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目標は数字にあらず、景色。

とある日、こんな話を聞いた。

「頑張ろう」という言葉は、とてもポジティブに使うことが多い。
けれども実は「頑張ろう」は、目標に向かって、結果に向かっている。
だからもし、思った通りの結果にならなかった場合、
頑張った〈のに〉という具合に、否定に変換されてしまう。


             𖦞


その話を聞いた時突然、2つの過去が頭に湧き上がった。

まずは中学生の時、英語のスピーチコンテストの日だ。
私は全校生徒の前で、1ヶ月以上声が枯れるまで練習した英語のスピーチを大きな講堂の壇上で発表した。今でも思い出すと、あの時の胸の振動を思い出すほど、私にとって大舞台だった。スピーチを終えて自席へ戻った時の大きな達成感は、入賞者の発表と同時に絶たれた。

その日の放課後、私は毎日練習に付き合ってくれた先生のもとを訪ねた。
「先生、私あんなに頑張ったのに。あんなに頑張ったのに・・・。」
私は涙をポロポロこぼして伝えた。あの時先生が何と答えてくれたのかは記憶にない。ただ私が泣きながら、〈のに〉を繰り返していたことだけ、覚えている。


次に思い出した記憶は、大学受験の思い出だ。

人生であんなに長い時間勉強したことはない。高校3年の1年間、アルバイトも、習い事も、彼氏も全てを犠牲にして、頑張った。頑張っている間は楽しかった〈のに〉、自分史上最大に頑張った〈のに〉、私は一番行きたかった大学へは行けなかった。誰にも言えなかったけど、私は大学4年間ずっと、それをひきづっていた。

あんなに頑張ったのに、を。


             𖦞


頑張ることが悪いとは思わない。
むしろそれ自体とても価値があるし、その気持ちはすごく尊い。

目標に向かって、結果に向かうことも悪いのではない。
むしろとても理論的だし、目標に向かえば走りやすいのだと思う。

だけど、その目標が達成されなかった瞬間に、
一瞬にして、その言葉のエネルギーを失うのが「頑張る」と言葉。
一瞬にして、そこまでの道のりが無駄だったかのように感じてしまうのが「頑張る」という言葉。
まさに学生の頃私は、そんな「頑張る」2つの体験をしていた。


今の私は、

あまり「頑張る」という言葉は使っていないと思う。
頑張ってエッセイも書いていないし、頑張って家事もしていない。
それは力を抜いている、ということではなくて、
私はエッセイを書くとき、
自分のうちから湧き上がってくるエネルギーの波に乗って、
その波に乗って書いているのだと思う。

もちろん目標は設定してあるけれど、その目標に向かってやらなくては、
という「気合い」が入っていないかを確認しながら進んでいる。

そして今の私がとても大事にしていることは、
目標は必ずいつか到達できるという前提。

到達した時のイメージが確実にイメージでき、
そしてその瞬間が、私にとっての喜びの景色であること。

目標が、ただの数字にあらず、景色であること。

目標という名のその景色を見に行くまでの道のりを、

どれだけ感動し

どれだけ工夫して

どれだけ遊んで

どれだけ転んで

どれだけエピソードを積んで

どれだけワクワクして歩いたか。

そこを楽しめる人でありたい。

              𖦞


もし、学生の時にもそんな風に思えていたら。

あの英語スピーチコンテストの日、
入賞者に自分の名前がなくても、
私は悔しさだけを残すのではなくて、
鏡に向かって一人練習したときの自分の顔、
練習に付き合ってくれた先生と2人きりの教室での時間、
発表の日に私を応援してくれた母や友達の言葉、
そんな大切な場面をきっと心に刻んだことだろう。


あの日全ての受験を終えて塾の先生に報告しに行った時、
「だめでした」と嘘の笑いでごまかさずに、
「やりきりました」と泣いて先生と握手ができたのかもしれない。

自分の努力で第一志望の大学に進むこともとても価値があるけれど、
自分の努力を出し切ったと言えるほどに夢中になった1年間が、
自分の人生に起きた。起こした。

そう思えたなら、辿り着いた先が正直どこであろうと、
その先に広がる世界は、希望に満ち溢れていたのかもしれない。


             𖦞

もし今、目標の数字だけを見て走っている頑張り方をしていたら
ふと、足を止めてみよう。


「目標」はゴールと見せかけて、スタート地点。
必ず叶う前提で、その目標に到達した時の景色を
おもいきり頭の中に描いたら、そこからが本番。
正直もう、目標は目標という名のダミー。


私が本当に、本当に、本当に欲しいものは、
いつだって 〈プロセスの中に〉 あるはずだ。


おわり

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