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私は「多様性」を知っているのか?

最近よく聞く「多様性(多様)」という言葉が、なんだかしっくり来ない私がいる。

私は本当に「多様」を知ってるのか?
私は本当に「多様」との付き合い方を知ってるのか?
(何なら、自分自身ともうまく付き合えてるかわからないのに・・)
そもそも私自身は「多様」の中の何なんだ?

という具合に、「多様性」や「多様」という言葉を聞くたびに「?」がたくさん浮かぶ。

ずばり、興味がある。だからちゃんと考えてみようと思う。

「多様性(多様)」って何だろう?
私はどう付き合っていけばいいんだろう?

きっかけはいくつかある。

一つはやっぱり、最近「多様性」という言葉を本当によく見聞きするようになったということ。ダイバーシティやインクルージョン、エンパワーメントみたいな言葉もそう。考えてみればどれも本当に当たり前のことで、わざわざそういう言葉が声高に叫ばれることが、むしろこれまでと今のおかしさやいびつさを浮き彫りにしているけど、それらを認識・自覚することがまず本当に大切なことなんだと思う。私も興味を持ってそこそこアクティブに、いろいろなコンテンツや取り組みに触れてきてみたつもりだ。その上で、会話の中でぴよっと口にしてみたこともある。でも、私は本当にその言葉の意味をわかって言ってるのか?その言葉を通して本当に伝えたいことは何だ?(むしろ目的もわからずに言葉を使うなんておかしい)という疑問や自問はやっぱり常にくっついてきた。興味もあるし大切なことだというのは信じてるのに、いまいち自分になじんでいない感じがする。

もう一つは、「多様性」という言葉以上に、私自身がリアルに、いろいろな人との出会いから感じることや考えることが本当にたくさんあるということ。これはそもそも私の人生のテーマ(趣味?)みたいなもので、本当に昔から「人って何なんだろう?」「何でみんな同じじゃないんだろう?」「その違いとどう付き合っていけばいいんだろう?」とずっと考えてきた。最近という意味で言えば、今の仕事ではそれこそ本当にたくさんの人といろいろなかたちで関係構築する必要があって、毎日ものすごくたくさんの刺激を受けている。それにほとほと疲れてしまうこともあるけど、私にとってはやっぱり人生のテーマにつながることなので“やめられないぜ!”みたいな気持ちが正直なところ(笑)。もともとは本当に純粋な興味と、自分の周りのよりよい人間関係の構築(問題の解決)がテーマだったけど、最近は、人間関係こそが人の成長や循環の“もと”だと本当に感じていて(それだけ本当にいい出会いに恵まれてる)、もっと知りたい、もっと考えたい、もっと話したい、もっと共有したい、という気持ちもむくむく育ってる。

そんな、いろいろな人とのたくさんの出会いやそこから何かを感じた経験をきっかけに、「多様性」や「多様」というものについてあれこれ考えてみて、最近なんとなく少し具体的なイメージを持つようになった。

なんて傲慢で気持ちの悪い話だと思うけど、正直な話、以前は「多様性」と聞くとなんとなく反射的に「“特殊”な人や“特殊”なこと」を連想してた。自分が「普通」側であることが前提で、そうではない(普通ではない)人やことを受け入れること、そして共存すること。しなければならないこと。もはや言葉にするのもおぞましい感じがするけど、そんな風に「多様性」を捉えてた。

普通のものと、そうではないもの。特殊なもの。未知なもの。異なるもの。きっと世界のどこかにはあるんだろうけど、手が届きそうで届かないもの。よくわからないこと。私には関係ないんじゃないかとすら思えること。本当に正直な話、そんな風に。

でも、それはたぶん違うという違和感もあった。イメージが貧困というか、「知らない」「真剣に考えてない」ことがそんな発想を生んでるような気がしてた。本当に正直に、「よくわからない」だった。

でもずばり、興味がある。だからちゃんと考えてみようと思った。

(今の私が“いろいろな人とのたくさんの出会いやそこから何かを感じた経験をきっかけに”考えることを始めたってことは、私の中でもそれなりの考え方・感じ方の変化があったからかもしれないなと、振り返る)

その上で、私が最近イメージしている「多様性(多様)」というのは、私自身も含めたすべての人のことを指す。例外なく「誰でも多様の中の一人」だということ。「多様」じゃないなんてあり得ない。関係ない人なんていない。誰でも生まれたときからずっと「多様」を内側に抱えて、「多様」の中にいるということ。

現時点ではこのイメージ(少なくとも個人的にはしっくり来ている)に至ったけど、それらを踏まえた上で改めて考える。

「多様性(多様)」って何だろう?
私はどう付き合っていけばいいんだろう?

足りない要素や知らないことがまだまだたくさんあるなぁ、果てしなくあるなぁと思う。

だから、それらを手に入れようとする努力をし続けたいと思う。

私なりのアプローチとしては、

1.自分自身のことをもっと知ること
2.自分の周りの人のことをもっと知ること
3.自分の周りにはいない人のことももっと知ること

たぶん、私が「人って何なんだろう?」と考え出した本当のきっかけは、上にカッコ書きした“(何なら自分自身ともうまく付き合えているかわからんのに・・)”という部分じゃないかなと思う。そう、自分自身が出発点。

いろいろな人との出会いの中で、合う人もいれば合わない人もいた(いる)。どうしても許せない人もいた。アドラー心理学のアドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と言ったそうだけど、あながち大げさではないなと思うくらい、私も人間関係について山のように悩み続けてきた(続けてる)。そういうとき、例えばイライラしたり悲しくなったりするときに、相手に対して「何でアイツはああなんだ・・」「何でわかってくれないんだ・・」「何であんなこと言うんだ・・」と思うこともあるけど、同時に「私は何でこんな風に感じるんだろう?」「何でこんなに激しく反応するんだろう?」「逆にこの反応はどうすれば収まるんだろう?」ということもずっと考える。

そういう意味では、まだ出会いきれていなかったり知りきれていなかったりするいろいろな自分もいるんだと思う。

一番古い記憶を辿れば、小学校5年生くらいのとき。あれは、毎日一緒に登下校してた加奈ちゃんとケンカした日。私は怒ってもいたし、悲しくもあったし、普段はとっても仲がいいはずなのに何でこんなに意見が合わないことがあるんだろう・・と考えながら一人で帰った。「友だちがいなくても強く生きていけるようになりたい」って考えたことをハッキリ覚えてる(何じゃそりゃ)。ただとにかく苦しくてすごく嫌な気持ちで、「何で人には感情なんてものがあるんだろう?」「感情をオフにするボタンがあるなら今すぐに押したい」とも考えてた。

その後も何かつらいことがあるたびに、ごはんも食べられなかったり何も手につかなかったり、胸が裂けそうになるような苦しい感情をコントロールできない、扱いきれない自分がずっと怖いと思ってた。「自分のことなのに、何でコントロールできないんだろう?」ってすごく不思議に思う。

「そう反応する自分が自分なんだから、しかたないよね」と収めようすることもある。相手にありのままの感情をぶつけて嫌な気持ちにさせてしまっても、「これが私なんだから、自分でもコントロールできないそのままの私なんだから、わかってよ」と押し付けようとしたこともあった。

「そう反応する自分が自分なんだ」というところも当然あると思う。反応=感覚でもあると思うし、私は私で生きてる限り、自分の感性や感受性を信じるしかない部分もある。でも最近は、しかたないって手放すんじゃなくて、少しずつ、もう少しできることがあるんじゃないかなぁと思うようになった。

1.自分自身のことをもっと知ること
2.自分の周りの人のことをもっと知ること
3.自分の周りにはいない人のことももっと知ること

こういうことがもっとできるんじゃないかなぁと。そうしたら、(コントロールとまではいかないかもしれないけど)未知の自分自身に振り回されることも減るんじゃないかなぁと。相手ともっと素直に接することができるんじゃないかなぁ、一緒に考えることもできるんじゃないかなぁと。

まだまだ知らないこと、見えていないこと、想像も及ばないこと、違和感をスルーしてること、一面しか見ていないこと、良し悪しを一方的に決めつけちゃってること、主観を押しつけてること・・そんなものがきっとたくさんあるはず。そういう可能性の一つ一つに向き合っていきたいと思う。

そうしたことを、私自身が、私の周りの人が、そして私の周りにはいない人がどんな風に受け止めて何を感じてどんな風に付き合って生きているのか、知りたいと思う。

どれかや誰かだけじゃなく、そういう一連のすべてのことが、私なりに「多様性」と向き合うということかもしれないなぁと。(少なくとも個人的には・かつ現時点では。変わることもあるかもしれない)

「へぇ、あなたと私はそんな風に違うんだね。それが当たり前だよね」ってなれたらいいなぁと思う。

欲を言えば、「その違いがお互いの感性を広げて、成長させてくれるよね」ってなれたらいいなぁと思う。

・・どうだろう。難しいかもしれない。たぶん、果てしない!私はもとがひねくれてるから、そんな素直になり切れるかもわからない(笑)

でも、実際にそういう奇跡みたいに素晴らしい経験も間違いなくあった。受け入れ難かったことを受け入れてみたときに新しい発見があったり、イヤイヤでもおそるおそるでも一歩踏み出した先に自分の可能性が広がったり、誰かに言われた強烈な一言が新しい感性を引っ張り出してくれたり。だから“やめられないぜ!”なんだった。(戻ってきた!)

「知らないということは、“ない”ということと同じ」という言葉をどこかで見た。それはすごく怖いと思う。

だから、知り続けていきたいと思う。私にとってはまだしっくり来させようとしてる途中の「多様性(多様)」というものも、その言葉があることで、私は認識して、ちゃんと考えてみようというきっかけになった。

「よくわからない」って受け入れなかったり諦めたりすることは簡単だけど、できることを始めてみようと思う。

ということで、いろいろなチャレンジしていこう!という決意を残しておくために筆をとってみました。内容をあんまり決めずにタイトルを先に決めたけど、「知っているのか?」というタイトルにちゃんと戻ってきてよかった!(一ヶ月くらいかけて揺れに揺れながら何度も書き直して、あぁもうお蔵入りかななんて思ったりもしたけど、まぁこんな感じが私らしいなと思いながら書き切れてよかった・・!)

学んだことや気づいたことは、またちょこちょこ書いていきたいと思います。


【こんなことに取り組んでみてます】
■チームランチ
チームで、お互いの「違い」や「いろいろ」を知ろうというチャレンジをしています。月に一回。マイペースに主催しています。でもいろいろ発見があるので、改めてテーマ別に書きたい。
■メディア
Playersというオウンドメディアで取材と編集をしています。スタートアップ起業家をはじめ、新しい産業を創ろうとチャレンジしている人たちの物語を書き起こしています。そこに「違い」の成り立ちがあると思うから、すごくおもしろい。ぜひ読んでみてほしいです。最新作はこちら
■テレビ、アニメ、マンガ
「自分の周りにはいない人のことももっと知る」にはもってこい。だし、自分の感性や感覚に気付くのにももってこい。(ただ暇なのと、ただ趣味なだけという説もある)
~つづく~

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