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 脚本家が小説を書いて知ること  <その2>「ヒロインの旅」との出会い

 小説『パラレル・パスポート』を上梓したのを機会に、脚本と小説の違いについて書いてみようと思い、前回は脚本のト書きと小説の地の文の違い、小説の人称について書きました。今回はもう少し内容に踏み込んだことを書いてみようかと思います。

「ヒーローズジャーニー(英雄の旅)」ではうまくいかない?

 物語を作るとき、起承転結や三幕などの構成から入ることがありますが、もうひとつ、具体性を伴った「ひな形」にあてはめて考えるということがあります。
 そのひな形の典型的なものが「ヒーローズジャーニー(英雄の旅)」です。これはアメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルが、世界の神話を研究する中で共通する構造があることを発見して形にしたものです。ジョージ・ルーカス監督の『スターウォーズ』の脚本がこの理論に基づいて書かれているのは有名な話です。
 その後、クリストファー・ボグラーが『神話の法則』(2002)でキャンベルの理論をストーリーの12ステップとして再構築しました。
 僕はオリジナル度の高い作品を考えるとき、このボグラーの理論にあてはめて考えようとしたことがありました。すると、どうもうまくはまらないというか、「何か違う」という感じがしました。自分の考えているストーリーに問題があるのか? と思ったのですが、結論は出ないままでした。

「ヒロインの旅」に救われる

 その後、一冊の本に出合いました。「世界を創る女神の物語 ─神話、伝説、アーキタイプに学ぶヒロインの旅」(ヴァレリー・エステル・フランケル著)です。ここには、「ヒーローズジャーニー」とは違った「ヒロインの旅」について書かれています。僕はこれを読んでハタを膝を打ちました。自分が考えているストーリーがこちらの方に近く、ぴったりくる感じがしたのです。寸分違わず同じ、ということではないのですが、「方向性はこっちだな」という感じがしたのです。

 「ヒーローズジャーニー」は、簡単に言えば、主人公が外の世界に冒険に出かけ、敵と戦い、勝利して宝物を手にして帰ってくるというような典型的なヒーローの物語です。それに対して、「ヒロインの旅」は、主人公が外に向かって行動はするけど、自分自身と向き合い、本当のアイデンティティを見つけることに向かっていくような感じなのです。「そうか、自分が書こうとしているのはこっちなんだ。これはこれでありなんだ」と気付いたとき、ずいぶん気持ちが楽になりました。

「ヒーローズジャーニー」と「ヒロインの旅」の比較 「世界を創る女神の物語 ─神話、伝説、アーキタイプに学ぶヒロインの旅」より

 僕の小説は一冊目の『ビンボーの女王』も今回の『パラレル・パスポート』もこちらのタイプの物語です。また監督した映画『世界は今日から君のもの』も同様です。自分がゼロからオリジナルで物語を作ったとき、考えることがヒーローズジャーニーよりはヒロインの旅の方に近くなる傾向があるようです。(実際の主人公の性別は関係ありません。ヒーローズジャーニーをベースにしたストーリーの主人公が女性の場合もあるし、ヒロインの旅をベースにした男性主人公のストーリーもあるでしょう)

自分の小説はなぜか「ヒロインの旅」に

 自分の場合、小説を書いたときにヒロインの旅になる理由は何かと考えると、地の文を書くということが大きいのではないかと思います。地の文を書くことで主人公の心情に寄り添う度合いが高くなるため、ストーリーも主人公が自分の内面と向き合う傾向が強くなる気がするのです。『世界は今日から君のもの』は映画ですが、自分が監督する前提でオリジナル脚本を書き、主人公を演じるのが自分の分身を演じてくれそうな門脇麦さんに決まっていたので、そうなったのでしょう。
 逆にテレビドラマでは、オリジナルだったり、主人公が自分に近いキャラクターだったとしても、客観的な度合いが高い気がします。
 主人公が一番自分に近い『結婚できない男』ですら、「こんな変な男がいるんです。面白いでしょ」とどこか突き放しているような感じがあります。

 小説だと誰が書いても必ずそうなるということではありません。ハードボイルド小説では感傷や恐怖などの感情に流されない客観的で簡潔な文体が特徴になります。また映像では必ず人物を突き放した感じになるかというとそんなことはなく、俳優が演じることで感情がヒリヒリと伝わってくることは当然あります。
 今後自分が小説を書いたとき、これまでの二冊とは違うタッチのものになる可能性はあるし、脚本を書いたときに、小説を書いた経験があるために何か違う面が出てくる可能性もあると思います。(「自然にそうなる」というよりは自分でコントロールできるとよいと思いますが)

型とぴったり一致する必要はない

 これはあくまで私見ですが、ヒーローズジャーニーにせよ、ヒロインの旅にせよ、それをベースにするからといって完全に一致する必要はないように思います。方向性を確認できたり、自分が書いているものに足りない点が見付かったり、「ここを補強しよう」と思えたりすれば、それで十分ではないかと。

脚本の勉強法として小説体を利用できるのでは?

 ひとつ思いついたのですが、脚本家を目指している人の練習法として、「同じストーリーを小説体で書いてみる」ということがあるのでは?と思いました。小説は地の文を書くことで、いくらでも人物の内面を描くことができます。脚本を勉強する人の悩みのひとつに「描写が表面的になり、現象だけになってしまう」ということがあります。ト書きが目に見えるものを簡潔に書くことがそうなる原因かもしれません。試しに小説体で書いてみると(全体でなく一部でも)、地の文で人物の内面を考えざるを得なくなります。そのとき地の文が書けないとしたら、人物の設定や掘り下げができていないということになります。そこをクリアしないと先に進んではいけないと決めればよいのです。

『パラレル・パスポート』発売中です。よろしくお願いします。

一冊目の小説『ビンボーの女王』もよろしく。

映画『世界は今日から君のもの』はU-NEXTで見られます。



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