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なぜ、本を8冊もつくる必要があったのか?(前編)

リーン開発の現場

 最初に本を作ったのは「リーン開発の現場」だった。

 原著は「Lean from the Trenches」。Agile2012という海外のカンファレンスで手に入れた紙の本を、帰りの飛行機で読んでいるうちに「これは日本に届けたい」と思い立つに至った。著者のHenrik Kniberg(ヘンリック・クニバーグ)については、「塹壕より Scrum と XP」で認識していた。

 今は、Spotify-modelの人と言ったほうが伝わるかもしれない。

カイゼン・ジャーニー

 次に作ったのが「カイゼン・ジャーニー」

 はじめての書き下ろしで、本書以降「書き下ろし」でしか本を作っていない。「カイゼン・ジャーニー」をつくるのはとてつもなく苦労した。最初の最初の企画から数えると、4年ほどかかっている。それだけ、本を書き上げるというのは腕力と、鉄の意志が必要となる。

 書かなかったら、文字も、ページも増えんわけです。書かなかったら、真っ白です。何一つ進まないのです。自分が書かない限り、何も進まんのです。この時の、砂を噛むような思いが、「文字数とページ数を愛する」という屈折した思いへと繋がり、私の本はやや厚めになっていく。

 「カイゼン・ジャーニー」は私の著作の原点になる。それは単に順番的な意味だけではなく、そこに込めたる「感情」と「方法論」は、以降7冊の基礎にあたっている。「仮説キャンバス」も、すでにこの本には出てくる。「チームで仕事する」ためには何が大事なのか、「人と組織を動かす」越境とは何か、といった観点もこの本の中には込められている。

正しいものを正しくつくる

 三冊目が「正しいものを正しくつくる」

 「カイゼン・ジャーニー」を書き上げてから、すぐに取り掛かった本。もう次の日には書いていたという前のめり感。あれだけ文字を生み出すのに苦労したというのに。「カイゼン・ジャーニー」を書き終えることで、そこにまだ足りていない内容があることにまざまざと気づいた。それが、「正しいものを正しくつくる」をつくるきっかけだった。

 「正しいものを正しくつくる」への思い入れは深い。最も思い入れがある本かもしれない。自分で会社を立ち上げてまでやろうと思ったこと、その実践の結果を詰め込んだ。「こうしたいな」ではない。「こうしたんだ」「こうなんだ」を余さず書いた。

 2013年頃に、「正しいものを正しくつくる」で書いている仮説検証型アジャイル開発なるものに取り組むのには相当なハードルがあった。何しろまだまだアジャイル開発そのものが広がっているわけではない。その上で「仮説検証」なる、謎の活動をするという。

 受託企業にせよ、事業会社にせよ、「そんなことして何になるのか?(儲かるのか?)」「検証結果がふるわなかったら、やめるってこと?」というごく自然な反応が寄せられることになる。

 でも。それでもやるんだよ。

 を貫くためには、自分で会社をやるしかなかった。「結果を引き受ける」ためには、正規の組織の中ではとてもじゃないが話を通せない。であるならば、自分で背負うために、その環境をつくる。

 「正しいものを正しくつくる」はその結果を記したものだ。あのときの越境に賭けなければ今の自分は存在しない。

チーム・ジャーニー

 四冊目に「チーム・ジャーニー」。

 実は、この本も前作を書き終えてからすぐに取り掛かった本。つまり、延々と本作りをしていたことになる! ちなみに私は専業作家ではなく、私の現場は、組織やプロダクト・事業作りにある。どこで時間をつくるのか? 「睡眠を損なう」といろんなことが出来るのは事実だ(お勧めしません)。

 「正しいものを正しくつくる」で余さず書いたのではなかったのか? いや、実はまだ書き足りないところがあった…(このパターンを止めない限り、永遠に本作りが続く)。それは、「チーム」についてだ。

 正直なところ、巷によくあるチームの話についてはそれほど高い関心があるわけではない。
 「"チームが大事" というか、それはもはや前提だよね。」
 「チームを "エクスキューズ" にしているだけではないの?」
といった具合で、もともと斜めに見ているところがある。

 それでもなお、「チーム」については語らなければならない。いや、あの話のチームではなくてですね。こっちの「チーム」はいわゆる、そのチームではなくて、「チーム」なんですよ…ということを言語化するためには、「チーム・ジャーニー」ほどの厚みが必要となった。

 チームという言葉には、数多くの解釈や見方があり、「みんなで仲良くあること」「フラットであること」といった面が強調されることが多い。それはそうなのだけど、不確実性の高い仕事や現場、つまり「複雑で難易度の高い取り組みに際しては、多様な人々による奇跡的な協働が不可欠なんだ」ということをあらわすのに、同じ「チーム」という言葉を使わないといけないところでの、居心地の悪さが私には未だにある。

 「チーム・ジャーニー」を読んで、いわゆる思っていたチーム感とは違うと思われた方もいるかもしれない。その差分を、ぜひ言語化してもらいたいと思う。そこには何か次に向かう手がかりがあるかもしれない。

(つづく)


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