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【『鹿川は糞に塗れて』刊行 & 「イ・チャンドン アイロニーの芸術」公開記念 イ・チャンドン 自作を語る トーク&サイン本お渡し会】 詳細ご報告!

2023年8月8日。韓国から来日中の映画監督イ・チャンドン氏を 代官山 蔦屋書店シェアラウンジのイベントスペースに迎え、「イ・チャンドン 自作を語る トーク&サイン本お渡し会」が開催されました。貴重な場を提供してくださったのは代官山 蔦屋書店さん。司会進行は韓国映画の取材で大活躍の映画ライター・佐藤結さん。通訳は韓国映画の字幕の第一人者の根本理恵さんという最強の布陣です。

会場参加のオフラインチケットは告知後、瞬く間に完売。オンライン視聴チケットを含めて「参加チケット」と「参加チケット+サイン本」の2種類が用意されましたた。限定50のサイン本付きチケットの大部分を持つ会場参加のお客様は、イベント終了後、著者からサイン本を直接手渡しで、また遠方からオンライン視聴をされていた方へは、後日サイン本が書店から発送されました。

新作ドキュメンタリー『イ・チャンドン アイロニーの芸術』では監督の小説家時代の話も語られる

8月25日から全国で順次スタートの特集上映「イ・チャンドン レトロスペクティヴ4K」https://leechangdong4k.com への期待も大きく、マスコミ関係者も詰めかける中、小説家から映画監督へ転じたイ・チャンドンが、自作について率直に語る、貴重なイベントの詳細をお届けします。(文責:アストラハウス)


会場は猛暑の代官山蔦屋書店

生まれてはじめての「ブックコンサート」

進行 佐藤結さん(以下、佐藤):本日は監督のトークイベントにお越しいただきましてありがとうございます。ご紹介にあずかりました映画ライターの佐藤結と申します。どうぞよろしくお願いいたします。皆さんも既にご存知のように、イ・チャンドン監督が92年に発表しました小説集『鹿川は糞に塗れて(ノクチョンはくそにまみれて)』が、中野宣子さんの訳で、このたびアストラハウスより出版されました。

この本には激動の時代を生きる人々の姿を監督らしい目線から描いた5つの中短篇が収められており、どれもとても読み応えのある作品です。また、映画ファンにとっては、その後の映画作品に続いていくような設定やキャラクターを、そこここに見つけられる作品ではないかと思っています。8月25日からは、フランスのアラン・マザール監督がイ・チャンドン監督のあゆみを振り返るドキュメンタリー「イ・チャンドン アイロニーの芸術」も公開となります。本日はこうした書籍の出版と映画の公開に合わせて来日されたイ・チャンドン監督をお迎えして、小説について、映画について、時間の許す限り伺いたいと思います。

……実はこうしてすぐ本題に入ろうと構成台本を考えていたのですが、「こんなに素敵な雰囲気のところでお話をするんだから、軽い話から始めようよ」と監督がおっしゃったので、少し軽めのお話から始めたいと思います。監督、こういったイベントを、監督ご自身は、韓国ではほとんど行ったことがないと伺ったのですが、いかがでしょう。

トーク中の著者 穏やかな深い声が魅力

イ・チャンドン監督(以下、イ監督):まずは暑い中お集まりいただいた皆さんに感謝しています。この『鹿川は糞に塗れて』は30年も前に書いた小説ですが、長い時間を経て日本で翻訳されて邦訳出版が叶い、こうして日本の皆様にご紹介できることになりました。このようなイベントを、韓国では「ブックコンサート」と呼んでいます。いま、韓国ではこのようなブックコンサートが流行していて、たくさんのところで行われ、効果的な書籍の宣伝手段となっています。しかし私が小説を書いていた頃は、ブックコンサートという言葉さえありませんでした。こうした形での本の宣伝などありませんし、作家自身がイベントを行うなんてずうずうしいと思われるような、そんな時代でした。

ですが、私は小説を書いて、その後、映画の世界に身を置くことになりました。映画となると、やはり宣伝をしないわけにはいかないんですね。莫大な制作費をかけますし、出資してくださった方もいます。観客の皆さんに映画館へ足を運んでもらうためには、どうしても宣伝をしなければなりません。それで、自分が撮った映画が、さも「ものすごい映画」であるかのように宣伝をするわけです。そういうことに私自身もだんだん慣れてきました。そんな状態で、この小説を書いてから30年以上たって、いま、このようなブックコンサート、このような本のイベントに参加することになりました。このイベントでは、小説について自分のことを語ります。まるで作家時代に戻ったような気持ちで、ちょっと恥ずかしく、謙虚な気持ちになっています。

佐藤:ブックコンサートは韓国で主流になっている本のイベントではあるけれど、監督ご自身は初めての経験というわけですね……そう考えると日本の私たちは非常に貴重な機会をいただいたと……改めてそう思います。

イ監督:ありがとうございます、お恥ずかしいです。

「疎外感」から生まれた「つながりたい」思い

佐藤:監督は小説家から監督になられたと私たちもよくプロフィールを紹介したりするんですけれど、そもそも、どうして小説を書き始めたんですか。

イ監督:私は小さな子どもの頃から文章を書き始めました。落書きでもするように、いつも何かを書いていました。当時、文章を書く私の心には、「誰かとつながりたい」「誰かとコミュニケーションを取りたい」という欲求がありました。小説にも描かれていますが、私が子どもの頃の韓国社会は朝鮮戦争が終わったばかりで、誰もが苦しい生活をしていました。私の家族も事情があってひどく苦しい生活を強いられていたので、私自身は常に「疎外感」を味わっていました。例えば、子どもの頃よく引っ越しをしたんですね。間借りしていた家からまた別の間借りの家に移る、というように引っ越しが多かったのです。子どもにとって引っ越しというのは、引っ越し先の路地裏で遊んでいる子どもたちと新たに出会う体験です。その子たちにとって私は、おそらく異邦人のように見えたのだろうと思います。私は常に疎外感を感じ、その場に馴染むことが非常に難しく感じられました。

映画『オアシス』 脳性麻痺のコンジュ(ムン・ソリ)とジョンドウ(ソル・ギョング)

イ監督:私には7歳年上の姉がいるのですが、姉は脳性麻痺の障害がありました。そこで常に周りからからかわれていました。当時の子どもたちは野蛮といいますか、そういったことをあからさまに表現していたので、脳性麻痺の障害がある姉の後をついてきて、後ろ指をさしたり、「ばか、ばか」などとからかったりしていたのです。私はいつも、姉をからかう子どもたちと喧嘩をしなければなりませんでした。そこでなおさら疎外感を感じることになったんです。そういった寂しさがいつもどこかにあって、「顔も知らない誰かとつながりたい」「誰かと意思の疎通を図りたい」という欲求が、私の中にあったのだと思います。そうした欲求が、私に文章を書かせることになり、それがのちに作家になるという道になり、映画監督になる下地にもなったような気がします。そして私はいまでも映画を作りながら「観客の皆さんとコミニケーションをとりたい」という欲求を持ち続けています。ですので、この場で皆さんとこのように意思の疎通を図れたことは本当に嬉しいですし、幸せなことだと思っています

佐藤:ありがとうございました。それではここでドキュメンタリー映画の中で、作家時代のこと、今回の小説のことを監督自身が語っているシーンを見ていただきたいと思います。まずは「ノクチョン」の方、ご覧ください。(4分ほどの動画が上映される)

映画『グリーンフィッシュ』 兵役を終えて主人公マクトン(ハン・ソッキュ)は故郷イルサンへ向かう

ソウル市内と近郊の、二つの再開発

佐藤:いま、この映像を見ても感じたのですが、監督は『鹿川は糞に塗れて』という小説を92年に発表され、その後97年に映画『グリーンフィッシュ』を発表されています。私は『鹿川は糞に塗れて』を初めて読んだとき、映画『グリーンフィッシュ』に重なる部分を強く感じました。再開発といいますか、人がすでに住んでいるところを踏み潰して新しいアパート群を建てていくというあの光景が、非常に重なるように感じたんです。この二つの作品に関連はありますか。監督は当時、90年代の韓国社会をどのようにご覧になっていたのでしょう。

イ監督:はい、この2つの作品には関連性があると私も考えています。私が『鹿川は糞に塗れて』を書いたのは80年代の終わりから90 年代はじめのことで、当時、上渓洞(サンゲドン)という、ソウル市内で初めての再開発で大規模なアパート団地が作られることになったんですね。上渓洞はもともとソウルの中でも特に貧しい人たちが暮らしているようなところで、掘っ立て小屋のような家もたくさんあるような町だったのですが、そこに新しくアパート団地が建設される、そんな時期でした。韓国社会と日本社会を比べてみますと、もちろん日本でも都市化が進められて経済的にも産業化がどんどん進むというのは同じだと思うのですが、日本の場合には、「空間そのもの」は変わらないような気がするんです。歴史ある古い建物は時間がたっても残っていたりしますよね。でも韓国の場合は、空間そのものが跡形もなくガラリと変わるようなことがたくさんあります。その代表的なものがこういった新都市の開発です。新都市が作られた根本的な理由として挙げられるのは、住宅難です。ソウルの首都圏で人口が爆発的に増えてしまい、住宅難が発生しましたので、それを解消するために大きな団地、新都市が必要になったわけです。

ソウルで初めて新都市が作られたのが、このサンゲドンでした。さらにソウルを離れて、ソウル郊外にも新都市が作られるようになっていきます。初めてソウルの外で作られた新都市が、一山(イルサン)や盆唐(プンダン)というところでした。いまではそれ以外にも新都市は盛んに作られています。私が『鹿川は糞に塗れて』を書いた頃というのはソウルのサンゲドンに新しいアパート団地が作られていた時期と重なります。そして映画『グリーンフィッシュ』はソウル郊外にイルサンという新都市が作られていた頃のお話になるんですね。『グリーンフィッシュ』はそこに住んでいた農村の青年が、空間が変化したことによってアイデンティティーの混乱を生じるという、そこに焦点をあてて作られた映画です。それを考えると、2つの作品にはやはりつながりがあると思います。

佐藤:ありがとうございます。つながりはあるが、少し時間差があるということですね。ここでもう一つ、「星あかり」という小説について、その監督が映画のモデルとなった町で語っているシーンがあるので、これを見ていただいてから次のお話に移りたいと思います。(4分ほどの動画が上映される)

映画『シークレット・サンシャイン』 左が主人公のシネ(チョン・ドヨン)

二人の「シネ」は、「信愛」と「信恵」

佐藤:ありがとうございました。まさにこのドキュメンタリー映画の中で小説について語る監督の背景に映画『シークレット・サンシャイン』の映像が引用されていたように、この『星あかり』という小説を読みながら、私も、女性が主人公という連想から映画『シークレット・サンシャイン』のことを思いましたし、主人公が拷問を受ける部分では、拷問をする刑事の背後に映画『ペパーミント・キャンディ』の主人公ヨンホを重ねて読んだりもしました。ところで、小説『星あかり』の主人公が「チョン・シネ」、映画『シークレット・サンシャイン』の主人公も「チョン・シネ」。なので、同じ名前には意味があるのでは、と考えていたのですが、韓国語ではちょっと違うそうですね。

イ監督:そうなんです。韓国人は名前をつけるときに、その名前の元になる漢字の意味を必ずしも追求するわけではありませんが、無視はしません。『シークレット・サンシャイン』の主人公の名前はシネですが、漢字では「信愛」で「シン・エ」。続けて読むと「シネ」という発音になります。一方で『星あかり』の主人公の名前は「信恵」と書いて「シン・へ」です。こちらも続けて読むと「シネ」と言う発音になり、日本語のカナ表記では同じになりますね。そんなわけで、二人の主人公の名前は実はそれぞれ違うのです。ですが、女性として受け入れ難い巨大な力にたった一人で立ち向かい闘う、という点で、二人の女性主人公は共通していると思います。『シークレット・サンシャイン』に登場するシネは、幼い息子が誘拐され、息子を失ってしまうんです。その後、自分の運命をもてあそんだ、自分に悲劇をもたらした「神」と闘うことになります。小説の『星あかり』のシネの方は、もともと自分の良心に従って現実を生き、自分を取り巻く現実に打ち勝つために頑張って生きてきた若い女性でしたが、政治権力や国家権力の犠牲になってしまいます。あろうことか警官に性拷問を受けるのです。女性として最も受け入れがたいであろう大変な拷問を受け、抵抗することができない。相手は抵抗できないような力を持った対象なので、闘ってもとても勝ち目のない相手と、それでも闘うしかなかった。そう考えますと、お互い、全く違う状況ではあるのですが、やはり2人にはとどこか似たような点があるといえそうです。

映画『ペパーミント・キャンディ」の主人公ヨンホ(ソル・ギョング)

イ監督:先ほど佐藤さんから『星あかり』で性拷問をした刑事と『ペパーミント・キャンディ』の主人公ヨンホが少し重なって見えたというようなお話があったのですが、二人とも政治権力にとらわれてその権力の下で動かざるを得なかった人たちではあると思います。ただ、『ペパーミント・キャンディ』のヨンホは、当時の刑事という立場で拷問をしたとしても、おそらく性拷問はしなかったのではないかと思いますよ。もちろん私が作った主人公なので、あえて言うことになりますけれど、少なくともヨンホは性拷問だけはしていないだろう、と。なぜかというと、ヨンホの内面を破壊したのは、彼が光州事件の鎮圧軍として駆り出され、蜂起した民衆の鎮圧に加担することになり、そして誤って一人の少女の命を奪ってしまう、という辛い過去があったからなんです。彼は全く罪もない少女を自分が殺してしまったという罪悪感にさいなまれていたため、心から愛していたスニムという女性に対して、非常に残酷な形で別れを告げてしまいます。彼はそういうトラウマを抱えていましたので、少なくとも、力のない女性に対して性拷問はしなかったんじゃないかと、個人的には思っています。

文学と映画の本質的な違い

佐藤:いまのお話を伺っていてもそうですが、この小説を読んでいると、その後の映画と通じる部分をあちこちに見つけられたりします。でも、比較するなら、映画の方が少しロマンティックという感じで、小説は容赦なく厳しいシーンが続きます。この違いは、小説と映画という表現形式の違いなのか、あるいは、監督が歳を重ね経験を積んで変わっていかれたからなのか、その辺はどうなのでしょう。

映画『ポエトリー アグネスの詩』 詩を書きたいと言葉を探す主人公のミジャ(ユン・ジョンヒ)

イ監督:そうですね、色々な理由が考えられると思います。そしてそれを考えることで「文学と映画」というメディアの違い、本質的な違いを見つけることができると思うんです。文学というものはそれ自体で完成されるものではなく、「読者の想像力によって完成されるもの」だと思います。小説はいつも「不安定なもの」ですが、読者の手に渡って完成されるわけです。どういう風に完成されるのかは、読者の想像力にかかっているような気がします。文学は言葉の力を駆使して表現されるわけですが、言葉を使って小説を書くとき、どんなふうに読者に想像させるのか。読者に豊かに想像させることができれば、それは立派な文学作品だといえるのではないかと私は思っています。

かたや映画というのは、また状況が違うんですね。映画は「全てを観客に見せるもの」です。しかし、感覚としては、全てを見せられたと感じながらも、最終的に映像に対して満足できないということもあると思います。小説を原作にした映画もよく撮られていますが、観客が小説を読んで映画を見たときに、「ああ、映画の方が不安定だ」と感じるのは、やはり映画のほうは全て見せているようでありながら見せていない部分もあり、それで不安定に思えるのではないかと思うのです。その点が小説と映画の違いだ、と。例えば、私が書いた『星あかり』という小説は、性拷問を受けながらそれに打ち勝つ女性の姿が描かれているのですが、読んでいて、「ひどく辛いな」と「苦しいな」と思ってくださったとしたら、これは佐藤さんが想像力を働かせて、生々しくこの小説を読んでくださったことの証だと思います。

映画というのは、確かに全てを見せてはいるのですけれど、私は私が作った映画を観客の皆さんが見たときに、「全部見せているけれど、見せていないものがある」と感じ取ってほしいと思っています。それと同時に、私自身でさえまだ見えていないものまで、観客の皆さんが見い出し、考えてくれたらいいなと、そんな思いで作っているんです。映画というのは観客の目の前でスクリーンを通してを見せられるものですよね。現実に見えているもの以外に、スクリーンの向こうにあるものまで感じてもらえるような作品を作りたいと思いますし、映画の作り手というのはをそうするべきだと思っています。そんなわけで、いつも私はそういう映画を作るためにはどうしたらいいのかと、悩んで、悩みながら映画を作り続けています。

村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を原作とした映画『バーニング』 

佐藤:まさに『バーニング』という映画は、「見えないものを見せよう」としている映画だなと感じながら拝見しました。

イ監督:そのように見てくださってありがとうございます。

佐藤:そう考えると、監督は、映像で小説を書こうとなさっているように思います。実際に、もう小説は書かれないのですか?

イ監督:小説を書かなければいけない、とは思っています。ただ、いまは、映画をこれからもまた作れると考えているので、引き続き、映画作りをしているわけなんです。でも、いつの日か、きっと小説を書ける日が来るだろうと私自身も思っています。

来日の8日、9日の両日、監督はイベントと合わせて多くのインタビュー取材を受けた

会場からの質問に答えて

佐藤:楽しみにしております。さて、今日はたくさんのお客様にお越しいただき、入場の時にお渡しした用紙で、監督への質問というのをたくさんの方からいただいています。時間の許す限り伺います。まずは会場のクメさんからの質問です。

「監督の作品は、世界の美しさと残酷さが同じ量、含まれていると感じます。その二つを両立させるために意識していることはありますか?」

イ監督:私は作品を作るときに、特別「美しさと残酷さを両立しよう」という意図を持って物語を書いたり映画を作ったりはしていません。とはいえ、人生そのものがそういう側面を持っていると思います。人生には光と影があります。程度の問題かもしれませんが、幸せな気持ちと苦しみが人生にはあり、そしてまた美しさと醜さの両方とも、人生にはあると思うんです。私は作品を作るとき、私たちのありのままの人生の姿をできる限り正直に、嘘をつかずに描きたいと思っています。苦しみが大きければ大きいほど、対極にある人生の美しさが恋しくなりますよね。そういった人生のバランスというものも、作品の中に描きたいと思います。

佐藤:ありがとうございます。そろそろお時間ですので、最後に会場からクリハラさんの質問です。

「好きな日本映画があれば教えてください」

イ監督:日本の映画では、古典といわれる古い作品の中にも、好きなものがたくさんあります。一つ一つ、ここではあげることができないくらいたくさんあるんです。最近の作品でいうと、特に最近、活発に活動されている日本の監督さんで、誰もがみんな良いというので、私もそれに混じって一緒に「いいですよ」っていうのはちょっと恥ずかしいんですけれども、是枝監督や濱口監督の作品はとても良いと思いますし、私自身も刺激をいただいていています。そして、観客にとっても必要な作品だと思っています。

佐藤:ありがとうございます。最後に監督から、小説を読まれる方や、映画をご覧になる方へ、メッセージがありましたらお願いします。

寂しさや疎外感を分かち合い、コミュニケーションを

イ監督:私はメッセージをお伝えするのが苦手なんですが、先ほどもお話しをしたように、私が小説を書くようになったきっかけは、私と同じ考えを持っている人たち、私と同じような感情を持っている人たち、それがどこかにいると信じていたからです。そしてその人たちとそういう気持ちを分かち合いたいと願って、いままで作品を作ってくれてきました。そういう人たちとコミニケーションをとりたいという欲求や欲望があったからこそ、小説を書き始めたわけです。いまでもその気持ちは変わらず、そういう心境で映画を作っています。これから私がどんな映画を作るにしても、そして、もしかしたら小説を書くことになったとしても、お互いの寂しさや疎外感を分かち合い、コミニケーションを取れたらいいと願っています。

今日はここに来てくださり、私と一緒に気持ちのふれあい、コミニケーションをとって下さって、本当にありがとうございました。皆さんともう一度お会いできることを願っています。カムサハムニダ、ありがとうございました。


イベントの前に、50冊のサインをする著者


イベントの締めくくりは、サイン本のお渡し会


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