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【伊豆国・山中城 vol.6】未完の岱崎出丸

今回は山中城岱崎出丸だいさきでまるエリアを紹介します(前回〔本丸・北の丸〕はこちらから)。
岱崎出丸エリアは鳥瞰図でみると、赤丸で囲ったエリアになります。

例によって拡大します。


岱崎出丸について

岱崎出丸は「出丸」という名がつく通り、山中城の本城部分から飛び出したような曲輪となっており、岱崎出丸の中にもいくつか曲輪があります。そのためこの部分だけを城とみなして岱崎城とも呼ばれます。

また、この岱崎出丸は豊臣軍の襲来に備えて急ピッチで増設された曲輪でしたが、結局、天正てんしょう18年(1590年)3月の豊臣軍襲来に完成が間に合わず、構築途中の曲輪跡が残るなど珍しい遺構が残っています。

この岱崎出丸は上の拡大図でもわかるように、旧東海道に沿うように伸びていた尾根を削平して曲輪にしたもので、秀吉の軍勢が東海道を進んできた場合、横から攻撃できるようになっていました。

岱崎出丸の直下を通る旧東海道は現在も江戸時代に敷設された石畳が残る大変趣のある雰囲気を醸し出していますが、下の写真(「岱崎出丸直下の旧東海道」)の左側が岱崎出丸で、藪となってわかりづらくなっているものの、出丸までかなり勾配がきつい坂になっています。

岱崎出丸直下の旧東海道

約430年前、豊臣軍はこの坂から山中城に攻めかかり、山中城攻防戦の戦端が開かれました。豊臣軍はこの時未完成であった岱崎出丸を先に落とそうと考えたのでしょう。

しかしこれに対し、小田原北条軍は岱崎出丸の守将であった間宮康俊まみややすとし指揮のもと城兵が奮戦して、豊臣方の将・一柳直末ひとつやなぎなおすえが討死するなどの損害を与えています。                         

一ノ堀

岱崎出丸 一ノ堀1(北方向)
岱崎出丸 一ノ堀2(南方向)

東海道から岱崎出丸へ攻め上ると、まずこの長い畝堀に遭遇することになります。これは一ノ堀と呼ばれる畝堀で、岱崎出丸の西側中腹を街道に沿って一直線に走るものです。

のちにこの堀が岱崎出丸を一周するように掘られるよう計画されていたのか定かではありませんが、このように出丸西側、つまり東海道に面する部分だけに掘られているのは、明らかに西からやってくる敵・豊臣軍にターゲットを絞った造りと言えます。

すり鉢曲輪

すり鉢曲輪
すり鉢曲輪の向こうにうっすら富士山
すり鉢曲輪北西角見張台

すり鉢曲輪は岱崎出丸の最南端に位置する曲輪です。
この曲輪の形の特徴は中央部分が窪んでいて、土塁へ向かうにつれて緩やかな傾斜から急な斜面となっていることです。そしてこうした形状がまるですり鉢に似ていることからこの曲輪の名前となりました。

なお、すり鉢曲輪はこの形状から察するに、こののち曲輪内を平坦にする予定だったと思われ、岱崎出丸には構築途中の遺構が他にも見られることから、ここも造成途中であった可能性が高いです。ただし、すり鉢曲輪は北西角に見張台を備え、南に虎口を設けて、曲輪として一応の体裁が整っていることから出丸の中では完成に近い曲輪であったと思われます。

構築途中の曲輪

構築途中の曲輪跡(解説板と同じアングルで撮影)
すり鉢曲輪東隣にある武者だまりとされる場所

岱崎出丸は豊臣軍の襲来までに完成が間に合わなかったこともあって、構築途中であったと思われる痕跡がありますが、その中で代表的なものが、上の写真「構築途中の曲輪跡」です。現地解説板には、

東側(説明板の右手)は御馬場曲輪西堀の堀を掘った時に出たブロック状のロームにより小高い丘のように造られ、北側には土塁が積まれている。遺構らしいものはそれだけであるが、尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれる。しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したものであろう。ここの整備にあたっては、当時のゆるやかな西側への下り傾斜を再現し、構築途中の様子がしのばれるよう配慮した。

現地解説板より

とありました。
この写真はこの解説板にあった写真と同じアングルで撮影したものですが、今一つわかりにくいです。ただこの写真のすぐ横には上の写真「すり鉢曲輪東隣にある武者溜りとされる場所」があり、ここは尾根を削平しようとしていたことはわかりますが土塁はなく、単なる段差の付いた平場となっています。これらを合わせ見ると、この武者溜りとされる場所も構築途中の曲輪だった可能性が高いです。

出丸御馬場堀と御馬場北堀

出丸御馬場堀
御馬場北堀

岱崎出丸には「一ノ堀」の他にも堀があったことが確認されていますが、それがこの出丸御馬場堀と御馬場北堀です。

この二つの堀はまだ岱崎出丸の発掘調査が完全に終わっていないこともあり、部分復元やその跡を示す程度に止めていて、どのような堀だったのか全容はわかりませんが(もう全容わかったのかな?)、この位置からすると、この2つの堀は岱崎出丸の尾根筋を分断する堀、つまり堀切であったと思われます。

なお、出丸御馬場堀は畝があったことが確認されており、畝高は堀底から2m、畝の頂部は馬の背のように丸みを帯びて幅60㎝ほど、傾斜角は50°~60°と西の丸堀や西櫓堀の畝とほぼ同じ規格です。また堀底から曲輪までの高さは平均9mとこれも西の丸堀や西櫓堀と同じです。

御馬場曲輪

出丸御馬場曲輪
御馬場(北方向を向いて)
御馬場(南方向を向いて。突き当りがすり鉢曲輪)
すり鉢曲輪北西角見張台および御馬場西側土塁上からの眺望

岱崎出丸の中で、すり鉢曲輪と同じく体裁が整っている曲輪に御馬場曲輪があります。御馬場曲輪は岱崎出丸のほぼ中央に位置しているにもかかわらず、建物の痕跡は見られなかったとされていますが、出丸防衛の際には中心的役割を果たす曲輪であったと考えられます。
また、この御馬場曲輪は山中城本丸と同様に曲輪内に段差があります。これも山の斜面を削平したためにできた段差です。

一方、この御馬場曲輪の西隣には南北に長いスペースが存在しますが、案内板によれば、ここは昔より「御馬場」と伝承されてきたそうです。
実際に馬場として使われていたのかは定かではありませんが、岱崎出丸の西側を南北に貫くスペースだけに防衛上でも重要な役割を果たした場所と思われます。なお、この御馬場の西側土塁上、すり鉢曲輪北西角見張台からの眺望は南西~西方面に眺望が開けており、旧・駿河国を一望できます。


ということで、以上6回にわたって山中城をレポいたしましたが、これにてすべて終了です。最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

また別の城跡も随時レポいたしますので、別の城跡はnoteマガジンの「城館跡・古城探索」よりご覧くださいませ。

⇒おまけ


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