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ここ数年のわたし(生きていました)

リハビリ記事①です。

8年前の記事に未だに💛がついていて、PVも相変わらず伸びていて。
自分の周囲には、昔のnoteを読んでくれたから関わりのできた人々もいるし、ああみなさん、私の文章読みたいんだろうな~ありがたいな~と思いながら、何を書けばいいかわからずに過ごしてきた。

私は何か思いが変わったわけではなくて、私の考えることは実はnoteの文章じゃなくて、全部「しごと」にしてるのですよ。むしろ、より情熱をかけて、同じことにずっと取り組んでるの。

ここ数年間も「ふつう・当たり前と向き合い、自分の”これでいいんだ”をみつける」哲学対話とゲームを開発している。7年取り組んで、やっとやっと、全国的に広められるクオリティになった(アメリカデビューもした)。その他のコンテンツもぜんぶそう。人の自然体や隠れた創造性をエンパワーするものしかない。

昔のnote見たら終始、「ふつうとか、当たり前を疑おうよ」「自分の感じること大事にしていいんだよ」「自然体でいいんだよ」ってずっとずっと、言っている。

note初期から読んでくれていた人に、最近の文章は鋭さがなくなりましたね、みたいに言われたりもしたんだけど、その鋭さは全部別の創造に向けたのよ。私は数年間、その熱を、ワークショップ体験とかカードツール開発とか、コンテンツとか、形にして提供している。同じことを表現し続けてるんだ。

マイノリティ・マジョリティ関係なく、生きづらさを抱える人に、らくになってほしい。わたしも、もう少し楽に生きたい。
人は本来誰もが個性的で面白いし、自分のユニークさを大事にしていたら、人と比べずに済む。そんな世の中に生きたい。

こんな思いでずっとずっと。

この思いを体現した、手に取れる形としてのカードツールも作ったし、体感形式のコンテンツも色々あるし、音声も動画もせこせこ作ってる。私のコンテンツを使って、「これでいいんだ」体験をあちこちで提供してくれる仲間も増えた。でも、きっと文章が好きでいてくれる人もいるんだろうなあ…とは思う。

以前、noteはもう全然更新しないし、8年も前の青くて熱い文章を公開したままなのが恥ずかしいからって下書きにそっと戻したら、そのたったの4日後にメールをくれた人がいたんですよ。記事のタイトルも内容もいくつも覚えていて、読んでは元気をもらっていたので、良かったら公開してもらえませんかって。すごく丁寧な文章で。

泣いたよね…
今も思い返すと胸がじんわりするよ。
ありがとうございます、本当に。


正直言うと、あの頃(note全盛期)は留学で北欧にいて、良い意味で色々なしがらみが無くて、孤独な環境で自分の考えをシンプルに磨き抜けていた。それは本当に得難い経験だったし、今も自分の中に原石のように輝いていると思うし、絶対に大事にし続けたい。

けれど日本に戻ってから、人間関係もしがらみもあまりに身近で、生きることがなまなましくて、しんどい。なにより、文章だけでなく現実的に「生きづらさをなんとかしたい、人をエンパワーしたい」を体現できるものを、本当にこだわって作りながら、事業として継続するのはとても難しかった。

今もまだ大変すぎるんだけど、対面がメインの仕事だったから、コロナ禍では痛恨のダメージを受けて、4年かけて心身が擦りつぶされてズタボロになった。正直あの頃の追い詰められ具合、叫びだしたいのを毎日抑えつけていたトラウマからは、まだきっと復活していない。

でも、それでも、みっともなくても生きていたから。今、生きてるから。何かまだできることがあるんだろう。

私は物理的に生きると死ぬの境界線をあまり設けていないので、肉体が生存することにあまり大きな意味は感じないけど。でも、今私の仕事を必要としてくれる人や、仕事を助けてくれる人や、飾らない私を愛してくれている人がいるので、かろうじて、ああ、私はまだ自分のしたいことを、続けていいんだなと思ってる。

でもやっぱり悩むし、へこむし。一日の中でがっかりしたり、喜んだり、すごく自分は、たいしたことないなって思う。ぜんぜん立派じゃない。ぜんぜんえらくない。かっこつけたくても、ぜんぜんかっこつけられないんですよ。

でもそんな自分でも、作ったカードツールに対して、作ってくれてありがとうございますと、会ったこともない方にお礼のメールをいただくことがある。

もしかして、今も、なにかを書いて、誰かが励まされるのなら、昔とはまた別の意味で書くのはしんどいこともあるだろうけど、書きたいなあとは思う。かざらずに。

次のリハビリ記事は

生きるって大変すぎん?

みたいなことをつらつら書こうと思うよ…
これはもう二重の意味でリハビリ。



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