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田中吉政―ふたつの水都を結ぶ線

西鉄天神大牟田線の福岡天神から柳川まで40分の距離を、「水都」という特別電車が走っている。文字通り柳川は有明海から引いた水路を巡らせた水の都だ。

柳川(2021年3月25日光山撮影)


柳川の大名といえばみな立花宗茂たちばなむねしげを連想する。実は福岡市東区にある立花山を根城とした大友系の立花氏の当主で、福岡市にもゆかりがあるのだが、島津の大軍を立花山で食い止め、秀吉と合流して九州征伐に貢献したことから秀吉の配下となり、朝鮮出兵でも活躍、柳川を与えられた名将である。地元の愛着度も高く、正妻の誾千代ぎんちよとともに大河ドラマの主人公にしようと熱心に運動している。


立花宗茂と誾千代(2021年3月25日光山撮影)

ところが、徳川幕府開府の際に柳川を含む筑後の国主となったのは彼ではなく田中吉政たなかよしまさという武将である。立花宗茂は関ケ原で西軍に付いたためお取り潰しとなり、流浪の将となった。代わって関ケ原で石田三成を捕縛するという大功を挙げた田中吉政が柳川32万石の大名となる。

柳川といえば立花宗茂(と鰻と北原白秋か)というわけで、初代柳川藩主・田中吉政の影は薄いが、しっかり銅像が建てられて顕彰されている。実は水都・柳川のグランドデザイン(掘割)を行なったのは、他でもない田中吉政なのである。


田中吉政像(2021年3月25日光山撮影)

田中吉政は近江国高島郡田中村の出身で(諸説あり)、関ケ原直後に石田三成の居城・佐和山を攻めて、生駒山に逃亡した三成を捕縛できたのも、このあたりの地理に詳しく、追っ手を名乗り出たからという説もある。捕縛された三成は田中吉政に秀吉下賜の名刀を託すのだが、もともとそういった縁でつながっていた。
順序が逆になったが、秀吉の配下となった田中吉政は豊臣秀次の重臣となり、秀次の居城である近江八幡の掘割に携わる。近江八幡に行ったことのある方はもうお分かりであろう。近江八幡も水路を巡らせた水都であり、観光客を乗せて揺蕩う小舟の姿も含めて、柳川とそっくりなのである。

近江八幡(2018年10月24日光山撮影)。柳川と区別がつきますか?

私はこの3年の間に、関西から福岡に引っ越した関係で、近江八幡にも柳川にも訪れたが、田中吉政という男が、謎を解く鍵となっていることを知って、感慨を深くした。旅の面白さはこういうところにある。
ちなみに田中氏は二代で絶え、立花宗茂が奇跡のカムバックを果たす。西軍出身でありながら大名に復帰したのは、立花氏だけである。

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