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分水嶺

1961年生まれの僕が、まだ小学5年生か6年生だった頃のことだ。

その頃、神奈川県相模原市の「米軍相模補給廠基地」からは、いよいよ激しさを増すベトナム戦争の戦場に、たびたび戦車や自走砲が送られていた。
送られるのは横浜港瑞穂埠頭から海路で。これを、大学生を中心にした若者たちや労働組合の人たちが阻止しようと実力行使に出ていて、機動隊などと衝突。埠頭の入口付近は、子どもたちにとって「近づいてはいけない」場所だった。

この「実力行使」の中に、後に社会党(当時)の委員長になる飛鳥田一雄氏も含まれていた。もちろん、彼だけでなく社会党さん自体が実力行使の「一勢力」だったようだ。

そして、当時、飛鳥田一雄氏は横浜市長。今なら、リアリティが無さ過ぎてTVドラマの企画書でも通らないだろうけれど、あの頃はホントにそういう横浜市長がいた。

(山中さんと比べてみてほしい。どちらがプロの政治家か)

横浜市役所も「戦車が橋を渡る際の従量制限違反」をタテに戦車の埠頭内搬入(埠頭は米軍接収地)を拒否しようとしたので、横浜市の職員さんからも逮捕者が出ていた(後に、僕は武勇伝を聞くことになる)。

これも、今となっては神話の世界だ。

いずれにせよ、これが、僕が子どもの頃の社会党さんのイメージだった。
それ故、彼らが自民党と連立して政権党になって、彼らの憲法解釈や自衛隊の違憲合憲の判断を180度変えてしまったことについてはホントウにびっくりした(特段の支持者ではなかったけれど)。

当時、公明党さんも、創価学会さんとの関係だけでなく「反戦」ということが大きなテーマである政党だった。保守でも革新でもない政党として、社会党さんとは一線を画していたけれど、僕が子どもの頃には反核イベントを巡回させたり、それなりに積極的な平和運動を展開されていた。

数年前の毎日jp (2013年6月29日3時00分版)に、こういう一節があった。

公明党の山口那津男代表は28日、毎日新聞のインタビューで、政府の原発輸出政策について「日本の技術は高く、厳格な安全基準を新たに作ったとして(輸出を)求められれば、拒否することでは必ずしもない」と述べ、条件付きで容認する考えを示した。同党は民主党政権時代の2011年12月、ヨルダンなど4カ国に原発輸出を進める原子力協定の国会承認案に反対していたが、方針を転換する。

土井たか子さんが「山は動いた」といったのが1989年の参院選のとき。1994年4月には、社会党首班の内閣が成立し、7月の国会で「自衛隊合憲、日米安保堅持」を表明。でも…あとは転がるように党勢を縮小していった。僕が子どもの頃の社会党さんって衆議院議員だけで120くらいの議席を占めていたんだけれど。

気がつくと「安倍一強」といわれる状況に。
公明党さんも、自民党と連立だ。

そして、憲法改正が可能にも思える状況に。

僕は「君が代」斉唱のない時代の「横浜市立小中高」で育ったから、未だに「何で?」の思いが強い。政治家さんも耐えられないほどの存在の軽さになってしまったし、筑紫哲也さんや久米宏さんのように、政府に噛み付くTVキャスターもいない。
たぶん昔からスガちゃんのような人はいたんだろうけれど、あんなにアカラサマではなかった。モリカケ問題にしろ、花見問題にしろ、首相をして、あまりにもアカラサマで、故に稚拙だ。

稚拙だが、数で押し切る。その「数」もパリ旅行で、裸に近い衣装のダンサーさんを呼んで宴会だ。

分水嶺は小泉さんが首相だった時という人がいる。
もちろん、お父さんの方。
確かに竹中平蔵さんが経済的なブレーンで閣僚にもなり、この国の終身雇用制度の終わりに道筋をつけた。地方自治体をリストラして(数を減らし)、後の「ふるさと納税」で自治体の「壁」を溶かす、その素地も整えた。

いずれにしても、僕らも、僕らの親の世代も、兄貴分の世代も、自分に理由のない自信を持ち、公共政策は政治家やお役人に丸投げで、投票にも行かないし、声も上げなかった。声を上げたのは、自分が学生のときだけだった。

(「いちご白書」だ)

今はみなが家畜ようだ。いわれるとおりにしていれば不十分ながら「終え」と「食べ物」が与えられる。家畜にとって、牧場の経営など預かり知らぬことだ。牧場主にオブジェクションする「牛」など聞いたことがない。

もう山が動いて喜ぶ人もいなければ、動かそうとする人もいない。

でも、今度の敗戦には「8月15日」という句読点も打たれない。気がつくと状況だけが「敗戦直後」になっている。

逃げ遅れる人は1945(昭和20)年よりも多くなるだろう。

開戦前、だいたい730万人だった東京の人口は、たった数年後の昭和20年、380万人にまで減少する。もちろん空襲被害もあるが、東京を離れられる人は地方に疎開していた。学校単位に行った「学童疎開」は、それがかなわなかった児童への福祉的な施策だった。

高度成長期からバブル期を経て戦後の大半を「公共政策は丸投げ」の左うちわできた僕らに、そういう判断力はない。マスクを外すのでさえ、周囲を見渡して考えるのだ。

そういう状況に「句読点」さえ、不明確なんだ。

政治家さんも、お役人も、すでに状況をコントロールできなくなってきている。もうすぐ、ここが地獄の一丁目であることが明確になるだろう。

分水嶺はとっくに過ぎていた。
山と違って、裾野に来るほど、下り坂は急坂になっていく。