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感受性の筋肉を鍛える

高校入試の面接の事前対策で、中学の先生から「絶対に訊かれるよ」と教えられていた質問が、

「尊敬する人は誰ですか?また、それはなぜですか?」

というものだった。

先生の教えもむなしく、答えを準備せず本番に臨んだ私は、面接官から実際にまったくそのままの質問をされて、固まった。

本当は、答えはずっとあった。「いません」が答えだった。どう考えても、誰の顔も浮かんでこなくて。何なら、反抗期真っ只中だった私は、周りのすべてを憎みに憎んでた。

例えば、歴史上の偉人というところでいえば、小さいころに母が買ってくれた、キュリー夫人やアンネ・フランクの伝記が大好きで何度も読んでた。NHKで昆虫記のファーブルや野口英世の人生を追った番組も好きだった。宮沢賢治も、ピカソも、ガンジーも好きだった。リアルタイムでは、ラルクアンシエルやミスチルや宇多田ヒカルの曲をたくさん聴いてたし、大好きなマンガもたくさんあった。

と、好きなものはいろいろあったけれど、「尊敬」といわれると、「尊敬」って何だ?とぐるぐるしてしまう。

でも、15歳のちっぽけな私には、ありのままを答える度胸もなくて、尊敬する人がいないだなんて人として異常なことなのでは!?みたいなこともちょっと本気で思っていて、ずっともやもやしてた。

結局は考えるのを諦めて、本番でもし本当にその質問をされたら、そのとき思い浮かんだ人を思い浮かんだままに答えよう、と思って臨んだ本番だった。

固まる頭の中にかろうじて浮かんだのは、豊臣秀吉と、父だった。

高校には、受かった。けど、なんだかのどに小骨が刺さったままみたいな感じ。

「尊敬」が「共鳴」なのだとしたら

そして今、相変わらず、私の頭に「尊敬する人」は浮かんでこない。

でも、少し時間を使って考えてみると、私を動かした言葉やその言葉をくれた相手の顔、そのときのシチュエーションなんかがいろいろと浮かんでくる。

例えば、同期と分かち合った言葉、バレーボール仲間からのエール、とある経営者の方の経験談、上司からのフィードバック、マンガのキャラクターの台詞、後輩からの苦言、飲み明かした友だちの愚痴の中に隠されていた本音、などなど。

紛れもなく、その言葉たちやその人たちとの出会いが、今の私を作っていると感じる。私にとって、「尊敬」という言葉からは、そういう匂いがする。

必ずしもポジティブじゃないものもある。↑の例でも、フィードバックや苦言などは、あんまり思い出したくない記憶も含んでる。自分と他人(その人たち、その言葉たち)との違いを受け止められずに苦しんだことも、一度や二度じゃない。

でも、そんな記憶すらも、「尊敬」という言葉の先に、不思議と浮かんできたりする。

そんなことを考えていたら、「尊敬」というのは「共鳴」と似ているんじゃないかなと思った。

例えば、どんな有名人の名言であっても、私の中に響くものがなければ、記憶には残らないから。きっと「尊敬」の匂いはまとわないから。

私自身が「いいな」と思うこと。「そうありたい」と思うこと。ある人の想い(それが言葉や行動に表れる)が私のそれに「共鳴」して、「私自身もそうありたい」「より自分に定着させたい」と強烈に思うこと。

あるいは、すぐには受け入れがたかったり判断に迷ったりするものであっても、結果的に「あの感覚が自分に定着したから、新しい私に出会えた(成長した?)」と思うこと。

そういう出会いのすべてが「尊敬」に当てはまるのではないかなと私は思う。

それが特定の人だった場合、「ロールモデル」と表現されることもあるのかもしれないけど、個人的には、いろいろな人のいろいろな部分に「尊敬」がある気がする。

感受性の筋肉を鍛える

その上で、最近思うことがある。

自分が「共鳴」するものを見出すということは、自分の中にそれを判断する「軸」があることが前提で、一つの意思決定ともいえる。感覚的に当たり前にできることのようで、「軸」とは「意志(そうありたいと望むこと)」であって、判断のためには「意志」を持って、それを育てていく必要があると思う。

私が何を選び取るかは、私自身が決めなければいけない。正解も模範解答もないし、変化の速い世界では特定のロールモデルを固定するのも難しい。情報、機会、選択肢、手段、多様性・・そういうものを私自身が活用していかなければいけない。

だから、「感受性の筋肉を鍛える」ということを意識したい。

「感受性の筋肉」という言葉は、俳優の高畑充希さんの言葉で、おげんさんという番組の中で高畑さんがそうコメントされていて、なるほどと思った。この言葉はしっとりと私に舞い降りて、共鳴して、そしてしっくりと定着した。(引用は、高畑さんのinstagramより)

いま、物事を説明してもらえてしまうことが多いこの世の中で、(この作品のどこがどう凄いか、とか。どこでどう感動するべきか、とか。)じぶんの心で、観て、感じて、空白の部分を自分の頭や心で埋めていけるような。感受性の筋肉が鍛えられるような。そんな素敵な時間や空間がもっと増えると良いな、なんて。おげんさんの中でのダンスパフォーマンスを観ながら、そんな事を考えていました。

たくさんの情報があふれる今、疑似体験できてしまうことも多い。わかった気になってしまうことも多い。

たくさんの情報と速く激しい変化に身をさらしている中で、インプットがどんどん効率化かつパーソナライズド化される一方、自分がどんどん鈍感になってるんじゃないかと思うことがある。

知った気になってアウトプットしてしまう、触れた気になってフィードバックしてしまう。気になったことや引っかかったこと、ちょっとした違和感、本当に大切かもしれないことなんかをやりすごしてしまう。答えらしきものを求めてすぐにネットを見てしまう。そんな自分にはっとすることがある。

あるいは、自分が体験したことだけに固執して、(時と場合にもよるけれど)いろいろな人のいろいろな感覚や視点があることを無視してしまいそうなとき、無視してしまいたくなるときもある。絞ってしまう、固定してしまう、決めつけてしまう。そんな自分にはっとすることがある。

何なら、その「はっ」という感覚すら、やりすごしてしまうことすらある気がする。

それで本当にいいの?と振り返る。ちゃんと自分の頭で考えろ、私・・!

そういう鈍感さがなんだか怖い。自分の意思決定の根拠になるもの。それは鮮明で確信的なものかもしれないし、そうではなくて、おぼろげで感覚的なものかもしれない。いずれにしても、そういうものにしっかりと敏感でありたい。サルベージできる筋肉を持っていたい。

誰かに求められているわけでもないし、答え合わせがあるわけでもないけど、だから必要ないとは言えない。

私自身が目的を感じながら豊かに生きていくためにも、そういう鈍感さや盲目さによっていつかどこかで人を傷つけないためにも。

確固たる自分なんていないから

判断や意思決定の「軸」というのは、自分の中にあるべきもの(すでにあるもの)・持つべきものだと思うのと同時に、周りの影響によって育っていくものだとも思う。そのどちらも感じながら、ここまで書いてきた。

本当にいろいろなことで、わたしの気持ちは左右される。

「外出自粛」は、もうけっこうしんどい。でも、「人間が移動しないことが、自然環境にいい影響をもたらしている」と聞けば、悪くないかもしれないと思ったり。「××さんとは合わない」と思っていても、意外な一面を見たら「いいやつじゃん」と思ったり。鬼滅の刃を読んで、鬼を憎む気持ちと鬼に同情する気持ちとがごちゃまぜになったり。

(ちなみに、私は映画やマンガでわんわん泣くタイプなのだけど、登場人物の誰かに感情移入しているというよりも、めまぐるしい感情の揺さぶりに耐えられなくて混乱して泣いてるんじゃないかと思うほど、あらゆることは本当に多面的で複雑だと思う)

それくらい、心は揺れる。先に書いた、「必ずしもポジティブでない記憶すらも、「尊敬」という言葉の先に、不思議と浮かんできたりする」ということも、そう。

確固たるものなんてないのかもしれない。実はそもそも「軸」なんて幻想なのかもしれない。

でも、だからこそ「感受性の筋肉」ー

一つはたぶん、自分の感覚に、そして他人の感覚にも、しなやかに反応してサルベージできる筋肉。
もう一つはたぶん、そうしたいろいろな感覚を認めながら、自分らしさというものを育てていく筋肉。

そんなものが必要なのかなと思う。

いろいろな人のいろいろな感覚があって、一つの感覚に対してもいろいろな人のいろいろな感覚がある。そしてその一つ一つが移り変わっていくものでもある。感覚を表現しない自由もあるし、意見や答えを出さなくていいこともある。

それらに向き合う覚悟とも言えるかもしれない。

情報にまみれて、考え出したらキリがなくて、答えが出ないことばっかりで、はち切れそうになることもたくさんある。でもそんな中で、ありふれた言葉だけど「決めるのは自分」だから、私は他の誰でもなく「自分と生きてる」わけだから、正解か不正解かとか、そういうことじゃなくて、もっと根本的に自分自身のことを知りたい。「何が好きか」「何が嫌いか」「それはなぜか」、ぼやかさないようにしていたい。

自分の気になったことはやりすごさないこと(例えば、気になったものはとにかく触りに行ってみる、観に行ってみる、メモして考えてみる、など)
自分に問い続けること(例えば、なぜそれが気になったのか?それによって私は何を達成・充足させたいと思っているのか?なぜ苦手なのか?など)

そういう習慣をつくることかなと思ってる。

そして、自分以外の人のそういうところにも目を向ける。私の中にもきっとある、あなたの中にもきっとある、と信じること。

もちろん一筋縄にはいかないと思うけど、そういう試行錯誤がまた私自身をつくるはず。私自身を鍛えて、育てていくはず。

自分自身をしっかりと認識するということが、結果的には、他人との違いを認識すること、そして他人を思いやることにつながると思うから。自分にも周囲にも、感度を高めて生きていきたいと、感受性の筋肉を鍛えていきたいと、思います。

2021年の抱負として考えていたことだったけど、もう3月になってしまった・・改めまして、2021年もどうぞよろしくね、まだまだちっぽけな私。

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