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嘘、本当 言葉、心。

私の言葉は嘘のような本当で、本当の様な嘘だ____。

きっと私にとって言葉とは、自分を納得させるための手段だったのだろう。
筋の通った説明ができることが、確かにあることの証明だった。
だから言葉に出来るものが本当なのだと考えてきたし、言葉にならない曖昧なものはどこか気の迷いのような瞬間的な気まぐれに過ぎないという風に捉えていた。
それはまるで科学的根拠の証明できない心霊現象を脳の錯覚とするように。
私もそうする方が都合が良かったのかも知れない。
この様にして、不自然なほどに気持ちや考えに名札がついた私の国で、「なんとなくとしか言い様のない理由もわからないままの感覚や感情がそれでも確かなナニカである」という概念が輸入されたら我が国は大混乱に陥ってしまう。
だからきっとこんなにも堅苦しく文字に起こしたりなんかして、気難しい奴のフリをして、もしかしたら私はこの国を無意識に閉じていたのかも知れない。
鎖国された十数年。みんなは大人になって、私はまだみんなで手を繋いでかけっこをしたあの時のまま。

中学生の頃、先生に「お前は考え方が大人なんだな」と言われた時、嬉しかったけれど、多分ちょっと違うんだよなって思った。
子供と大人の間に立たされるあの歳の少女たちはとても不安定で、複雑で、子供の頃は一つだった答えが一気に幾つにも広がってしまうから、いろんな間違いもする。(広い意味で言えばそれは決して間違いなんかではないのだけれど)
そして大人になるにつれてそれを自身の軸でもって選別出来る様になっていくのだろう。そんなイメージがある。
ただ私はその複雑さをあまり持ち合わせていなかったというだけなのだ。
幼稚園生の頃から自分があまり変わっていないという自覚はあった。
みんなで手を繋いで輪を作ることはそんなに難しいことでは無いはずなのに、同級生たちはそれをやたら拒んだりする。
私には良くわからなかったそれも今思えば、我儘ではなく健全な成長の過程だったのだろう。

私が少々拗れた理由として思い当たることがあるとすれば、高過ぎたプライドと正しさへの執着だろう。
もともと夢みがちな変な子で悪目立ちしやすかった私は、少し大袈裟かも知れないけれど「人間性まで否定されたら私は終わってしまう」と思っていた…気がする笑
我儘を言わないように、人様に出来るだけ迷惑をかけない行動をという意識は私の受けた教育の核となる部分だった様に思うし、何より自分と関わる大好きな人たちに対して、自分がその輪にいる事で悪影響を及ぼすと言う事が嫌だった。
嫌だったというか、今でも嫌だ。
少し綺麗なことを言い過ぎたかも知れない。
きっと実際の私はかなりのカッコつけたがりで、幼かった私は他人や自身の激しい感情に振舞わされることを醜いだなんて思っていたのだろう。
何も分からない癖をして、大人になることに焦っていたのかも知れない。

だから私は、自分の一存で無かった事にできるそれが邪魔な感覚ならそれは思い過ごしで構わないことにしてきた。
きっとこんな風にして私の中の正しさは少しずつ形を歪めて、こんなにも正しさに忠実になろうとしていたと言うのに、私は正しくすらなくなってしまったようだ。
本当のつもりで扱ってきた言葉だって、本当はもう何が本当で何が嘘なのかなんてわからない。
それでももう少し、貴方とお話をしていたいから。
せめて全てが嘘で全てが本当だったとしても、愛せるような言葉で紡ぐね。

読んでくれてありがとう。

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