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【和訳】独ソ戦:1943年11~12月、第二次キエフ会戦における独軍の反撃(米陸軍資料“GERMAN DEFENSE TACTICS against RUSSIAN BREAKTROUGHS”第2部第3章)

GERMAN DEFENSE TACTICS against RUSSIAN BREAKTROUGHS
※画像をクリック/タップで原文PDFにアクセス可(無料公開)

はじめに

このnote記事は、米陸軍の戦史資料『ロシア軍の突破に対するドイツ軍の防御戦術』(米陸軍軍事史センター、1951年)の第2部第3章を日本語に翻訳したものです。

この戦史資料は、序文によると、「ドイツ軍報告シリーズ」の一つとして編まれたもので、著者はドイツ国防軍(第二次世界大戦時のドイツ軍)の将官と参謀本部勤務将校とのことです。著者陣の名前は伏されていますが、筆頭著者に関しては、その経歴が記されています。その記述から、この資料を執筆した中心人物が、おそらくエアハルト・ラウス陸軍上級大将(最終階級)であると推測できます。ラウス将軍は1943年以降、ドイツ装甲部隊の軍団長、軍司令官の任に就いており、ドイツ軍の防御戦術を語るに相応しい人物の一人であると思われます。

この資料の部分訳を読むうえで、いくつか注意してもらいたい点があります。一つは、この文書はドイツ軍人の記憶に基づいて執筆されたものなので、不正確な記述が含まれているという点です。なお、この翻訳は原文の記述のまま翻訳していますので、歴史的に不正確な記述、もしくは不適切な記述が原文に含まれていた場合、翻訳文にもそのまま含まれることになります。

二つ目の注意点として、この資料は、第二次世界大戦当時のドイツ軍人の視点で書かれているという点があります。そのため、戦術や作戦に関する著者の見解は、第二次世界大戦時のドイツ軍人の思考法、当時のドイツ軍ドクトリンの影響下にあります。それを前提にご一読ください。

三つ目は訳文中の用語等に関するものです。この翻訳には、「連隊」「師団」といった陸軍の部隊単位に関する用語が出てきます。また、戦況図には部隊を示す記号が使われています。これらに関して、当初、訳註で解説することを考えましたが、注釈の文字数がかなり多くなる等の理由で、解説を付けることは諦めました。ウィキペディア日本語版にこれらの事項の解説記事が掲載されていますので、必要に応じて、参照してください。

最後に、地理的名称はロシア語の発音に近似するカタカナで表記しました。そうした理由は、過去の戦史書籍・文書での表記にあわせることにあります。また、今回、訳出した箇所はウクライナが作戦地域となっているため、必要に応じて[  ]内に、ウクライナ語発音に近いカタカナ表記も加えています。訳者はロシア語とウクライナ語に精通していませんので、カタカナ表記として不適切なものがあるかもしれません。その点、ご了承ください。なお、[  ]内の記述には、地名表記のほかに、訳者による補足的説明や用語の原文表記も含まれています。

日本語訳

第2部「積極的防御」第3章「妨害攻撃」

妨害攻撃[spoiling attack]は、攻撃準備中の敵軍に対する奇襲的一撃であって、とても効果的ではあるが、まれな作戦形式である。妨害攻撃の目的は、敵軍の組織的な集結を妨げることにあり、その結果として、敵の攻勢を遅らせて弱らせること、もしくは、敵に対して、こちら側のあまり弱くない地点への攻撃を強いることにある。

防御側によるこのような攻撃は、特定の条件が揃ったときにのみ遂行することができる。敵側集結地域は、奇襲的一撃を行う際、容易に近づける場所でなければならず、防御側は強力な装甲予備戦力を、投入可能な状態で有していなければならない。地形と道路網は、暗闇による隠蔽効果のもとでの迅速な作戦・戦術機動を、容易にするものでなければならない。攻撃計画の全容を敵に把握されないようにしておく必要がある。もしくは、敵がこちら側の本当の意図に関して欺かれていなければばらない。このことから、遅滞なく行動することが絶対に必要だ。

地図4
※画像が不鮮明に表示される場合は、以下URLからPDF版にアクセス(無料公開)し、巻末の地図を参照すること
https://history.army.mil/html/books/104/104-14-1/cmhPub_104-14-1.pdf

このような前提が揃うことは、極めてまれなことであった。だが、1943年11月の上旬、このまれな前提を活用できる機会が、ドイツ軍の前にあらわれた。(地図4)ソ連軍はキエフ[キーウ]の北方で戦線突破に成功した。そして、ソ連軍が、ドイツ南方軍集団をその北翼から包囲する意図をもっている兆候があった。ソ連第1ウクライナ正面軍が自由に使える戦力は、この目標を達成するには不十分であった。突破後、ソ連軍は60マイル[約97km]西進し、重要な交通結節点であるファストフ[ファスチウ]を占領、そして、ジトーミルを無力化し、コロステン[コーロステニ]にてドイツ第59軍団を包囲した。だが、装甲部隊によるドイツ軍の側面攻撃によって、ロシア軍はテテレフ川[テテリウ川]の東岸へと後退せざるを得なくなった。ジトーミルは解放されたとはいえ、ファストフは依然として敵側の手のなかにあり、コルステン包囲も続いていた。ドイツ第4装甲軍の前線は、ソ連軍攻勢以前は東面していたが、後退した結果、その時点では北面する状態であった。ドイツ軍もソ連軍も西側側面が開放されていた。ドイツ軍がこの間隙を閉じられなかったことが理由となり、ソ連軍がこれまでに達成した成果を拡張しようと攻勢を継続することを、明らかに誘ってしまった。ソ連軍は、ジトーミル北方の集結地域から進発して、大きな包囲運動を行うことができるというまれな機会を握っていた。互いに向き合っている戦線の背後で進められている兵力集結と道路の補修は、ソ連側攻勢の再開が間もないことを示唆していた。この攻勢が発動された場合、まず第一に第4装甲軍に脅威が及び、続いて南方軍集団全体に脅威が及ぶことになるだろう。

この状況は急ぎの対応が必要となるものであり、その結果、ドイツ軍は強力な装甲戦力でもって敵側攻撃準備地点の側面を攻撃し、それによってソ連軍の脅威を退けることを決心した。第1SS装甲師団、第7装甲師団、第1装甲師団を含む第48装甲軍団は最前線から後退し、第4装甲軍担当地区の中央部後方に集結した。その間に接近ルートの偵察が行われた。そのルートの一部は地面の柔らかい森林地帯であった。それに加えて、橋梁の補修が行われた。また、森林地帯で跳梁跋扈するパルチザンは、この地区を担当する保安師団によって、散り散りにさせられた。そのあとすぐ3個装甲師団すべての戦闘部隊は白昼堂々と動き出し、ジトーミルを通過する主要高速道路上を前進した。この行動の目的は敵を欺瞞することにあり、強力なドイツ軍戦力が戦線上の別の地区へと移されていると敵に信じさせることにあった。この欺瞞工作が完全に成功したことは、後日、明白になった。あらゆることのなかで、これらの事前準備行動こそ必要不可欠なものであった。なぜなら、この事前準備行動と結びついた第48装甲軍団の移動は、ドイツ軍が開け放たれた敵側面から、その後方へと攻撃を仕掛けることを可能にするために遂行されねばならなかったからだ。欺瞞工作を試みなかったなら、第48装甲軍団の移動には二晩、必要になっただろう。なぜなら、このように大規模な装甲軍団の接近と集結を、一晩のうちに成し遂げるのは不可能であるからだ。日中に移動することによって、装甲軍団はタイミングよく動くことができ、その結果、隷下の各部隊は夜の帳が下りる直前に、主要高速道路沿いの分岐点に到達した。そのときまでに移動計画の半分が済んでいたが、その動きは敵から隠されたままで、妨害されることのないまま移動は続けられた。装甲軍団がまずは北へと進み、その後、東へ向かうという迂回運動を行うことを、敵が確認する機会はなかった。

移動行程の全体は、敵に妨害されることなく滞りなく進んだ。1943年12月4日、3個装甲師団すべてがジトーミル~コルステン高速道路沿いで攻撃配置についた。同時期に、総司令部[*注:原文では'GHQ'、南方軍集団司令部のことか?]直属の砲兵、最大320mm口径までの各種ロケット砲をそろえたロケット砲旅団、そして装甲列車1両が、開け放たれた側面の一番端の第13歩兵軍団左翼後方地点に配置された。この準備行動は、第13軍団の翼端背後に強力な予備戦力を集めたこととあわせて、ドイツ軍が第4装甲軍戦線の左翼で攻撃を続けることになると、ロシア側に確信させる結果を導いた。この地点は、今回の反撃に先立つ1カ月間、攻撃がまさに停滞していた箇所だった。ソ連軍はこのような意図を素直に信じた。なぜなら、同じ状況ならソ連軍も同じ対応をするからだ。この第4装甲軍の戦線左翼に、明け方時点で大規模な戦力集結がなされ、その後、ドイツ軍1個歩兵師団が正面攻撃を開始したとき、敵軍は自分たちの判断が正しかったと完全に確信した。ソ連軍は強力な予備戦力をこの地区に送り込み、反撃に出た。だが、その結果というのは、300門のロケット砲による集中火力によって、その場で停止させられてしまうということだけだった。ソ連軍が投入可能な戦力と兵器をすべて、この前線の近くに送り込んだ直後、合計5個師団からなるドイツ軍の2個軍団は、ソ連軍右側面に向かって同時に攻撃した。この一撃の中心は、第48装甲軍団隷下の3個師団によって遂行され、これら3個師団はテテレフ川に向かって東進した。第1SS装甲師団隷下部隊の一部は、南へと向きを変え、後方からソ連軍を攻撃しようとした。一方で第7装甲師団は軍団左翼の防護にあたることになっており、また、第59軍団との連絡を確立することにもなっていた。なお、第59軍団はコルステン包囲を打ち破ろうとしていた。

この側面攻撃は完全な奇襲となり、反撃初日の間、敵軍はほとんど抵抗できなかった。開け放たれた側面を守るべくソ連軍が設置した地雷原は空中から容易に探知可能で、迂回することができた。側面全体が、後方からの攻撃によって崩され、そして壊滅した。数時間のうちに、ドイツ軍戦車隊は敵戦線後方の敵軍砲兵陣地内へと突入し、地表に薄く霧がかかるなか、砲兵隊を蹂躙し、火砲を破壊した。地表は凍結し、うっすらと雪に覆われているだけであったため、戦車隊は迅速に、そして予定通りに動くことができた。初日の終わりまでに、装甲師団群は敵側面からその後方へと15~20マイル[約15~32km]前進でき、数多くの捕虜をとり、敵火砲のすべてを鹵獲した。第59軍団は包囲網突破に成功し、装甲軍団との連絡を確立した。ジトーミル~コルステン間の高速道路と鉄道線は、再びドイツ側の手に戻った。奇襲が完全なかたちで達成されたことが、この作戦の成功を保証した。弱体化した敵軍残存部隊のみが東方へと脱出していった。

攻撃は二日目も続けられた。だが、攻撃の勢いは大きく削がれることになった。その理由の一つは濃い霧であった。もう一つの理由は、第1SS装甲師団の補給組織が崩れてしまったことにあった。この師団が砲弾と燃料の不足によって脱落してしまったとはいえ、残りの師団は12マイル[約19km]を超える距離を進撃した。敵側の抵抗は依然として軽いものだった。攻撃が継続するなか、側面攻撃によって敵側の抵抗が取り除かれた地区で、第13軍団隷下部隊も徐々に装甲軍団の攻撃に加わるようになった。一方、もっと北方では第59軍団が激しい戦闘に巻き込まれており、一歩ずつしか進めなかった。

3日目に入る前に、最初の敵側対抗措置の予兆が感じられた。しかし、テテレフ川の作戦地域内での下流域に投入されたソ連軍戦車・歩兵部隊の数は少なく、装甲軍団の強力な突進を食い止められなかった。ソ連軍が新たに構築した防衛網は瞬く間に蹂躙され、その間に、一定数のソ連軍戦車が撃破された。第1装甲師団の攻撃進出点はテテレフ川に架かる鉄道橋の南方に達した。第13軍団の右翼で作戦行動中の第69歩兵師団はラドミシュル[ラドムィシリ]でテテレフ川を越えた。その一方で、イルシャ川沿いの森林湿地帯に残存する、規模の大きなソ連軍はかなり粘り強く抵抗したため、第59軍団の2個歩兵師団はこの抵抗を打ち破ることができなかった。テテレフ川西方での敵軍は数カ所の橋頭堡にまで削られていた。だが夜間に、これらの橋頭堡は、兵員と装備で破裂してしまうのではないかという規模まで増強された。新たに投入された敵軍は、あらゆる犠牲を払ってでも流れを逆転させようとした。

4日目は、第13軍団と第48装甲軍団の作戦地区において、敵軍の激しい攻撃が行われた日となった。敵軍の攻撃の多くは阻止され、装甲部隊による反撃の結果、ドイツ側の支配地域は広がった。けれども、その日の終わりまでに、第13軍団の中央部は敵軍に蹂躙される危機に陥った。

ドイツ軍はその時点で敵の橋頭堡を根絶する決心をした。この進撃の5日目、第1装甲師団と第1SS装甲師団は挟撃の顎を形成し、テテレフ川西岸に残存する敵戦力すべてを壊滅させようと試みた。弱体な第7装甲師団は、北側側面の防護にあたる予定になっていた。200両の戦車に立ち向かおうとした敵軍の絶望的な試みは無駄に終わった。装甲師団の強力な突進によって、橋頭堡は次々と潰されるか、そうでなければ範囲を狭められた。正午までに、2方向からの装甲部隊の攻撃は5番目の、そして最後の橋頭堡の周辺範囲内で合流した。そこの橋は吹き飛ばされ、敵側装備の大部分が多くの捕虜とともにドイツ側の手に落ちた。この一日は、その前日にドイツ軍戦線に脅威を与えた敵軍に対する全面攻撃が頂点に達した一日だった。5日目の攻撃は、投入可能な装甲戦力すべてと第13軍団隷下の強力な部隊によって遂行された。そして、敵軍が包囲殲滅されることで終わった。

この結果、本作戦の第一目標は達成された。防御側からの奇襲的一撃は、敵戦線後方への45マイル[約72km]の突進を成し遂げ、ソ連軍1個軍を壊滅に追い込み、もう1個軍に対して、少なくとも一時的に戦闘不能になるほどの死傷者を生じさせた。敵軍は、数千人の死傷者と捕虜を出す結果になった。それに加えて、200両を超えるソ連軍戦車が破壊され、およそ800門の火砲がドイツ軍に鹵獲された。ドイツ側の損失は軽微なものだった。戦線は短縮され、今や東面していた。そして、この新たな戦線は、複数個のドイツ歩兵師団が保持していた。結果、第48装甲軍団をほかの任務に転用できるようになった。

この反撃の第二段階は、ドイツ軍前線を強固なものにすることを目的としていた。敵側が支配するイルシャ川沿いの森林湿地帯の掃討と、第59軍団と第13軍団の直接的な接触の確立を目的として、第48装甲軍団はコルステン地区に移動し、湿地帯に展開する敵軍に対する挟撃に着手した。2個装甲師団と「E」軍団支隊(編者注:全体で1個師団戦力相当の臨時編成部隊で、それぞれ1個連隊規模にまとめられた3個の弱体化した歩兵師団によって構成された部隊)が、イルシャ川の北方に位置するコルステンから、南東方向に向かって攻撃を行った。また、第7装甲師団と第112歩兵師団は、イルシャ川南岸地点から北東方向に向かって突進した。北岸の前衛部隊は、キエフに向かう鉄道線沿いの開豁地を進み、当初の進展状況は良好だった。一方で南岸方面からの攻撃は、森林地帯での激戦によって遅滞してしまった。このようなことがあったとはいえ、南北二つの装甲部隊の切っ先は、第二段階開始の2日目までに、互いに接触することができた。イルシャ川沿いの森林湿地帯ではまだ掃討戦が続いており、そのとき、強力なソ連軍戦車部隊が北側から突然、側面攻撃を仕掛けてきた。キエフ方面からも戦車・歩兵部隊が向かってきた。捕虜からの情報によると、ソ連軍はドイツ軍がキエフ占領を目指す攻勢を行っていると推定しているとのことで、それゆえ、投入可能なあらゆる戦力をこの地区に投じてきたとのことだった。ドイツ軍戦力に限界があったことを踏まえて、ドイツ側はこのような大規模な作戦を計画していなかった。さらにいえば、ソ連側が想定した大規模作戦を行う場合、ドイツ軍はテテレフ川とドニエプル川[ドニプロ川]の間に広がる森林湿地帯を突き抜けるという難しい問題に直面することになっただろう。実際のところ、今回の奇襲攻撃の目標は、もうすでに問題なく達成されており、歩兵部隊による連続した戦線をつくり出すという目的は、順調に進捗していた。新たに戦場に到着した戦車・歩兵戦力を、ソ連軍が情け容赦なく消耗させたにもかかわらず、ソ連軍の反撃は何一つとして領土確保につながらなかった。あらゆる敵の攻撃は、頑強な抵抗を前に撃退された。このソ連軍の反撃の初日だけで、敵軍は80両を超える戦車を失った。それに続く二日間で、さらに150両の戦車がドイツ軍の手で撃破され、ソ連軍の反撃は最終的に行き詰った。戦車に支援された小規模な突撃が第13軍団方面に向けられたが、これも同じく無駄に終わった。

ドイツ軍反撃の戦果固め段階は、反撃開始時の奇襲効果に花を添える結果になった。さらに追加でソ連軍2個軍が手酷い損害を被り、攻撃能力を喪失した。この結果、ジトーミル北方に存在した深刻な脅威は取り除かれた。数週間後に始まったソ連軍のクリスマス攻勢は、戦線上の比較的脆弱でない地区に向けて行われ、このことは、敵軍が計画を変更せざるを得なくなったことを明確に示している。

結果的にこの妨害攻撃は、二つの目標の達成に成功した。一つは包囲されていた軍団の救出であり、もう一つはそれまで大きな間隙をなしていた箇所にドイツ軍が一貫した戦線を構築できたことである。強力な敵戦力を消耗させることができたのは、副次的な結果ではあるけれども、今回の作戦にとって重要な成果だった。敵正面への反撃は、今回のケースにおいては実施しても成功しなかっただろう。そして、仮にうまくいっても、甚大な死傷者を出すことになっただろう。

敵側の攻勢準備地区内に向けて、正面から攻撃を加えることは、小規模な作戦でのみ用いることができる。この種の攻撃が成功するかどうかは、たとえば夜襲のような奇襲を、完全なかたちの奇襲として行えるかどうかにかかっている。正面からの奇襲攻撃がとりわくうまく遂行された例として、1945年3月初めに行われたものがある。このとき、ドイツ海軍士官候補生の若者たちで構成された分遣部隊は、シュテッティン[*注:現ポーランド領シュチェチン]北方の橋頭堡から敵を襲撃した。パンツァーファウスト(編者注:無反動対戦車擲弾発射器)を十分に装備した彼らは、ソ連軍戦車旅団の集結エリア中心部を攻撃し、この旅団が保有する36両の戦車すべてを撃破した。

訳者あとがき

ジトーミル方面のドイツ軍反撃は成功だったのか?

今回翻訳したGERMAN DEFENSE TACTICS against RUSSIAN BREAKTROUGHSの第2部第3章は、1943年11〜12月の第二次キエフ会戦の一部を扱ったものです。

1943年秋、ウクライナ方面のドイツ軍(ドイツ南方軍集団)はドニエプル川を壁として防衛戦を行っており、一方でソ連軍はドニエプル川西岸にいくつか築いた橋頭堡からさらに西方への進撃を試みていました。これらの橋頭堡の一つに、キエフ北方のリュテジ[リュティジ]に形成された橋頭堡がありますが、キエフから北は木々の多い柔らかな大地が続くため、この地区は大規模な攻勢には適していないとドイツ側は判断していました。ですが、リュテジ橋頭堡の危険性を低く評価した点を、ソ連軍に突かれることになります。

このあとの作戦展開に関しては、独ソ戦を包括的に扱ったGlantz & Houseの『巨人たちが激突したとき(When Titains Clashed)』で確認していきます。

なお、以下の引用に出てくるカザティン[コジャーティン]は「地図4」においてジトーミル(Zhitomir)南方に位置し、ブルシーロフ[ブルシーイウ]は「地図4」においてラドミシュル(Radomushl)とファストフ(Fastov)の中間地点に位置しています。以下、それぞれのGoogle地図のリンクを添付しておきます。

10月末、ヴァトゥーチン[*注:ソ連第1ウクライナ正面軍司令官]は、ルイバルコの第3親衛戦車軍すべてを、同軍に大規模な歩兵と砲兵の増援を付けたうえで、この狭い橋頭堡[*注:キエフ北方に位置するドニエプル川西岸のソ連側橋頭堡]へとひそかに送り込んだ。11月3日、第1ウクライナ正面軍隷下の第38軍と第3親衛戦車軍はこの橋頭堡から一挙に進撃を開始した。そして、奇襲されたドイツ軍守備隊を圧倒した。3日後にヴァトゥーチンの部隊はキエフを奪還し、そのあとすぐに彼の正面軍は、ウクライナの大地であるドニエプル川を渡った地域に、大きな戦略的な足場を築いた。

ヴァトゥーチンの部隊はこの成功を徹底的に利用した。第3戦車軍はドイツ軍後方へと突進し、ファストフを通ってカザティン[コジャーティン]に向かって進んだ。第3戦車軍にはK. S. モスカレンコ将軍の第38軍が続いた。同時に、第1親衛騎兵軍団と第60軍がジトーミルを占領し、コルステンに脅威を加えるために西へと急ぎ進んだ。マンシュタイン[*注:ドイツ南方軍集団司令官]の対応はすばやく、この年の2月にハリコフ南方で成し遂げた勝利を再現しようと試みた。マンシュタインはソ連軍先鋒を撃破して敵軍をドニエプル東岸へと押し戻す目的で、第48装甲軍団と第24装甲軍団をヴェリキー・ブクリン地区から引き抜き、ヴァトゥーチンが攻撃を進める方面に送り込んだ。だが、状況は2月のハリコフから変わっていた。ソ連軍歩兵部隊の対戦車戦闘能力は、歩兵に随伴する戦車と自走砲によって支えられ、反撃を仕掛けるドイツ軍に恐ろしいほどの損害を与えた。それでも11月10日に第48装甲軍団はファストフ近郊で第3戦車軍の進撃を停止させた。第48装甲軍団が3カ月前にボゴドゥホフ[ボホドゥヒウ]で成し遂げたように[*注:1943年8月の第4次ハリコフ会戦における戦闘を指している]、ドイツ軍戦車部隊はルイバルコの前衛旅団を切り払い、撃破した。それでもマンシュタインはファストフを取り戻すことができなかった。

苛立ったマンシュタインは、第48装甲軍団を西方に転じさせ、ヴァトゥーチンの右翼の位置を特定し、そこを突こうとした。マンシュタインは再度、成功を勝ち取ったが、それは束の間の成功であった。ジトーミルは第1親衛騎兵軍団の酔っぱらった将兵が守っていたといわれている。なお、この軍団の将兵は第4装甲軍の酒類保管庫から酒を略奪していた。そして、第1親衛騎兵軍団は潰走したものの、再展開したソ連軍歩兵・戦車・対戦車部隊がブルシーロフ[ブルシーイウ]付近でドイツ軍を再び食い止めた。11月末と12月初めにもう2回、マンシュタインはヴァトゥーチンの右側面に向けて第48装甲軍団を作戦機動させた。いずれの場合もドイツ軍の攻撃は当初うまくいったものの、そののち、よろめいてしまった。12月19日、マンシュタインはこの危険な橋頭堡を根絶する最後の試みに着手した。コルステン~キエフ鉄道線沿いでの激戦において、マンシュタインがソ連軍4個軍団だとみなした戦力を、ドイツ軍は包囲殲滅した。実際のところドイツ軍が攻撃したのは欺瞞戦力であって、この欺瞞戦力によって、ずっと南のブルシーロフ地区における、ソ連軍の侮りがたい規模の攻撃戦力の集結が隠蔽されていた。マンシュタインの装甲部隊は大したことのない戦果をあげたのち勢いが衰えて、またもや止まってしまった。その頃、マンシュタインはコルステン付近における成功らしきものについて思いを巡らしていたのだが、その翌日の1943年のクリスマスにブルシーロフ付近でソ連軍が大規模な攻撃を発動し、マンシュタインが抱いていた楽観的な見通しは雲散霧消してしまった。ソ連第1戦車軍及び第1親衛軍はキエフ方面から西方へと打って出て、ドイツ軍防衛線にざっくりと穴を開けた。それは、この冬のソ連軍冬季攻勢の幕開けを知らせるものになった。

David M. Glantz & Jonathan M. House,
WHEN TITANS CLASHED: How the Red Army Stopped Hitler, rev. ed.,
Lawrence, University Press of Kansas, 2015, pp. 227-228

なお、この第二次キエフ会戦に関しては、当時、ドイツ第48装甲軍団参謀長だったフォン・メレンティンも自身の回想録のなかで詳しく説明しています(フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・メレンティン、矢嶋由哉・光藤亘訳『ドイツ戦車軍団全史』朝日ソノラマ、1980年)。

さて、GERMAN DEFENSE TACTICS第2部第3章が扱っている戦闘は、『巨人たちが激突したとき』で

11月末と12月初めにもう2回、マンシュタインはヴァトゥーチンの右側面に向けて第48装甲軍団を作戦機動させた。いずれの場合もドイツ軍の攻撃は当初うまくいったものの、そののち、よろめいてしまった。

David M. Glantz & Jonathan M. House,
WHEN TITANS CLASHED: How the Red Army Stopped Hitler, rev. ed.,
Lawrence, University Press of Kansas, 2015, p.228

と説明されている箇所になります。GERMAN DEFENSE TACTICSにおいて、11月末から12月初めの反撃は成功例として語られていますが、GlantzとHouseはあまり成功しなかった軍事行動として描写しています。

この齟齬の要因に、GERMAN DEFENSE TACTICSがあくまで“戦術(tactics)”の視点で語っている一方、GlantzとHouseは“作戦”的視点で語っている点があるのかもしれません。

GERMAN DEFENSE TACTICS第2部第3章は、11月初めからクリスマスまでの期間に行われた第二次キエフ会戦の一部のみを扱っているためか、著者が第二次キエフ会戦の全体的作戦意図を直接的に説明した箇所はなく、ドイツ軍反撃戦力である第4装甲軍の、少なくとも1943年11月末の時点での目標が、

  1. コルステンで包囲されているドイツ軍の解放

  2. ジトーミル〜コルステン間の間隙を埋めること

にあったことのみを記しています。

確かに上記の目標がドイツ南方軍集団の1943年11月末時点における作戦目標ならば、GERMAN DEFENSE TACTICSの著者が指摘するように、1943年11月末から12月初めにかけてのジトーミル〜コルステン〜ラドミシュル地区でのドイツ軍の反撃は成功だったのでしょう。

ですが、このような限定的な目標が、ドイツ南方軍集団の作戦目標だったのでしょうか?

GlantzとHouseは「マンシュタインは(. . .)この年の2月にハリコフ南方で成し遂げた勝利を再現しようと試みた」と指摘しています。1943年2月のハリコフ戦とは、いわゆる第三次ハリコフ会戦のことで、この戦いにおいてドイツ軍は、6個軍相当のソ連軍を撃破したうえに交通の要衝であるハリコフを取り戻し、スターリングラード包囲戦以降、ソ連が有していた勢いを押しとどめ、東部戦線南翼に安定を取り戻すことに成功しました。一方で、1943年11〜12月のキエフ方面において、「状況は2月のハリコフとは変わっていた」のです。

GlantzとHouseが第二次キエフ会戦を第3次ハリコフ会戦のアナロジーで語っていることから、この両著者が第二次キエフ会戦のドイツ側作戦目標を、“ドニエプル川を越えてキエフから西方に大きく広がったソ連軍突出部の排除”とみなしていることが分かります。

なお、当時第48装甲軍団参謀長だったフォン・メレンティンも回顧録で同様の見解を示し、さらに第4装甲軍司令官エアハルト・ラウス(GERMAN DEFENSE TACTICSの主筆者だと思われる人物)の判断を批判しています。

ドイツ軍の作戦計画は、強力な部隊を投入して、ファストフからキエフに向かってまっしぐらに進撃し、大突出部を根本付近において切断し、西方をめざすソ連軍の進撃を半身不随にし、次いで有力な敵部隊を包囲し、これを撃滅するにあった。不幸なことに、第四装甲軍司令官ラウス上級大将は、この作戦計画を余りに大きすぎると見なし、ジトミルの奪回が必須のことであり、キエフに攻撃を指向する前に、そこにいるソ連軍部隊を掃討することが必要だと考えた。ソ連軍のはるか背後に大進出を行うという、われわれの作戦計画は、その性質上、本質的にオーソドックスな作戦方針に沿って、放棄された。ラウス上級大将はすぐれた軍人であったが、その後の数週間にわたる戦闘において、戦術面ではめざましい成功を収めたにもかかわらず、西方から正面攻撃を行って、巨大なキエフ橋頭堡を粉砕しようとすることは不可能であることが判明した。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・メレンティン、矢嶋由哉・光藤亘訳
『ドイツ戦車軍団全史』朝日ソノラマ、1980年、p.370

メレンティンの作戦構想とラウス批判の是非は別として、第二次キエフ会戦の当事者の一人であるメレンティンも、キエフ西方に広がった突出部の排除を、この時点のドイツ軍作戦目標と捉えていることは明らかです。

このように歴史家(GlantzとHouse)も、当時のドイツ軍人(メレンティン)も、キエフ西方に広がった大突出部の排除がドイツ側の作戦目的であるという点で一致しています。では、GERMAN DEFENSE TACTICSの著者は、なぜ大突出部の排除という作戦目的に触れなかったのでしょうか?

好意的にみれば、すでに述べたようにGERMAN DEFENSE TACTICSはあくまで“戦術”を扱っており、その背景にある“作戦”や“戦略”は扱わないということが理由なのでしょう。戦場での勝利(敵部隊の撃破、目標地点の占領等)という面においてはメレンティンも「戦術面ではめざましい成功を収めた」と述べており、敵攻撃軍集結地点への先制的攻撃の成功例として、1943年11月末から12月初めのジトーミル方面でのドイツ軍反撃は、ふさわしい例なのだと思われます。

ですが、戦術レベルでドイツ軍の力量を示すことはできたとしても、作戦目標(キエフ西方の大突出部の排除)を達成できなかったということも事実として存在します。そして、そこから目を逸らしたいという心情がGERMAN DEFENSE TACTICSの著者にあった可能性も否定できないと思います。

このようなことを考えると、GERMAN DEFENSE TACTICS第2部第3章の記述は、あくまで作戦全体のなかのある一局面におけるドイツ軍の戦術的勝利の例として読むべきで、ここからドイツ軍の全般的な成功(作戦レベルの成功)を読み取るべきではないと、私は考えています。作戦レベルの視点でみると、第二次キエフ会戦の成否判断は、GlantzとHouseの見解、もしくはメレンティンの見解が適当だと思われます。

なお、メレンティンのラウス批判ですが、この批判は適切なものなのでしょうか?

メレンティンの見解は、ソ連軍の実力が第三次ハリコフ会戦の頃と変わっていないことを前提としているようにみえます。ですが、実際の戦場において、「ソ連軍歩兵部隊の対戦車戦闘能力は、歩兵に随伴する戦車と自走砲によって支えられ、反撃を仕掛けるドイツ軍に恐ろしいほどの損害を与えた」(When Titans Clashed, p.227)のです。おそらくメレンティンのプラン通りにファストフ〜ラドミシュル間からキエフ方面に突進したとしても、その攻撃は挫かれてしまったでしょう。ドイツ軍がこの方面に集めた装甲戦力は、相対的にみて強力な戦力であったことは間違いないのですが、この時期のソ連軍はそれ以上の実力をつけていました。それが、ドイツ軍の作戦目的達成を阻んだのです。この点に関して、「敵正面への反撃は、今回のケースにおいては実施しても成功しなかっただろう」というGERMAN DEFENSE TACTICSの著者の評価は、適切なものであるように思えます。

第二次キエフ会戦以降もドイツ軍は装甲戦力を用いて、ソ連軍の攻撃を撃ち破ろうと試みます。ですが、先に仕掛けてきた相手を“後手からの一撃”で粉砕するという構想が作戦レベルで成功することは、第三次ハリコフ会戦以降、ありませんでした。

戦後、第三次ハリコフ会戦のような“後手からの一撃”を、対ソ連軍対策として推奨するドイツ軍人が、メレンティンも含めて存在します。彼らが見落としている(もしくは、あえて見ないふりをしている)のは、独ソ戦後半のソ連軍の実力です。しかも、その“力”は物量・人員の優勢という面だけではないのです。

「独ソ戦における逆転が起きた主要な要因は、ソ連軍の指揮能力、参謀将校、作戦能力と戦術能力における革命にある」(When Titans Clashed, p.230)と、GlantzとHouseは指摘しています。ソ連軍の質的向上という観点が、ドイツ軍寄りの記録から抜け落ちていることはままあり、ドイツ軍人による戦後の記述を読む際には、この点に注意しておく必要があります。

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