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憧れの自分

人間には誰にだって夢がある。理想の自画像というのか、理想の自分というのがある。あなたにとってはどんな自分が「憧れの自分」だろうか。

夢はでっかいほうがいい。今のようにSNSとかブログとかで自分をプレゼンできるんだから、「広告もかねてどんどん自分のイメージを膨らませちゃいな」という考えかたもあるだろう。

まあ、広告だと割り切って自分を「憧れの自分」にするのはビジネス的には良いと思う。

SNSやブログで自分のことを広告のように告知するのは、旧来のマスコミやネットの諸媒体に広告を出すことよりははるかに驚くほどに安価だからだ。

自分の一番輝いている部分を拡大してみる。他の追随を許さないような意識高い呟きをしてみる。

逆に、いかに自分が謙遜であるかを書物の感想によせて書いてみる。

アーティストである自分。ちょいモテの自分。

もちろん、ひとつひとつが自由なことであり、やりたければ大いにやればよいと思う。

まあ、私のように老人にもなると、老い先が短いのでどうしてもゆとりがなくなり、なんども繰り返したこと(失敗した~と思うこと)にまた時間を使うのは惜しいので、自分を盛っているような、なんというか「自分語り」は自分が知っている分野かつ自分より若そう(印象派)な書き手のものはだいたいがまず読まない。

しかし、フォローはする。その書き手の書くものに3%くらい有用なものがあれば、当然フォローしてレスもつける。3%は用語とかで感知して、そこだけ入って読むのである。

とはいえ、個人でコメント欄を閉じているひととか、Twitterでリプ欄閉鎖のひととかは、読みはしてもそれだけである。

著名人・知識人・政治家などでもリプ欄閉鎖のひとは二の次になる。自分に必要なときだけ反応するのみである。

そういう人には意見もいわないし反論もしない。そんなこと面倒くさいからである。

性格が悪いかもしれないが(長く生きてきて性格が良いひとといいうのにはそんなにあったことがないけど)、少なくとも性格が良いひとで「自分のこと知ってください」というのにリプ欄を閉じるとかいうひとはいないと思う。

ひきこもりタイプとか孤独に自分語りでエネルギー発散するタイプのひとがリプ欄閉じるのは無論ありである。

むしろ、リプできないことで、安心して読むことができる。私のような年寄りが「知ったかぶり」でレスつけたせいで、そのようにストレスを受けている繊細な人間を傷つける可能性がないのは良いことだからだ。

しかし、自分を多少でも売り出そうとしているのにリプ欄を閉じるというのは、閉じている相手には「あなたはいうことをきいてくれるだけでいいです」と意思表示しているようなものであろう。

こんなにSNSが盛んなのに政治的な側面がいまいち盛り上がらないのは、「スター選手級と自認している政治家のSNSの使い方がアレだから」だと愚行するほどである。

スター選手級のひとがアレだと、先走った後輩がそれをまねるものである。こうして政治の世界のSNSなど、資料としてしか読まれなくなる。

政治家は「お控えします」といって追求を免れるのに好待遇(ボーナスいくらでしたっけ?国会議員さん?)なので、リプくらい付けられないならば注目していても面白くないのである。

普通の庶民にとって政治とは政策であり、自分の自由や幸福のためになるか否かである。それだけだ。

私は政治の政策などにも関心があるほうだし、出来事的には結構追っているほうではある。

しかし、ここ10年で老人になって、政治家がいかに保身にきゅうきゅうとしているか、それなのに非常に調子に乗りやすく、独特の世界で生きているか理解するようになり、昔風にいうと「白けてしまった」。

話しを戻そう。

21世紀になって、私の住んでいるような田舎でも「憧れられるひと」というワーディングを自分や自分の周囲に関して、口頭ですら使うひとがでてきた。

「憧れのひと」なら大昔からあったが。例えば「中居先輩は私の憧れのひとです」とかね。

でも、「憧れられるひと」というのは、これは、実際にこの耳で聞いたのだが、もう時効だろうから、無料で書こう。

「私には外国人の血が入っているので血が熱くて、時に心が高ぶることがあるのです」とAさんがいうと、傍らのBさんが「だからあなたは憧れられるひとなんですよね」というものだった。

なにがいいたいかというと、「憧れられる」というのは「憧れてくれるひとを想定している」ということである。「誰かにとっての憧れの自分」とでもいうのか。論理的に(シランケド)意味がわからない。

SNSやブログでは、個人が勘違いでそういうことを呟いたり発表したりするのは自由経済だから別にいいのだが、影響力を行使しようとして「憧れの自分」を醸し出すのは、成功しても失敗してもあまり好みではないといえば角が立たないか?

まあ、「憧れの自分」を打ち出すということに長く耐えられるひとというのは自省能力が低いひとか、生育環境などである種の洗脳を受けているひとか、あるいは差別の萌芽を抱えているのかもしれない。

自論だが、政治家など「憧れられる」ことが多かれ少なかれステータス(票)に影響するような仕事では、「憧れの自分にこだわる人」は向かないとはいわないまでも、人気曲線は段々と下がりますよね~系だと思う。

「みなさん、誤解されているんです。それは違います」と、今も検討使の彼がいっているではないか。

私の生活が今の倍豊かになれば、この一文は削除するであろう。

早く消したいです(*´ω`)

ぱなせあつこ

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