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ドキュメンタリー映像のすすめ

今回はclusterやバーチャルSNSと関係ない話です。あしからず。

最近、若い人から「自分の目で見たり耳で聞いたことしか信じない」という声をききます。
前から一定数そういう人はいて、そう言いながらジャーナリストや記者になる人たちもいたのですが、このところ特に多いような肌感覚があります。
2000年代インターネットの普及によりオルタナティブなメディアが出始め、2010年代のSNS時代になると、若い人はテレビを信じなくなりました。
戦後テレビが普及し始めた1950年代後半に社会評論家の大宅壮一さんが【一億総白痴化】(テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう)と提言していましたが、半世紀テレビにどっぷりつかってきた上の世代は、確かにテレビメディアを信じ切ってしまった部分があります。その上で、インターネットネイティブでテレビになじみなく育ってきた世代がテレビや既存メディアの嘘を疑い始めたのです。それが今度は2020年代になると、そのSNSでさえ嘘じゃないか、ということを思い始め、冒頭の感覚に思い至ったのではないかと推察しています。

放送メディアとプロパガンダ

1963年11月23日早朝。世界の放送史に残る日米間初の衛星生中継が行われました。しかし、その実験の記念すべき第一歩は、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件の現場でした。
テレビの前に最後の瞬間を映し出されたケネディ大統領ですが、ケネディとテレビにはもうひとつエピソードがあります。それは、米国大統領選の歴史上初めてのテレビ討論会に登場した大統領だということです。
ジョン・F・ケネディが大統領選を戦ったのは、のちに第37代大統領になるその当時副大統領だったリチャード・ニクソンです。
この選挙戦、ホワイトハウスで執務経験があるニクソンが圧倒的有利とされていました。それを覆したのがテレビ討論会と言われています。
ケネディはテレビ用にメイクアップをし、白黒でもきっちりコントラストの出るスーツを着て、視聴者に語り掛けるように明るい表情で支持を訴えました。一方ニクソンは初のテレビ討論を前にして、冷や汗をふきながら険しい顔で討論に臨みました。
もちろん、それだけで判断されたわけではないのでしょうが、この討論会で国民の支持を一気に受け形勢を逆転したとも言われています。つまりは、新たなメディアを使ってうまく自分をアピールしたのです。

メディアをうまく扱って国民をコントロールするのは、これ以前にも戦中に繰り返し行われてきました。大本営発表もそうですし、演説をメディアととらえるならば、アドルフ・ヒトラーは演説の際に太陽がのぼってくる方角や時間まで考えて演説を演出したと言います。もしかしたら戦前も瓦版など同じこと繰り返してきたのかもしれないし、メディアがプロパガンダに使われたケースは枚挙にいとまがありません。

話を戻すと、結局、新聞、ラジオ、テレビ、ネット、SNSと時代が移り変わっても、それをうまくコントロールするものに利権が集まってしまう。メディア自体の権力が大きくなりすぎていることにも問題があります。
そんな中、反既存メディアの世代が出てきたのに、芸能人のステマ問題や、YouTuberのトラブルなどを目にする度に、結局はここも同じかと失望し、辟易してしまった。その焼け野原を見ながら、信じられるものは自分のみだ、という考えに至っているのかもしれません。

メディアリテラシーとドキュメンタリー

「自分の目で見たり耳で聞いたことしか信じない」というのは、大量に押し寄せてくる情報の波から、なにが正しいかを判断する上でとても重要なことだと思います。SNSや人のうわさに流されることなく、最終的な決断を下すうえで、最後に頼りにするのは自分自身しかありません。想像力や思考力を他人任せにする方が楽だけど、そうしない。私もそういう思いで、18歳から一人旅をはじめ、20歳までに全都道府県に行き、20代半ばでバングラデシュという最貧困国のひとつに行ったり、ニューヨークで生活したりして、視野を広げようとしてきました。
しかしながら自分の目で見たり耳で聞いたこと「しか」信じない、というのは少し偏った思考のようにも感じます。交通インフラの発達、グローバリゼーション、インターネット登場。あらゆる情報が手に入るようになった結果、人の一生分ではとても追いつかない量の情報社会を我々は生きています。とても全てを自分の目で見て耳で聞くのは不可能です。

逆に言えば、せっかくこれだけの情報が手に入る時代なのですから、先人たちが目で見て耳で聞いてきたこと、いま最前線にいる人が見聞きしたことを、自分の身体代わりにして情報を仕入れない手はありません。もちろんニュースにも捏造や裏の意図がある可能性もあるわけで、それを信じろということではなく、その中から真実を見つけ出すメディアリテラシー能力が必要となる、という話です。精査した上での情報は自分で見聞きしたものにプラスになる。
能力を手に入れるには真実を見つけ出す確固たる自分がいなければならない。でも、偏見の上で自分を確固たるものにしてしまうと、それはそれで危険です。
常にニュートラルな気持でメディアに接し、様々な角度から探求心を持って自分で調べ、血肉にして自分で考える行為を繰り返すことが重要です。

旅をしたり人と出逢うという直接的な見聞に加え、メディアリテラシー能力を身につける上で役に立つのが、ニュースを見ること、本を読むこと、そしてドキュメンタリー映像を見ることだと私は思います。

ドキュメンタリー映像の面白さ

さて、2000文字も書いてきてようやく本題です。
私はニューヨークでジャーナリズム論を学んだあと、帰国して1年間、ある人に密着し、ドキュメンタリー映像作品を仕上げました。
力不足で大きな賞は獲れませんでしたが、アメリカやロシアをはじめ、いくつかの国際映画祭で上映していただきました。

その一本に挑むにあたり、ドキュメンタリーをゼロから学びなおしました。

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まずは書籍を読み漁り、金字塔、名作と呼ばれる映画作品を見続けました。
1982年 原一男監督による『ゆきゆきて、神軍』

1998年 オウム真理教の内部取材をした 森達也監督の『A』『A2』

名作を量産し続ける東海テレビの『死刑弁護人』『青空どろぼう』『平成ジレンマ』『ヤクザと憲法』を始め、できうる限りの作品と触れました。

そして、毎朝出社前にはNHK、民放のドキュメンタリー番組を視聴しました。日本テレビ系のNNNドキュメント、テレビ朝日系のテレメンタリー、今年3月に終わってしまったけどTBS系のザ・フォーカス、たまに息抜きにフジテレビ系のザ・ノンフィクション、NHKの72時間や目撃!にっぽん。週末はETV特集やBS世界のドキュメンタリーも。
特に最初の3番組に関しては、こういう番組が一般受けせず深夜に追いやられていることを少し嘆きながらも、民放唯一の良心というか、視聴率争いとは無縁だからこその中身の濃い番組だと思い視聴していました。

ドキュメンタリーは客観的に撮れ、と言われますが結局撮るのは人間ですから、なにが琴線に触れ、なににカメラを向け、どうエディットするかはどうしても主観が入ります。ただ、物事をしっかり見続けてきたドキュメンタリー脳とでもいうべき人が取捨選択した情報には、ある程度の信頼感と説得力があります。撮る側も、その責任をしっかり背負っている。良質なドキュメンタリーは撮り手の葛藤がはっきりとは見えないものの、どこかにじんでくるものです。

ほんの一例をあげれば、特定妊婦、カネミ油症事件、ウィリアムズ症候群、クルド人、エピテーゼ、化学物質過敏症。ドキュメンタリーを通じ、多くの新たな視点を得ることができました。吉藤オリィさんの活動を見たのもNNNドキュメント。
ただ知識を得るだけでなく、自分の小さな物差しを少し大きくすることで、新たな事象と向き合う角度が深くなる気がします。全てを知識として蓄積することは不可能でも、まったく知らなかった世界の入り口を開けることで、その先には世界が広がっている、ということを知ることができます。それがドキュメンタリー映像の面白さです。

結局は人間

もちろん、私もまた小さな物差しで相手を測ってはいけないと自戒します。
「自分の目で見たり耳で聞いたことしか信じない」という若者が、自分では思い至らないような人生経験をしていたり、人とふれあっている可能性もありますし、一概にそういう考え方を否定する気は毛頭ありません。

情報というのは結局人なのかなぁ、という気もしています。例えば地震や台風など自然災害の情報は人じゃない、と思うかもしれませんが、地震にしろ台風にしろ地球にとっては自然の営みの一つであり、これを受け取るのは人という目線、バイアスがかかった情報です。人にどれくらい被害が出るか、今後人に被害を及ばす可能性があるか、という観点からの情報です。
そう考えると情報というのは結局、人が何をしたかということなのかもしれません。ドキュメンタリーも撮っているのは人の営み。人とは何か、人生とは何かを映し出している。

同床異夢という言葉を出すまでもなく、人がなにを考えているかを知る由はありません。いや自分が何を考えているかだって複雑すぎて一言では表現できません。(だからこそ、文を書いたり絵を描いたりワールドを作るのでしょう)
相手の人生の背景にはなにがあるかわからないし、その人自身やその人の家族や友達が、自分が知らなかった問題を抱えているかもしれない。
ドキュメンタリーを見て、そこで得た知識に相手をはめこんで理解しよう、ということではなく、自分の物差しの小ささを知って認めることが重要なのです。
自分の目で見たり耳で聞いたことにプラスして物事を判断する基準として、様々なジャンル・視点のドキュメンタリーを見ることをお勧めします。そして、様々な視点を持つことで自分の軸がぶれずらくなり、正しい自信を得ることができます。
自信を自分の知識やスキルだけに頼ってしまうと、偏ったり過剰になったり、自分より上を見つけてしまうと崩れてしまいますが、経験と人との関わり、そして正しい情報を得たうえでの自信は強い。そして自信をもって自分に余裕ができれば、上っ面ではない優しさをもって人に接することができる

まぁ、そういう私も自信を無くして枕を濡らす夜もあれば自暴自棄になることもあります。それでも人のことを知りたいと今日も思うのです。

たまには真面目なことを書いてしまったけど、パンダはいつものほほ~んと暮らしているので、新しいワールドにも遊びに来てね。


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