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【菊池氏 vol.2】 菊池氏の起源(後)

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「則隆」・「政隆」の発見

昭和34年(1959年)、志方正和先生による論文「菊池氏の起源について」(『熊本史学』15・16号)の発表は菊池氏の起源をめぐる研究の中で大きな画期となるものでした。

志方先生は藤原資房ふじわらのすけふさの日記『春記しゅんき』(※1)に、『菊池武朝申状』で菊池氏の氏祖であると記された「大夫将監則隆たいふのしょうげんのりたか」と、菊池諸系図でその則隆のりたかの子とされる「政隆まさたか」と考えられる人物を発見したのです。

発見されたのは「前肥後守さきのひごのかみ藤原定任ふじわらのさだとう暗殺事件」について記された一連の記事からでした。

この事件についてはまた回を改めてお話ししようと思いますが、長暦ちょうりゃく4年(1040年)4月10日の夜、帰路についていた前肥後守・藤原定任ふじわらのさだとうが数人の者に襲撃され、手当ての甲斐なく翌朝に息を引き取ったという事件があり、この事件の容疑者として浮上した一人が「まさたか」と読める人物だったのです。

そこで今回はまず『春記』で「則隆」「政隆」と考えられる人物がどのように記されているかピックアップしてみます。

①長暦4年4月13日条より

“(暗殺事件は)肥後ひごの前後の国司こくしとの間に由緒があり、ほとんど合戦に及ぶような状態だった。この事によって新しい国司の為弘ためひろ(姓は不詳)はの国(肥後国ひごのくに)の人である平正高まさたかに語って京に上らせ、定任を殺害したものか。確かにその疑いはある。この正高は平則高のりたか〔五位〕の子である。この父子は藤原隆家たかいえ郎頭ろうとう(郎等)である。この度、運上物うんじょうもの押領使おうりょうしとして京に上ってきているという。”

肥後前後のつかさの間に由緒有り。しかして皆、ほとんど合戦に及ぶ。此の事に依りて新司為弘、の国の人平正高に語り付して京上せしめ、すなわち定任を殺すか。すでの疑ひ有り。くだんの正高、れ平則高〔五位〕の子なり。件の父子、隆家の郎頭なり。の度、運上物の押領使、京上すと云々うんぬん

『春記』長暦4年4月13日条より

②長暦4年4月21日条より

“今に至っては、かの犯人(藤原正高まさたか。この者は則高のりたかの子息である。大宰帥隆家卿の郎頭〔郎等〕である)を捕らえるよう官符かんぷ太政官符だいじょうかんぷ)を賜るべきか。”

今に至りては、彼の下手人〔藤正高。件の人、是れ則高の息なり。帥隆家卿の郎頭なり〕を捕へまいるべき由、官符を賜はるべきか。

『春記』長暦4年4月21日条より

➂長暦4年4月27日条より

“藤原まさたかを確実に召し出すように官符を大宰府へ送付するべきである。(しかし)きっと由緒(事件の経緯)を記してはこないであろう。この男の父子は藤原隆家の第一の家人である。もしやり過ごすようなことがあれば、大宰帥としていかにも都合が悪いことがあるのか。”

藤原蔵隆〔則隆の男〕をたしかに召しまいるべき由、官符を大宰府に給ふべきなり。必ず由緒を注し載すべからざるか。くだんの男の父子、隆家の第一の者なり。若し隠忍有らば、の帥として、もっと不便ふびんか。

『春記』長暦4年4月27日条より

④長暦4年4月30日条より

蔵隆まさたかは大宰府府官の近親である。”

蔵隆これ府老ふろう(※2)の近親なり。

『春記』長暦4年4月30日条より

⑤長暦4年11月5日条より

”定任を殺害した疑いにより、大宰府へ使者を遣わして藤原盛隆を召喚しているところである。しかし数か月経った今もその返報がない。
最近、わずかな返事があったといい、盛隆は舟でどこかへ逃げ去ってしまったという。”

定任を殺せる疑ひに依り、藤原盛隆を大宰府に遣はし召す所なり。しかるに数月を経るも、の返報を言はず。近曽ちかごろわずかに返事を申すと云々。盛隆、海に浮きてげ去りおはんぬる由と云々。

『春記』長暦4年11月5日条より

ここに列挙した記事の中で「のりたか」と「まさたか」がどのように記されているかを見てみると、

「のりたか」・・・平則高、則高、則隆
「まさたか」・・・平正高、藤(藤原)正高、藤原隆、藤原盛隆

となっています。特に「まさたか」の方の表記が様々になっていますが、『春記』を書いた藤原資房ふじわらのすけふさはどうやら“のりたか”、“まさたか”という名前だけを聞いていたらしく、ここには載せていませんが長暦4年4月13日条(①)では他に、同日条であるにも関わらず「のりたか」を「則孝」、「まさたか」を「正孝」なんて表記していたりします。

志方先生はまずこの親子が平姓から藤(藤原)姓に変わっていることについて、筆者資房の誤記か、平姓を名乗った事があったのかこの史料だけで判断するわけにはいかないとしながら、当時大監だいげん大宰大監だざいのだいげん)に従五位下じゅごいげ平朝臣季基たいらのあそんすえもと(観世音寺文書)がいたことを考え合わせると、「のりたか」が五位の者であったため、平季基の一族と勘違いしたこともありうるとされています。

また、「まさたか」の”まさ”が「蔵」の字になっていることについては、『増補訂正大字典』(上田万年博士著・大正6年〔1917年〕)に「蔵」の字は”くら”、”まさ”、”ただ”の三様の名乗りがあるとされている上に、『春記』長暦4年4月27日条(➂)の「蔵」に「正」と注記してあることから、やはり”まさ”と読むのが正しいとされます。
さらに『春記』長暦4年11月5日条(⑤)で「盛隆」となっているのは「蔵」の字の誤記であろうとされています。

ともあれ、このように『春記』には大宰府の官人(府老)の近親者で肥後国住人の「のりたか」「まさたか」という父子が登場しているんですが、志方先生はこの父子について、

肥後において平安時代の系譜を伝へてゐるものは、菊池、阿蘇、紀の三氏である。これらの系図を調べて見るのに、阿蘇氏には全く則隆の名なく、紀氏は天慶てんぎょう(938年~947年)の頃、(肥後)国司に紀隆房きのたかふさなる人物のあつた伝説を存するのみで、これ又問題にならない。特に則隆等が藤姓(藤原姓)を名乗る以上、菊池氏に比定することがもつとも当を得た方法であらう。

志方正和「菊池氏の起源について」(1959年)より

と述べられています。そして、『春記』に登場する「のりたか」と「まさたか」はまさしく菊池系図に見える「則隆」と「政隆」であると断定されたのです。


系図の疑問点の解消

『春記』に登場した「のりたか」と「まさたか」が菊池系図にある「則隆」「政隆」だとすると、菊池系図でこれまで疑問とされてきたことが解消できます。

前節で挙げた『春記』の記事の中で「則隆」「政隆」父子に関する重要なことが記されています。
それはこの父子が“隆家たかいえ郎頭ろうとうなり”、“そち隆家卿の郎頭なり”、“隆家の第一の者なり”といった部分です。

前回、菊池氏の諸系図をいくつか載せましたが、「則隆」「政隆」はいずれも藤原隆家の子孫になっていたはずです。しかし『春記』では藤原隆家の郎頭(郎等)、つまり隆家とは主従の関係になっているのです。

これによって志方先生は次のことを指摘されます。

  1. 「則隆」「政隆」が藤原隆家(979年~1044年)と同時代に活動していたことになり、系図がもたらしていた年代の不合理が解消されることになった。

  2. 後年系図を整理する際に則隆を隆家の子孫とし、さらに則隆の肥後下向を延久えんきゅう2年(1070年)(または延久4年〔1072年〕〔『続群書類従』「菊池系図」別本〕)と誤伝していたために、隆家から則隆に至るまで数十年の空白を埋めなければならなくなり、隆家の次に経輔つねすけ政則まさのりを挿入する結果となった。

1.にある「系図がもたらしていた年代の不合理」というのは、延久えんきゅう(1069年~1074年)の頃肥後国菊池郡に土着したという「則隆」から治承じしょう(1176年~1181年)の頃登場する「隆直たかなお」に至るまでの約100年間に「則隆」ー「経隆つねたか」ー「経頼つねより」ー「経宗つねむね」ー「経直つねなお」ー「隆直」と4代を挟まなくてはならなかったことを指します。しかし、この『春記』の記事によって「則隆」が長暦ちょうりゃく(1037年~1040年)以前の人物であったと年代を遡らせることができるようになって不自然さが解消されたというわけです。

ちなみに、この事は『菊池勤王史』(1941年)を著した平泉澄先生も不思議に感じておられましたが、

二十歳ばかりで長男を儲けるのは、当時むしろ普通の事であるから、百余年に五六代を経過したといつても、あながち異とすべきではあるまい。

『菊池勤王史』p.47より

と他家の例をいくつか示して問題なしとされてしまいました。

ともあれ、この『春記』の記事によって菊池系図の大多数を占めていた「中関白家子孫」とする系図の信憑性が喪失し、それに基づく諸説は完全否定される形となりました。

しかし、多くの「菊池系図」で則隆の父とされる「政則」という人物は系図作成にあたって年代の間を埋めるだけの架空の人物だったのでしょうか。

徳川(水戸)光圀みつくにが編纂した『大日本史』では他史料で「政則」が見えないとして排除されてしまっていましたが、本当に排除してしまって良いのでしょうか。

そこで志方正和先生は則隆の父とされる「政則」と考えられる人物を藤原実資ふじわらのさねすけの日記『小右記しょうゆうき/おうき』(※3)の中で見つけられます。


菊池系図の「政則」は藤原蔵規

「菊池系図」で則隆のりたかの父とされる「政則まさのり」の譜を見てみると、刀伊とい入寇にゅうこう(※4)で活躍したこと(前回掲載の『続群書類従』所収の菊池系図〔①〕)や「対馬守つしまのかみ」という肩書が書いてあります。

『小右記』や『朝野群載ちょうやぐんさい(※5)』には刀伊が入寇した際に戦闘を行った人々やその戦功が書いてあり、それら人々の名前を見ても『大日本史』が述べる通り「政則」という人物は見つかりません。
ところが、『大間成文抄おおまなりぶみしょう(※6)』にこのようなことが書かれています。

対馬守従五位上藤原朝臣蔵規、刀伊賊賞

『大間成文抄』第五より

この「藤原蔵規」の「蔵」の字を先ほどの「蔵隆まさたか」同様、「まさ」と読めば「まさのり」になります。
そしてこの蔵規が刀伊賊との戦いで功績があって「対馬守」に任じられたというのです。彼もまた『朝野群載』や『小右記』に載る刀伊の入寇で活躍した人の中で見られなかった名前ですが、「刀伊の入寇」から約3年経った『小右記』の治安ちあん2年(1022年)4月3日条には、

(後一条天皇が)頭中将とうのちゅうじょう源朝任みなもとのあさとう)に伝えさせて仰せになることには、対馬守の紀数遠きのかずとおが赴任しないから別の人を対馬守に任じるべきと。大宰(権)帥の源朝臣(源経房みなもとのつねふさ)が言うには、対馬島は(刀伊賊のせいで)とても荒れ果てていて、住民は敵国からの襲撃を朝夕おびえている状況だ。ここは武芸の秀でた者を対馬守に任じて敵国の軍勢を防がせた方がよい。対馬島の事をよく知る者が大宰府の管轄内にいる。彼らを任じるのがよいだろう。藤原蔵規、平致行、藤原明範の中から定めるべきと。
評議した結果、三人のうち、藤原蔵規は最初帯刀たちはき春宮とうぐうの警護)となって左兵衛尉さひょうえのじょうに任じられた。この朝廷に出仕してすでに長いから蔵規を対馬守にするのが適当であるということになった。
そこで(後一条天皇は)上達部かんだちめ(位階が三位以上の者。公卿)の定められた事は最も理に適っている。蔵規を対馬守に任ずるべきとおっしゃったということだ。

頭中将(源朝任)伝へ仰せて云はく、 (中略) 対馬守(紀)数遠赴任せず、改めて他人を任ずべし。帥源朝臣(経房)申さしめて云はく、しま住人の数少なし。亡弊ぼうへいことはなはだし。敵国の危うし朝夕にづ。武芸の者に任ぜられ、敵国の兵帥をふせがしむ。彼の嶋の案内を知る者管内かんないに在り。彼等に任ぜらるるが、もっとかるべしてへり。
蔵規・致行・明範等のうち定め申すべしてへり。僉議せんぎし申さしめて云はく、三人のうち蔵規初め帯刀とり左兵衛尉に任ぜらる。官庭に出仕し、すでに年序を。蔵規を以て任ぜらるるがよろしかるべきか。すなはち仰せて云はく、上達部かんだちめの定、もっとの理に叶ふ。蔵規を以て任ずべしてへり。

『小右記』治安2年4月3日条(部分)より

とあって、対馬が刀伊の襲撃で大変荒れ果て、対馬守に任じられた者が赴任しない事態となり、対馬に詳しく武芸に秀でた人物を任命した方が良いということで藤原蔵規が選ばれたことがわかります。

志方正和先生は『大間成文抄』の記事からこの蔵規にも刀伊の入寇の際に勲功があったとされていますが、この『小右記』の記事と「刀伊の入寇」から3年経過していることから察して、おそらく“刀伊賊賞”というのは、蔵規を対馬守に任ずるにあたっての建前というか名目の意味合いの方が強かったのでしょう。

とはいえ、蔵規が刀伊の入寇の際、何もしなかったのかというとそうでもなさそうです。先程もお話ししたように『朝野群載』には「政則」も「蔵規」も見つかりませんでしたが、実はそれと思わせる人物なら名前がありました。

この『朝野群載』に載る史料は大宰府が寛仁3年(1019年)4月16日付で、3月の下旬~4月13日までの刀伊賊の襲撃に際しての対処、戦況を取り急ぎ朝廷に報告した解文げぶみ(上申書)なのですが、その文書の差出人として名前を連ねる者の中に「従五位下ぎょう少弐しょうに藤原朝臣盛規」という人がいます。

その解文の差出人として連ねられている名前を書き出してみてみます。

三品帥親王(敦平親王)〔在京〕
正二位行中納言兼権帥藤原朝臣隆家(藤原隆家)
正五位下行少弐兼筑前守源朝臣道済(源道済)
従五位下行少弐藤原朝臣盛規(藤原盛規)
従五位下行大監菅原朝臣雅隆(菅原雅隆)
大監正六位上大蔵朝臣光順(大蔵光順)
従五位下行小監豊島真人静風(豊島清風)
正六位上行小監上毛野朝臣行蔭(上毛野行蔭)
正六位上行大典上毛野朝臣師善(上毛野師善)

当時大宰帥だざいのそちであった敦平あつひら親王(在京)、権帥ごんのそちの藤原隆家といった大宰府の一等官(最高幹部)の名前から二等官の少弐しょうに、三等官の大監だいげん小監しょうげん、四等官の大典だいさかんまで階層が様々ではありますが、ここに載る彼らはみな『朝野群載』や『小右記』で刀伊賊と実際に戦った者として名前が見えない人たちです。
つまり、権帥の隆家と少弐の2名は大宰府の幹部(司令官)として、大監以下の人たちは文書作成に携わった事務官として名前を連ねていると考えられます。

そして、この少弐である「盛規」が「蔵規」の誤記ではないかと思われるのです。前半でお話しした『春記』の中でも「蔵隆」を「盛隆」と誤記した例がありましたが、これも同様の誤記だとすればここにある「藤原盛規」という人物は藤原蔵規のことだったということになり、現場で戦う人たちの中に名前が見えなかったのも納得できるのです。

大鏡おおかがみ』(※7)の「内大臣道隆」にはこのような一節があります。

大弐だいに殿(隆家)は、弓矢に関する事を全くお知りにならなかったので、どうしたものだろうかと思われたが、処世するための知恵や才能にすぐれていらっしゃる人なので、筑後・肥前・肥後といった九州の人々を奮起させられたのは当然のこと、大宰府の内に仕える人々さえ徴発して戦わせられたので、敵方の者どもがますます多く死んだのだが、やはり、家柄がよくいらっしゃるので、(その家の威光でもって)とても大変な事を平らげられた殿であったのだよ。

大弐殿〔隆家〕、弓矢のもとすゑもしり給はねば、いかゞと思しけれど、やまと心かしこくおはする人にて、筑後、肥前、肥後、九国の人をおこさせ給ふをばさる物にて、府の内につかうまつる人をさへをしとりて、戦はしめ給ひければ、かやつが方のものども、いとゞ多く死にけるは、さはいへど、家たかくおはしますゆへに、いみじかりし事たいらげ給へりし殿ぞかし。

『大鏡』内大臣道隆より

志方先生は『大鏡』のこの部分を引用されて、

眼疾にして且つ弓矢の本末も知らぬ隆家を助けて、無事この大難を平らげしめたものは、実に蔵規その人であつたのである。しかして督軍の地位にあつた以上、先に記した奮戦有功の将士の中に、彼の名が見えないことは当然であつて、しかもこれらの人々が、ほとんど前府官、或ひは下級官であることは注目されてよい。

志方正和「菊池氏の起源について」(1959年)より

と述べられています。そして、以下の理由を挙げて藤原蔵規こそが「菊池系図」にある「政則」と肯定されたのです。

  1. 蔵規も政則も共に刀伊の役に参加し対馬守に任ぜられたこと。

  2. 菊池風土記所収菊池系図の政則の譜に「対馬守 後朱雀院御宇始武将賜都住居(対馬守 後朱雀院の御宇、始めて武将都に住居を賜る)」とあるのは一見作為の如くであつて実はさきに引用した対馬守選任の際の小右記の記事(治安2年4月3日条)に「蔵規初為帯刀被任左兵衛尉(蔵規初め帯刀たちはき左兵衛尉さひょうえのじょうに任ぜらる)」とあることの訛伝かでん(誤った言い伝え)と見るべく、一脈の連関を想定させる。帯刀といふのは東宮の侍衛で、特に武芸に長じたものを選び、左右兵衛尉等で兼帯けんたい(兼任)した。

  3. 蔵規、蔵隆(政隆)と通字を同じくすること。

  4. 蔵規、則隆、共に隆家に近侍し、共に武勇の誉高きこと。

  5. 年令に無理がないこと、かりに蔵規の対馬守任命を四〇~五〇才とすれば、長暦四年にいては五八~六八才となり、則隆を四〇、蔵隆を二〇と仮定しても無理な点はみられない。

  6. 春記に「蔵隆浮海遁去(蔵隆海に浮きて遁れ去る)」とあるのは、蔵規が対馬守であつたこととの連関を想起せしめる。


志方説の課題

志方正和先生は「菊池系図」にあった「政則」「則隆」「政隆」を『春記』や『小右記』に登場する藤原蔵規・則隆・蔵隆とされました。
そして、この志方説によって彼らが菊池氏の祖になるということはほとんど疑いないところまで論証されたと工藤敬一先生も述べられる通り(※8)、これが今現在菊池の起源についての定説となっています。

しかし、志方説からまた新たな課題も浮かび上がります。
1つ目は藤原蔵規の出自が不明で、その親、兄弟の有無などもわかっていないということです。そのため、前回お話しした太田亮先生の「紀氏起源説」が否定しきれていません。

どういうことかと言うと、志方先生は「まさのり」という人物が紀氏にはいなかったとして紀氏との関係を否定されていますが、蔵規(政則)の親や兄弟がわかっていない以上、「紀氏起源説」で蔵規(政則)の父と考えられている高木氏の氏祖・文家ふみいえ、さらに兄とされる文時ふみとき、ひいては肥前国や筑後国の高木氏族(大村氏や草野氏など)との関係も説明しきれていないのです。

藤原姓を名乗っているんだから紀氏ではない、ということも言えるかもしれませんが、蔵規(政則)の出自がわからないためにその「藤原姓」はどこからのものなのか、これは考えすぎかもしれませんが、場合によっては蔵規が紀姓から藤原姓へ改姓したなんてことも可能性としてゼロではないです。(改姓の理由は養子縁組など色々考えられます)

二つ目は結局肥後国下向の時期がわからないということです。志方説で延久えんきゅう2年(1070年)に則隆が肥後国へ下向したというのは完全に否定され、異論をはさむ余地はほとんどありません。しかし、それでは則隆がいつ肥後国へ下向したのか。

『春記』の記事に拠るならば長暦ちょうりゃく4年(1040年)の時点で「肥後国住人」となっているので、この時点ではすでに下向していたと考えることができます。

そこで則隆の父とされる蔵規(政則)を見てみると、『小右記』の記事に拠る限り、活動の中心はあくまでも大宰府周辺(筑前国)もしくは対馬国であって、肥後国とは全く関係がないように見受けられます。

蔵規の没年が不明ではありますが、則隆の代になって長暦ちょうりゃく4年(1040年)以前、肥後国菊池郡に勢力を持つに至ったのでしょうか・・・?


ということで、今回はここまでです。
今回は志方正和先生の論文「菊池氏の起源について」を中心にお話ししましたが、次回は今回登場した藤原蔵規という人物についてもう少しお話ししたいと思います。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

⇒次記事


註)
※1・・・『春記』は筆者の藤原資房ふじわらのすけふさ(1007年~1057年)が春宮権大夫とうぐうごんのだいぶ(春宮坊の長官かみ)だったことから名付けられました。現存するのは写本で、万寿まんじゅ3年(1026年)から天喜てんぎ2年(1054年)にわたって断続的に記されています。
※2・・・大宰府の三等官である監や四等官の典の下位に位置して大宰府の府務に携わる官人を指します。10世紀末以降、監や典が大宰府管内の有力者から任命されるようになり、次第に大宰府の実務を彼らが担うようになってくると府老の存在も大宰府の機能維持のために不可欠なものになっていきます。
しかし、この府老は大宰府に限らず、国衙(令制国の政庁)にも存在していることから『春記』の長暦4年4月30日条にある「府老」が大宰府の府老を指すものか、肥後国衙の府老を指すものか判別し難いとする指摘もあります。(門田見啓子「大宰府の府老について-在庁官人制における-」〔『九州史学』84・85号〕1985年・1986年)
※3・・・小野宮右大臣おのみやうだいじん藤原実資ふじわらのさねすけの著した日記で、別名は『野府記』。現在は天元てんげん5年(982年)~長元ちょうげん5年(1032年)までの期間で断続的な記事を確認できます。
※4・・・寛仁3年(1019年)に大陸のツングース系民族である女真じょしんの一派と見られる「刀伊とい」が対馬、壱岐、筑前、肥前を襲撃した事件です。
※5・・・平安後期に三善為康みよしのためやすが編纂した詩文・文書集。
※6・・・別名『除目大成抄じもくたいせいしょう』。著者は鎌倉初期の公卿・九条良経くじょうよしつね除目じもくに関する諸規定や先例を実例を挙げながら分類し、十巻にまとめたものです。
※7・・・11C前半、平安中期の歴史物語で別名「世継物語」。藤原道長を中心に藤原氏全盛期の歴史を批判的に紀伝体で叙述しています。かな史書のはじめとされ、大鏡・今鏡・水鏡・増鏡で四鏡と称されます。
※8・・・工藤敬一「菊池氏」(『地方別日本の名族12』九州編2 大分県・宮崎県・熊本県・鹿児島県・沖縄県 新人物往来社 1989年 所収)p.82

参考)
太田亮『姓氏家系大辞典』第2巻 角川書店 1976年
(初版は昭和9年~昭和11年)
太田亮『姓氏と家系』創元社 1941年
国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧)
平泉澄『菊池勤王史』菊池氏勤王顕彰会 1941年
工藤敬一「菊池氏」(『地方別日本の名族12』九州編2 大分県・宮崎県・熊本県・鹿児島県・沖縄県 新人物往来社 1989年 所収)
松本寿三郎・板楠和子・工藤敬一・猪飼隆明『熊本県の歴史』 山川出版社 2012年
志方正和「菊池氏の起源について」(『熊本史学』通号15・16 熊本史学会 1959年 所収)



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