見出し画像

秩父事件からの秩父

宝登山神社に参拝してきた。
多くの人で似ぎ合っており、僕も並んで参拝した。


ここには、長瀞駅を下車して徒歩で参道を歩く。

宝登山神社


すると、その道中に長瀞郷土資料館があったので立ち寄った。
国指定の重要文化財である旧新井家住宅は、とてものどかな雰囲気で、ゆっくりとした時間が流れているようで、とてもおススメである。

資料館では、長瀞の養蚕、銅の採掘、氷池、船車などが紹介されており、秩父の歴史を感じることができた。

そこで気になったのが、下車した「長瀞駅」は、以前は「宝登山駅」という名前であったということだ。

宝登山神社の方が、歴史が古いし「長瀞(ながとろ)」という漢字は読みづらい。

あえて、その読みづらい名前にした理由はなんだろうか。

僕はそんなことを模索するように考えていた。

どうやら名前が改称されたのは、大正12年(1923)のようだ。

そして、その翌年には長瀞が国の名勝・天然記念物に指定されている。


長瀞の岩畳

どうやら、ここがポイントのように思われる。

というのも、大正14年(1925)は「長瀞保勝会」という観光を盛り上げるための宣伝隊を結成していることを考えると、駅名の改称は、観光を意図したものなのではないだろうか。

観光について考えると、やはり鉄道のことが気になったので、年号を追う。

明治44年に、波久礼から金崎(秩父と改称)の難工事を経て鉄道を開通させている。

また、金崎まで進めても、その先は地盤が軟弱で、進めることができず、鉄橋をつくり、荒川を越えて対岸に鉄道を渡し、秩父まで線路を引いている。

なぜ、こんなに苦労して鉄道を引いているのだろうか。
そこには、何か後押しが必要だろうなと思った。

すると、宝登山駅から長瀞に名前が改称した年と同年に、秩父セメントが創業され、新たな産業が興っている。

だれだ!この流れを 仕掛けたのは・・・

疑問に思って、調べてみると案外、簡単に見つかった。

渋沢栄一

である。

彼は、秩父についてどう思っていたのだろうか。

そう考えているとふと秩父事件の事が頭をよぎった。

秩父事件とは、

秩父でも養蚕は盛んであったが、松方財政のデフレ政策とヨーロッパの大不況に合わさって、農民たちは困窮していった。

そして行き場の失った農民たちは命を懸けて蜂起をした。

これが秩父事件である。

渋沢栄一は、埼玉県深谷市出身である。

そして、渋沢家はもともと藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓だった。

そう考えると、秩父の状況が他人事には思えなかったように思えてならない。

僕の勝手な想像だけど、渋沢栄一は、秩父の農村に対して、忍び難い気持ちを思っていたのだろうと思う。

長瀞の駅の名前を考えていたら、一人の政治家の思いを感じることができたような気がする。

【参考年号】
明治44年(1911)波久礼~金崎(秩父→国神→荒川)の 鉄道開通
※波久礼の難工事を経て開通したが、それ以上の路線延長は地盤軟弱から断念する。この線路は貨物線に変更される
大正元年(1912)長瀞館(現長生館)が開業
大正3年(1914)宝登山駅から荒川鉄橋を越えて秩父(当時は大宮町)に至る新線があらたに敷設。
大正11年(1922)養浩亭(渋沢栄一が命名)
大正12年(1923)宝登山駅が長瀞駅に改称される・秩父セメント創業
大正13年(1924)長瀞が国の名勝・天然記念物に指定
大正14年(1925)長瀞保勝会の結成(長瀞渓谷への観光と宝登山神社への参拝戦略)
昭和2年(1927)桜新道(廃止した貨物線跡地に桜を植えて)・船玉祭開催
昭和4年(1929)奥社登山自動車道


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?