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続・活版印刷職人ドラードの話

天正遣欧使節団の随行員だったコンスタンチノ・ドラードは1567年諫早生まれの日本人である。長崎県諫早市の諫早市立図書館にドラードの銅像が掲げていられているが、諫早市の印刷会社・昭和堂が顕彰を込めて寄贈したものであり、ドラードが混血児だったかどうかを含め詳細は不明である。

遣欧使節には伊東マンショ、千々チゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人の少年が使節に選ばれたが、随行員にはドラードのほかアグスチーノといった日本人少年も従っていた。

伊東マンショ(長崎歴史文化博物館、光山撮影)

遣欧少年使節団は1582年に長崎を出港し、ポルトガルのリスボンでドラードやアグスチーノら日本人3人が活版印刷術および活字の製造技術を学んでいる。1586年に使節団はグーテンベルク印刷機1台を船に載せて帰路についた。

帰途のインド・ゴアで1587年、原マルティノが演説をするが、その原稿をドラードが印刷している。これこそ日本人による最初の活版本である。

ドラード印刷「原マルチノの演術」(同)

1590年に使節団は長崎に着き、グーテンベルク活版印刷機は肥前有馬領の加津佐のコレジヨに置かれ、1591年、ローマ字つづりの日本語で『サントスの御作業』が印刷された。これが日本国内で印刷された最初の金属活字本である。

それから7年間もの間、少なくとも47種の本が印刷された。平均1500部、多いときは3000部を数えたと言われている。この「キリシタン天草版」は「どちりな・きりしたん」などの信仰書のほか、「平家物語」なども印刷されており、12種が現存している。1592年には日本初の国文国字金属活字(草書体の平仮名と漢字)で綴った『ばうちずもの授けよう』が刊行されている。

グーテンベルク印刷機は1597年に長崎に移され14年間にわたって現存するものだけでも15種が印刷(キリシタン長崎版)されるが、1614年に徳川家康がキリシタン大追放令を発したことで、キリシタン版の印刷技術は完全に途絶えた

コンスタンチノ・ドラードはグーテンベルク印刷機とともにマカオに追放され、1618年に現地のセミナリヨ院長になり、その後まもなく死んだらしい。

金属活版印刷を始めて行ったのはほかでもないコンスタンチノ・ドラードであり、キリシタンは天草、あるいは長崎で確実に国字を製造した。しかし活版印刷の父はやはり本木昌造であるといえるだろう。ドラードらのキリシタン版は日本史に異彩を放ったとはいえ、その技術は1614年に完全に途絶えたのである。

参考文献

王崔芹『日本初のグーテンベルク印刷機の歴史的意義』






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