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ある男/【読書report】

「マチネの終わりに」を映画で見たことはあるものの、著者の作品を呼んだのは初めてだ。読みながら、何度もその文体に魅せられた。
この作品も既に映画化が決まっており、表紙には出演者の写真があった。
ゆえに、原誠という、早い段階で亡き人となり、以降回想としてしか現れない青年の、深い悲しみを湛えたその姿が、窪田正孝のイメージとぴったり重なりすぎて、切なさも倍増したのであった。

著者が伝えたかったことは何だったのか。
「愛にとって過去とは何か」
これが、全体に投げかけられた問であることは間違いない。
しかし、何がテーマか、著者が言いたいことは何か、途中でわからなくなるくらい、様々な社会的課題が入り乱れる、濃度の高い小説だった。

在日韓国、中国人へのヘイトの問題、
死刑制度の問題、
殺人犯の家族の受ける差別の問題、
戸籍と人生の問題、

城戸にとっての過去は、在日三世であると言うルーツ。
妻の香織は、それを受け入れて愛したはずだが夫のルーツを子どもに
伝えられない。

原誠にとっての過去は、殺人犯の息子であるという宿命。
妻の里枝はその過去を知らずに愛し、3年9か月で夫を亡くして初めて
夫が「谷口大祐」ではなかったこと、彼がどんな男だったかを知る。

「ワケアリの相手」を好きになり、彼もしくは彼女には何か、
後ろ暗い過去があるのだろう、と思いながらも愛してしまう…
というストーリーは比較的ありふれている。
あるいは、恋人や伴侶がいたかも…と思いながらも恋に落ちる、
というストーリーも定番だ。

しかしこの「谷口大祐」として里枝の前に現れた男は、
「谷口大祐」としての過去を語り、公式文書上も、「谷口大祐」
だったのだから、里枝は一切過去を疑ったりしていなかった。
「何か秘密のある人なのだろう」と気づきながら愛し、後にその過去が判明することと、その人の過去も含めて愛したと思っていたのに全くの
別人だったことが後に判明するのとでは、その衝撃の度合いと種類は
全くの別物だろう。


悲しそうな目、描く無垢な絵、優しい人となり。
そういった目の前にいる「谷口大祐」が、里枝にとっての夫であり、心から愛せる人だった。そして、彼の語った過去も含め、彼を愛し、理解した。
しかし、彼の語った過去が、最初から「原誠」のものだとしたらどうだろうか。殺人犯の息子として迫害されてきた男を、再婚相手に、自分の息子の父親に迎えることができただろうか?
ある種の過去は、目の前の人を色付けしてしまうのは事実だ。

城戸の背負ったルーツも類似したものだ。
何一つ本人の罪でもなく、法的に悪くもない。
それでもなお堂々と公にできず、家族として関わり合うことに抵抗を生み出す種類の過去、というものがこの世には存在してしまう。
一種のスティグマだ。


「谷口大祐」は亡くなり、里枝は夫の過去を知ってもなお、
愛することができたかどうかを自問自答する。
その答は、簡単に出そうにないが、出さなくても良いと思い、
一緒に暮らしていた時が本当に幸福だった…と、
改めて思いを巡らせるところで話は終わる。
この自問自答は永遠に続くのかもしれない。
答を出さなくてもよいのは、彼が亡き人だからでもある。
幸福な思い出として、大切にしまっておけるから。


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