビーを射殺して、自殺する。デイジーとトムは行方をくらます。今までギャツビーにたかっていた連中は一斉に姿をくらます…見事な「醜い塵芥(ちりあくた)」どもである。
その中で話者であるニックだけは、誠実・公正な視点で、観察し、行動する…と思っていたのだが、今回読み返すと、ニックすらも不誠実である。恋人のジョーダンを、電話一本で振るのである。ジョーダンに不誠実を責められたニックは「僕は30ですよ。自分に嘘をついてそれを誉と思うには、5歳ばかり年を取りすぎたんですよ」と弁明する。
…あんまり答えになっていないような気がする。かっこいいけど。
というわけで、流麗で美しい文章が織りなすこの小説であるが、不誠実な塵芥どもの本性というのも、非常にうまく描写している。私がこの小説を読んだ後に心地の悪い高揚感を覚えるのも、そのせいである。

だが、そんな心地の悪さを差し引いてでも、私の『グレート・ギャツビー』に対する畏敬の念は変わらない。
青春とは、思い出との距離であることをフィッツジェラルドは知り尽くしている。エンディングになるにつれて、ギャツビーとの思い出との距離は、どんどん広がってゆく。ついには思い出を通り越して、ニューヨーク(ニューアムステルダム)を初めて発見したオランダの船乗りにまで思いを馳せる。
この思い出との距離こそが、青春のほろ苦さであり、切なさなのである。
灯台の緑いろの灯を「夢」とたとえる。人生を「舟」とたとえる。夢を物理的なもので例えながら、結局はすり抜けてゆくものであると捉えている。過去に逆らって生きることが、未来と考える。この諦念感は何だろうか。みずからも酒と乱痴気騒ぎに明け暮れて、あの狂騒の時代にのめり込んでいるように見えた男が、狂乱の真っ只中の1925年でこれを書いている。このときスコット・フィッツジェラルド、29歳。
フィツジェラルドの人生は、彼の予言どおりにことが進む。大恐慌の後、狂騒とともに、フィッツジェラルドはひとびとに忘れ去られてゆく。若き日に大成功に引きずられながらも、フィッツジェラルドはなお、書き続ける。借金にまみれ、アル中に苦しみ、発狂した妻の面倒をみ、映画のシナリオの下書き屋にまで転落しながら、なお、舟を漕ぎ続ける。1940年、フィッツジェラルド死す。44歳。
読み返すたびに、圧倒される。抒情的で、切ない。

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