広島で原爆ドームと資料館行ってきてよかったなと思った話
こんにちは、りほ🐻です。
先日友達と広島に旅行に行ってきました✈️
友達が中国のクラアント先を担当していて、春節でおやすみが取れたので平日にGo✈️
こういう時フリーランスだとお休み合わせやすくて良いですね。
で、友達の希望もあり、原爆ドームと資料館に人生で初めて訪れました。
遠くから見た第一印象は、正直なところ「RPGのダンジョンみたいでカッコいい」でした。
綺麗に撮って良いものかわからないなと思いつつ、雪と青空の中に佇むドームは幻想的。
でも近寄ってったら地面にたくさんがれきやレンガが落ちてて、上からの衝撃で天井は全部室内にいた人に降り注いだんだって気づきました。痛かったんだろうな…いや、痛いと思う間もなかったのかな。
その後原爆資料館に行って、初めて知ることが沢山ありました。
①原爆が投下された日はちょうど空襲に備えて建物を取り壊す作業をしていた日で、学生が沢山出動していた
投下された時刻は午前8:15。
建物を取り壊す作業のために、幼い学生さんが沢山集まっていたタイミングだったそうです。亡くなった方の生前の写真とか、当日着ていた衣服が展示されていたんですが、あまりに幼すぎて。ほんと子ども。
こんな子供たちが戦争のために人手を駆り出されていたことも、巻き込まれて沢山亡くなってしまったことも、衝撃でした。いやもちろん情報としては子供が沢山亡くなったことは知っていましたが、写真や現物を見ると本当に悲しかった。
②広島の他にも沢山候補地はあって、当日広島の天気が悪かったら別の場所に投下されていたのかもしれなかった。
たぶんドキュメンタリー番組か何かで、一度は聞いたことあった情報でしたが、資料館で改めて見て再認識しました。
候補地だったのは、広島、小倉(福岡)、長崎、新潟。
選んだ理由の中に、「大きな被害を与えることができる地形」っていうのがあったのが衝撃でした。
人類に対して初めて使う兵器だから、てっきり「被害を最小限に抑えかつ警告ができる」みたいな理由を想像していたからです。
でも違いました。戦争だから。自分の頭がいかにお花畑か思い知りました。
③逃げられない火の手の恐怖
印象深い話がありました。要約するとこんな話↓
怪我をしたけど逃げられてる自分はまだまし。
黒焦げになっているけど歩ける人もまだまし。
1番辛いは倒壊した建物などに脚を挟まれ生きているのに火から逃れられない人。
その人の叫び声が耳から離れない。
私の中で、原爆の被害は原爆による火傷や爆風による即死、その後の放射線の後遺症については知識があったのですが
生きたまま火に焼かれてしまった人もいると想像つきませんでした。そしてそれを見て聞いて、でもとても助ける余裕のなかった人の後年まで残る苦しさ。
知らなかった。
それから、沢山絵と写真がありました。
写真は直視できないものも沢山。頑張って見ました。とてもさっきみた美しい原爆ドームからは想像できない壮絶な風景。
呆然としたまま外に出たらまた雪が降っていて、青空が消えていました。とてもさっきと同じ感情では見られない。
原爆ドームにも資料館にも、思いのほか海外の方がたくさん来ていました。だいたいがバックパッカー風の若い人。
沢山見所がある美しい日本の中で、広島の原爆資料館に脚を運んでくれる人が沢山いることはすごいことだと思う。
やっぱり教科書で見るのとは違う。ドキュメンタリー番組で放送されるものを見るのとも違う。あの場でしか受け取れないものがあるなと感じました。
知らずにお花畑の中で生きてぼんやりしていても良いのかもとも思ったのですが、もう32歳の大人なので、私は観てよかったです。
今仮に太平洋戦争のような戦争が起きたとしたら、私たちの世代は主力戦力ど真ん中。
そもそも歴史上で行くと、戦争や内乱が日本で70年以上ないこと自体結構奇跡的。たまたま平和な時代に生きられている幸運を身に染みて感じました。
うまくまとめられませんが、広島に訪れる際はぜひ行ってみることをお勧めします。
りほエッティ🐻
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