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枯れない花

花は、心の余裕である。とは、我が祖父の思想であった。

部屋に常に花を置くこと。それは水換えや、落ちる花びらの処理など、煩わしさも併せ持つ。時間が経って枯れれば、それを手折ってゴミ箱に向かい、そしてまた新しい花を買う。生花だって、買い続ければそう安くはない。

人間の三大欲求に直結しない、必須ではないものの代表格。私にとってそれが花だった。

それでも祖父は、居間に花を切らすことを非常に嫌った。花が盛りを過ぎたと見るや、次の花を買いに行かなければとそわそわしだす。体を壊して、昔のように車で花屋に行けなくなってからも、その様子は変わることがなかった。

そんな祖父が好きなのは、百合。何度花を新たにしても、結局買ってくるのはいつもそれ。「今回の百合、花が大きくて良いだろ」と、ほぼ毎回言っていた。

大輪の花を咲かせる百合は、その中に大きなおしべと、茶色い花粉を持つ。まめに花の水を換えつつ、花粉を下に落とすとよくないからと、花が開くや否や、中のおしべをピンセットで丁寧にとるのが祖父の常であった。

腰を悪くして、杖をつかずには歩けなくなって。
花の水換えもままならないのにそれでも、祖母に頼んででも百合を置かんとする祖父を見て、不思議にも思った。なぜそんなにこだわるのか。面倒くさがりの私なら、いの一番に放棄してしまいそうなところである。

そのとき、前述の言葉を思い出した。

まだ祖父がぴんぴんしていた頃、幼い私に言った言葉。
花はなくても生きていける。でもあると、部屋が一気に華やかになる。あるのとないのとでは全然違う。面倒な水換えや世話、そういうちょっとしたことのできる心の余裕を、花を生ければ持てるのだと。

まあ何より、百合が好きなんだ。そう笑った祖父の案で、かつて生まれたばかりの私の名前が「百合」になりそうになっていたと知ったのは、もっと後の話。



ところ変わって。
私が母と暮らす我が家には、最近花がある。
母がどこかからいただいてきた花。

しかし。
花は花でも、枯れない花である。

プリザーブドフラワーというらしい。プリザーブド…英語で「保存された」。見た目は生きた花そのものだが、実は薬品により特殊な加工をされている。それにより、見た目は花の盛りの姿のまま、でも水やりもいらない、その上枯れない、そんな花ができるのだそうで。

何もせずに数年持ちます、と書かれた説明書きと、時の止まった美しい花を見比べて、不思議な気持ちになった。

真っ赤なバラに、白いラン。

手をかけてやらなければ明日にでもしおれてしまいそうな、そんな瑞々しい花は、しかし実際にはそうではない。

最も美しい瞬間で、時が止まっているのである。

たしかに、造花ではないのに。

ところどころに見える葉や花弁には、たしかに葉脈やら繊維やらが透けているのに。

それでもそれは、なんだか生きた花とは違うものに見えた。

面倒を削ぎ落とし、美しさだけを享受できる環境になったにもかかわらず、拍子抜けしたような気がして。どこか虚しいような、そんな気持ちに蓋をした。


そう思ったのが、もう二ヶ月くらい前の話。

最近はふとした瞬間に目が止まり、なんとなく花に手をかざすのが癖になった。

もとより、母と暮らすようになってから花の絶えがちだった我が家である。

面倒を愛するような、そんな祖父のような余裕は、そもそもまだ持ち合わせていなかったのかもしれず。

だから素直にその美しさを愛でている。

それでも毎日微塵も変わらぬ姿に、たまに疲れているんじゃないかと思ってしまうときがある。

そんなときは、花に手をかざして、
「お前も大変だねぇ」
祖父の口癖を口にすることにしている。

枯れない花から返事をもらえたことは、まだないけれど。

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