何を選び取るかと同じように、「何を選ばないか」も自ら決める。

一ヶ月弱の日本出張を終えて思うところがあったので、成田空港でこの見出しを書き出した。

講師業をさせて頂いているのだけれど、とてもありがたいことに、noteを読んでワークショップにお越しくださる方もけっこういらして、とても勇気づけられる(気恥ずかしいけれど)。いつも自分の心をかなり掘り下げながら書いているので、更新速度は非常に遅いのだけれど、自分を含め、生きづらさを感じている人の心を少しでも楽にできれば…と。

こちらの読者の方は、時間をかけて長文を読まれるのがお好きな方が多いと思っています。毎回かなりのエネルギーを使って書いているので、ゆっくりお待ち頂き、リラックスをして読みながら、何かしらのメッセージを受け取って心の荷を軽くしてもらえるのなら幸いです。

今回は、「“何を選択するか”がその人の人生を決めるように、”何を選ばないか”を能動的に決めることも、人生を形作る助けになるよ」というお話。


おしゃべりでおせっかいな広告

ちらりとニュースを見たら、日本には外国に比べ、たくさんの「選択」があふれているのだという。携帯電話の色から、洋服の色から、メーカーは実にさまざまな選択肢を提供し、そこに個性を持ってもらおうとしている。

北欧なんかが「センスがいい」と言われているのは、基本貧しくて行くべき家具屋がIKEAくらいしかないからだ。選択の幅がとても狭いからこそ、「同じ空気感を持つ」ものを買いそろえ、外さないコーディネイトが生み出せる。

日本人にはセンスがないというよりも、ものや選択があふれすぎているので、強い意志を持ってインテリアに統一性を持たせることが至難の業だというだけだ。

逆に、別の情報番組によると、選択をし続けることが苦痛な人も多く、毎月定額を払って「服のコーディネイト」をプロにお願いするサービスも盛況なようだし、必要最低限だけを揃え、ものを極力持たない人というのも増えているという。

首都にデパートがひとつしかないような、全体的に質素な国から行くと、コンビニは24時間開店し、ひとつの駅に10近くものデパートが肩を寄せ合うように立ち並んでいる日本は、土地全体がものすごく、よく言えば多様な、悪く言えば雑多なエネルギーを持っている。


わたしは、広告業界にいたくせに、(いたからこそ)広告がものすごく苦手だ。

いつでもどこでも、ひとつの商品に対したくさんの会社が高いクオリティのものを作り、「選んで」もらおうと広告やコンセプトデザイン、パッケージデザインに莫大な予算をかける。

駅へ向かえば、ホームに立てば、電車に乗れば、ありとあらゆる方向から「見ろ、聞け、選べ」という色彩と音と文字のプレッシャーがかかる。ものや人の持つ色や情報、エネルギーに敏感な自分は、過度にメッセージを受け止めてしまって、疲弊してしまうのだ。


レストランのメッセージは、「あなたが食べたいものはこれだ!」と主張して、「いま本当は自分が食べたいと思っているもの」に気づく感覚をにぶらせる。

エステやダイエットの広告は、「あなたはそのままではいけない」「痩せなさい」と言い、今のままの自分を愛することを許さない。

審美歯科であれば、「歯並びがよくなければいけない」「矯正しましょう」「でなければ仕事は取れませんよ」と言ってくる。

ファッション誌には、「○○才の女性なら、こういう服を着るべき」と諭され、身の丈では考えられないくらい高い服をおすすめされる。

「勝つにはこれだ」「便利なのはこれだ」「○○を持っていないなんてありえない」「あなたにはこれが足りない」「あなたにはこれが必要」「こうあるべき」「他より安いから乗り換えろ」……


日本製品はクオリティが良いし、食べ物もとてもおいしい。サービスもとても良い。言われるまでもなくわかる。

そのとき必要で、いいものならば自分で動いて選ぼうとは思うのだが、そうではなく、「これが足りないよね!これがあれば!」と人の内部まで踏み込んでこられる不快感があるのだ。それは目をつぶっても皮膚にささるようで、テレビを流しっぱなしの実家の居間は、いるのがとても苦痛だ。

四六時中、要らないおせっかいをされ続けている感覚。広告だけではなく、この国には、そういう広告も、そういう人も、たくさんいる。


わたしは、きっと成人する前から、自分に何が必要かは、自分で決めたいと望んできたし、できるかぎりそうしてきた。

自分が納得できないことはやらない、「みんながやっているから」に無駄に抵抗する。そのために、正規ルートをかなり外した珍奇な人生を送っていて、苦労も多いのだけれど、面白いことも多いし、向き合うしかしょうがないなと思っている。

自分の人生のありかたは、選択と行動の積み重ねによってのみ、作れると思うからだ。

自分の幸福が自分の責任なのならば、何を選びとるかはすべて、本来わたしの意志の上になければならない。

それをさせない窮屈さが、とても居心地が悪いのだ。

自分で選んだつもりで、「選ばされていやしないか」という猜疑心を持つことも。


たくさんのものを持っている人が「しあわせ」なのだろうか?

このnoteではよく、惑わされるべきでないとして非常によく「幸せテンプレート」の例えを出すのだけれど、その「世間一般的にしあわせな人生」と言われ、多くの人に憧れられるお約束のストーリーラインは、けっこう複雑だ。

そのストーリーラインに乗ることができなかったとして、受験への失敗をきっかけに自殺をしてしまった親子がいたという。悲惨すぎて言葉が出ないくらいなのだけれど…


多くのものを持とうとするほど、人は身動きが取れなくなる。

愛する人、家族、家、財産、仕事、肩書き、人間関係、コミュニティ、趣味…

そして、全てにパワーと時間を傾けられるほど、人生は長くはない。どうしたって、優先順位を決めなければ、どれも深い喜びを知らぬままに終わってしまうだろう。というよりも、全てを完璧にすることは、物理的に無理なのだ。

世の中は「足りない」「欲しい」であふれているけれど、本当に?本当に足りていないんだろうか?

例えばイチローが野球以外の色々を「あれもこれも」と満たそうとしているようには思えない。しかしそれは決して不幸とイコールではない。他を犠牲にし、何かに集中して打ち込むことには、何倍の苦労もあるけれど、大きな成果も喜びも待っている。

イチローほどの例でなくても、ひとつのことに打ち込み、それに関連する最低限だけでシンプルに満たされている人というのは、わたしにとってはとても幸せに見えるし、そうなりたいと思う。


逆の例を出せば、日本にいたときには疑問に思わなかったのだけれど、あらためて「朝ドラ」を見てみると、「こんなのありえないから」というストーリーラインが主だ。

女性でありながら、男性社会の中に入り込んで大活躍し、同時に理解のある素敵な男性に出会い、愛し愛され、相手の親とも打ち解け、実の親や周囲にも恵まれているので、仕事をしながら出産と子育てをし、職業人として、妻として、母として、いろいろありながらも結果成功する。

ありえないから。いや、ありえるとしても、宝くじ一等に当選できるほどの希少レベルだし、しなくちゃいけない努力量、出会い・恋愛運も半端ない。よく考えなくても自分を投影なんてできなかった。ヒロインたちは、ドラマの中でたくさんのものを手にしている。キャリア、パートナ、子ども、環境…

こんなことをできるミラクルスーパーウーマンを、どこにでもいるような庶民的な描き方で見せるから、「幸せの良い見本」としてしまうから、いけない。

わたしは健康面に問題があるので、こんなキャパオーバー生活をしなければならないとなると、幸せよりも心身の苦痛が勝ってしまうだろうと思う。何より、結婚や出産のくだりを含め、限られた人生の中で、あらゆる全てを手に入れようとすることは、わたしにとって必ずしも「自分が思う幸せ」には結びつかないのだ。

たくさんのものを持っている「完璧な女性像」、幻覚のようなそれを無理に追いかけた時期もあるけれど、そのときは、ありえないほど不幸せだった。今これだけつらくて、ゴールにたどり着いたら幸福になれるとは、ちっとも思えなかった。しかも人を巻き込んでしまったので、あとあとものすごく傷が残った。

同様にきっと誰もが、自分の心と向き合えばそれぞれの幸せがあるはずで、それがたとえ「一般論」と違っても、自ら選び集中することができるのなら、その他にあれもこれもを持たなくても、十二分に満たされるはずだ。

10個のことに1ずつエネルギーをかけることと、1個のことに10のエネルギーをかけること。もしくはその間を選ぶこと。男女に関係なく、それも、人生の選択だ。


「選ばない」を選ぶ

不要なオプションから解放されると、人生はシンプルになり、かけるべきところにかけるエネルギーを増やせる。そういうやり方で、人生を豊かにできる。そのために、頭の中から要らないアイデアを削除していくことが有効だと思う。方法はけっこうある。


例えば、一枚紙を用意して、

興味はあったけど、実際この先の人生で絶対ないな、という選択』を書き出して、バツや打消し線をつけていってみる。下は自分の場合。

✖宇宙飛行士

✖専業主婦

✖出産

✖今さら企業勤め

✖日本にずっと住み続ける

✖ゲストハウスを自分で経営する

✖犬猫を飼う


そしてもうそのことについて考えないと決めつつ、その紙を捨てる。

すると、少しの悲しさはあっても、頭がすっきりし、気持ちが軽くなってくるはずだと思う。それをかなえるための「努力」を一切あきらめて、放棄して良いと許したということなのだから。意識下でなんとなくかけていた散漫なエネルギーを、別のところに集中してまわすことができるのだから。


わたしたちは、Todoや「したいこと、すべきこと」はよくリスト化するけれど、「しないこと、したくないこと、しなくていいこと」は決めず、あやふやなままにする。けれどその情報はいつも、無意識化で重石になっているのだと思う。それが、身軽さや決断力を奪っていく。

上のエクササイズは、「なかなかあきらめきれなかったけど多分しないこと」「この週に絶対にしないこと」などのレベルに引き下げたり、期間限定にしても、効果はあるはずだと思う。


また頭の中の断捨離、整理整頓を行う行為として、『本を捨てる』もかなり有効だ。

上記と同じように、『興味はあったけど、実際この先の人生で必要ないな、という本』を、本棚から取り除いていく。『一生のうちもう一度開くか?』でもいい。実際に手に取って、五感+αでかなりバッサリ決めていく。

生活をしている時、本棚からも常にタイトル、内容や記憶などの情報は受け取り続けているはずで、「なんとなく」買った本からもそれは出ており、わずかながらでも脳の領域を使っている。

不要な本を取り除いていくことで、その負荷を減らせるし、直感で分類していけば「じつは自分はこういう道に進みたかったのか」「これにより強く興味があるんだ」とだんだんわかってくると思う。


新しい本を買うときは、いま本棚にある本を二冊捨てる』というルールでもいい。「それほどまでに欲しい本」が「とくに必要ない本」に成り代わり、スペースを満たしていってくれるので、だんだん本棚から受け取るメッセージがすっきりしてくるはずだ。

色々な関連しないジャンルの本をせっせとそろえている人がいるけれど、あらゆるタイプの本をどれだけ持っているかには、それほど意味はないと思う。知識はそれだけでは使えない。せいぜい飲み屋でひけらかすくらいだ。そして本棚から発される情報は雑多で、いざというときの選択を鈍らせる。

ただの情報である「知識」を、実際使える「知恵」にすることができる人が価値を生めるのであって、知識を生きた知恵にするためには、目的意識が不可欠だ。自分の目指す方向性…目的があれば、それに沿った形で情報を集めるようになる。ジャンルが多岐にわたっていても関連性があるので、本棚が持つエネルギーが、シンプルで洗練されたものになる。


無意識に語りかけ、心を惑わそうとしてくる広告に対しては、ブラウザにアドブロックを使ったり、テレビを垂れ流しにしない、電車に乗るときは風景を見たり本を読む、などで受け取るプレッシャーを減らしていける。

都会ではなかなか難しいかもしれないけれど、つとめて意識を自分に向けること、主体的に選ぶ・選ばないにフォーカスすることで、だんだん認識を変えていけるし、きっと主体的な選択が楽しくなってくる。

自分は何者であるかのアイデンティティづけや、自分はこうしたかったのか、これが好きなのかという自己発見の面白さには終わりがない。そして何かに惑わされないで決めるというのには、人のせいにしない、責任がある代わり、より深い喜びがある。自分を苦しめるのも、楽しませるのも、面倒のあと成長ができるのも、自分の意志しだいとわかってくるからだ。

続けると、どんどん発想が自由に身軽になってくる。それまで選ばなかった選択肢を自分のために選び、連れて行ったことのない場所へ自分を連れていき、精神面でもより深い体験ができるようになる。「正解は自分で作る」ということは、はじめは怖くても、自由で、創造にあふれていて、本当に楽しい。

そしてそのためには、本当に大切なものだけを自分の核に選び持つというシンプルさが不可欠だ。


自分で選んだ、選ばない、ということが自身の幸せにつながっていく

住むところを決める例でいえば、東京に暮らすのが馬鹿げている、というようなことを煽って言う人もいるけれど、価値観を押し付けようとする意味では、田舎暮らしをあざ笑う人と全く同じだ。

東京の名のある土地に住むのが喜びの人もいれば、通勤に一時間半かけても自然がいっぱいのところに住むのが幸せという人もいる。幸せのありかたは人それぞれ。

どこに住む、何を持っているのが幸せというわけじゃない。「自分で決めて、実行する」ことが、その人個人の幸せにつながっている

誰それが言うから、流行りだから…で非主体的に決めてしまうことが、恨みや嫉妬、不幸せのもとになるのだ。

そして選択肢が多すぎて身動きが取れないとき、自分の望みによりシンプルになっていくための方法として、「この土地に住むことが幸せなんだ」というテンプレート的なオプションを、主観で能動的に切り捨てることが有効だ。

「あ、○○に住むのがいいみたいに雑誌とかでいうから、なんとなく思ってたけど、自分にとっては別に重要でないな」と打消し線をつけ排除することを意識的に繰り返す。○○に入るのが都会のセレブ土地でも、今はやりの田舎ぐらしでも、どちらにも属さないところでも。「自分で決める」。


出すのが恥ずかしい例だけれども、自分の場合。先日、ふとしたことから父と口論になって、両親の前でものすっごく泣きながら

「ごめんなさい!わたしは、結婚して、子どもを産んで、育てるとか、無理です。できません!本当にごめんなさい。孫の顔見るとか、あきらめてください。でもその代わり、その力を、世の中の困っている人のために使うから。待ってくれている人が、たくさんいるから。わたしの時間と力を、そのために使うから。妹もふたり子ども産んだし、だからわたしからはそういうの期待しないで、でも絶対に人のためになることをするから、ただ黙って信じて協力しろ!」

のような(ちょっとアレな)ことを言ったら、親は戸惑いながらも(一見)わかってくれた。わたし自身はものすごくすっきりした。彼らの前ではあまり感情を出さない人間なのできっとなおさら。それほど、意識下のあやふやなオプションが自分にストレスを与えていたのだと思う。


個人的な思いを言えば。自分は何も、人への奉仕のために身を投げ出すというつもりはなくて、自分が人に与えられるために、まず自分を満たすということが大前提だと思っている。

24時間を自己犠牲的に働くのでなく、人に与えられるほど豊かになるために、衣食住であれ学習であれ何であれ、まず自分を多くのもので満たしたいし、メンタルにかかわる仕事でもあるのでなおさら、心の状態を良いように保ちたい。意識が散漫になるので、その他の不要なことに力を割きたくない。自分しかできないこと、すべきことに対して真摯でいたい。10個のことに1ずつエネルギーをかけるのでなく、2個のことに8と2ずつエネルギーをかけたい。

その邪魔になっていたのが、朝ドラや女性マガジンに代表されるような(愛も仕事も家庭もetc)幸せテンプレートの思考で、「これを選ばない!!文句は言わせん!」と親の前で宣言できたことで、努力の選択肢が消え、肩の荷が下りた。

もう少し健康で、バイタリティがあれば、もしかしたらプラス二個三個できるのかもしれないけれど。自分のスペックではしょうがない。今あるこの身で、自分の決断を、自分のこころを、何よりも大切にして生きていきたいと思う。そして自ら選んだからこそ、この道にとことん責任を持てる。

この選択の繰り返しが、ふたつと同じもののない自分の人生を形作っていくのだし、明日死んでも後悔のないような生き方ができるのだろうと信じている。


誰も通ったことのない道を行こう。

こわくても、きっと大丈夫。


ここまでお読みくださって、ありがとうございました。

書き始めてフィンランドへ戻ってから体調を崩したり別の書き物の締め切りやらなんやらで、すごく時間がかかってしまいましたが…書けてよかったです。

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おおばやし あや

フィンランドで起業、国家認定ソーシャルワーカー。現在日本で講師業をしています。 http://s-a-i.fi

ぼくたちよ、常識論を破壊せよ

「常識」と書いて”へんけん”と読む…「常識論」や「幸せテンプレート」に苦しむ私たちの心を、少しだけ楽にするために。
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