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映画『イエスタデイ』とビートルズのオリジナリティについて

日本を代表する「総合司会者」にして映画監督でもある内村光良さんがとある番組で『イエスタデイ』という映画を強力にプッシュしていたので、私もアマゾンプライムビデオで観ましたが、よかったですねえ。全編にビートルズのナンバーが散らばめられ、改めてビートルズの素晴らしさを再確認しました。All You Need Is LoveとかHey Judeなどはもちろんですが、Help!やI Saw Her Standing Thereなどのアレンジもとてもよかった。ロックンロールですねえ。

この映画は「もし世界中の人々がビートルズという存在を忘れてしまったら」という設定なのですが、もう設定勝ちですね。唯一(正確には3人だけど)ビートルズを覚えている、売れないアーティストである主人公が、ビートルズのナンバーを歌いまくって破竹のようにスターダムにのし上がる、という鉄板の展開になっています。

ストーリーもオチも大好きですが、私の一番気に入ったシーンは、主人公が現代のトップアーティスト(エド・シーラン本人!)と新曲の出来栄えを披露しあうシーン。エド・シーランもPenguinというなかなかの曲を披露するのですが、対する主人公が歌ったのがビートルズのThe Long and Winding Road.あまりの名曲に周囲は静まり返り、エド・シーランは打ちひしがれて、こういいます。「彼がモーツアルトで、僕がサリエリだ」と。

ビートルズをリアルタイムには全く知らず、ビートルズから大きな影響を受けたオアシスなどの曲に慣れ親しんでいる私たちからすると、今さら打ちひしがれたりはしないでしょうけれども、YesterdayやThe Long and Winding Roadを初めて聴いた60年代の若者の反応は、たぶんこうだったのではないかな、と想像します。感銘し、声を失う。あるいは熱狂して受け入れる。

ところがですね。当時の同時代人からすると、実は必ずしもそうではないようなのです。もちろん熱狂的なファンにより社会的現象になりました。ビートルズの日本公演では、全国の学生が学校をさぼったり、日本武道館にたどり着こうとお堀を泳いで渡ったりしたそうです。

しかし多くの人々、特にエスタブリッシュメントにとっては、不快な存在だったようなのです。

村上春樹さん(1949~)はこう記しています。

彼らの音楽は一過性の大衆音楽と思われていたし、クラシック音楽なんかに比べるとずっと価値の低いものだと見なされていました。エスタブリッシュメントに属する人々の多くは、ビートルズの音楽を不快に感じていたし、その気持ちを機会あるごとに率直に表明しました。特に初期のビートルズのメンバーが採用したヘアスタイルやファッションは、今から思うと嘘のようですが、大きな社会問題になり、大人たちの憎しみの対象になりました。ビートルズのレコードを破棄したり、焼き捨てたりする示威行動も各地で熱心におこなわれました。

村上春樹『職業としての小説家』(文庫版97~98頁)

村上春樹さんは大要、オリジナリティのあるものはむしろ保守派によって拒絶されるものであり、後世評価されるものだとしています。その例としてストラヴィンスキー、マーラー、セロニアス・モンクらの初演に対する人々の反応を挙げています。

というわけで、いかにオリジナリティがあり、普遍的とさえ思われるビートルズも、最初はそんな反応だったのでしょう。

ちなみに同世代の母は「初期はカバー曲が多かった。オリジナリティはない」という説を主張しています。まあこれもよく言われることですよね。

ともかく、映画も音楽も、名作といえども意外に評価は定まらないのではないでしょうか。

まあ僕は、Yesterdayを同時代に初めて聴いたら、泣く自信ありますけれどもね(笑)

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