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廃藩置県を待たずに取り潰された福岡藩の話

幕末の福岡藩の動きがわからないというご意見をnoterさんからいただきました。今日は福岡藩の幕末・明治の動きについての話。

先日の記事で福岡藩は最後まで佐幕を貫いたと書きましたが、語弊がありました。

福岡藩は実は土佐の中岡慎太郎や坂本龍馬に先駆けて長州斡旋を行い、長州にいた尊王攘夷派公家の三条実美ら五卿を大宰府に移転させるのに成功するなど、一時期尊王攘夷運動をリードしていたのです。ところが幕府の第二次長州征伐を機に佐幕派の藩主・黒田長溥が盛り返し、尊攘派の月形洗蔵らを一掃しました(乙丑の獄)。

これを機に藩政は佐幕派になったのもつかのま、倒幕派の薩摩・長州同盟が成立、徳川慶喜は大政奉還を行ないました。
あわてた福岡藩は、鳥羽伏見の戦いで一転倒幕に参戦、黒田長溥は佐幕派の重臣を切腹に処して新政府に恭順を誓うのです。東北戦争では2330人を出兵、戦死者84人を出すなど多くの血を流しました。

そこまでして難局を乗り切ろうとした福岡藩ですが、戊辰戦争で財政が傾いた福岡藩は、贋札を密造、これが新政府に露見されてしまいます。贋札密造は各藩でも行われていたのですが、なにせ福岡藩は大藩、金額の大きさもあり、また新政府による各藩への見せしめという意味もあって、明治4年7月2日、最後の福岡藩の殿様・黒田長知は藩知事を罷免されます。

みなさんは廃藩置県をいつと教えられましたか?明治4年7月14日です。というわけで福岡藩は全国に先駆けて廃藩の憂き目にあってしまうのです。西郷隆盛は「あほうの筑前」と呼んだとか呼ばないとか。

黒田家とその家臣団は東京に去ってしまうし、残った旧藩士は西南戦争に呼応して明治9年に福岡の乱を起こすもとん挫、102人の死者を出します。
旧福岡藩の人々は玄洋社を結成、自由民権運動など在野での活動を余儀なくされます。明治23年に肥前出身の大隈重信外相に爆弾を投じて片足を奪うなどの暴挙に出たのも、玄洋社の頭山満が大アジア主義者として政界に隠然たる力をもったのも、まあ新政府の藩閥政治に完全に乗り遅れたからといえるでしょう。

というわけで、黒田家がなんとなく福岡市民にとって触れられない理由がお判りいただけたでしょうか。今晩はこのへんで。

参考文献

福岡市博物館監修『福岡博覧』

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