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海の底と太陽の森 9.深く透明な海

無重力というのは不思議な感じだった。

自分が全く動かなければ自分が存在しているという感じがしない。

僕の体の感覚は何もなくて、ただ動かすと、そこにさっきまでなかった物が動くという感じだ。

僕は自分の意思で沈み込んでいかなくちゃならない。
僕はこの暗い海の底に進まなくちゃいけない。

太陽の光はさっきよりも明るくなったように思える。

太陽は移動しているのだろうか? 

それとも僕が知らない間に流されているのだろうか? 

どちらにしても少し肌が暖かくなった。僕は少しだけ状況を受け入れている。

さっきよりも体は動くし話も出来るようになった。何かを行う時はポジティブさが必要だ。

どうなるかなんて何もわからないが、どうにかなるだろう。深く考えても仕方がない。

これ以上は中々悪くなる事もないような気がする。僕は知らなくちゃならない。いろんな事を知ってもう少し考えられるようになりたい。この世界で…

「この世界についてもう少し教えてくれませんかね? いろんな事を知っておかないと、何かを捜すときに困りますから」

僕は少し気持ちが楽になり、さっきよりも穏やかな口調でそう言った。

「いやいや。勿論それは構わないですよ。私が教えられる事は全部教えるつもりですからね。私はあなたが気に入っているんですよ。」

男は歯を出して笑った。さっきより嫌な感じがしなかった。

「僕もあなたの事が最初よりは好きになってきましたよ」

僕はそう言って少し笑う。

「いやいや。それはありがたいですね。しかしあなたは本当に正直な人だ。それはとても良いことなんですよ。正直に全てを話すということは中々出来る事じゃありませんから。おかげで私はあなたの言葉を疑う必要がありませんからね」

男はそのままの笑顔で僕に言う。そう言っているこの人にも、全く嘘が無い。

僕はこんなふうに相手に直接的な事を言う人であっただろうか?

いや僕は決してこういう事を思っていても、口に出すタイプではなかった。特に初対面の人にそんな事を言うなんてありえない話だ。

僕の社会性は海の中では必要性が無い。嘘をつく必要も無い。正直な意見を言える状況というのは心地が良かった。

ここで僕が正直に話をしたって、誰に何を思われるわけでもない。嫌われるわけでもない。僕は社会性にも現実にも捕われていない。そして自分にも。

「ここの常識みたいなのを聞いてもいいですか?」

僕は質問に戻る。

「いやいや全然構いませんよ。常識と言われると少し困りますがね。世界を教えるというのは中々難しいものですからね。漠然として大きいですから。どうですかね? 喋っているよりは体験していただいた方が早いと思うんですが? …少し泳いで見ますか?」

男はそう言って、スムーズな動きで数メートル下に沈みこんだ。沈み込むと彼の体が少し見えにくくなり、僕の体は少し不安を感じた。

「大丈夫ですよ。離れていれば見えにくいですが、近寄ると良く見えます。これも当たり前のことなんです。それが普通だと思えば何て事ありませんよ」

男はそう言って上昇し、僕のいる深さに近づいた。男の体は明るくなり確認できる。思った以上に海の視界には透明感がない。

汚れているという気はしない。ただ闇が深いのだ。自分より上にいるものは見えやすく、沈み込んだものは見えにくい。そういうふうに見える。

僕は腕や足を動かして下に沈み込もうとした。しかし僕の体は上下に少し揺れるだけで、結局その場からは動かない。男は慌てて近づき、僕の隣まで戻ってきた。

「いやいや、すいませんねどうも。あまりにスムーズにあなたと喋っていたものですから、ついつい忘れていましたよ。私はあなたに泳ぎ方を教えていませんでしたね。本当に申し訳ない」

男はそう言って、深々とお礼をした。本当に申し訳なさそうに見えた。

「わざわざ謝らなくてもいいですよ。とにかく僕はまだ歩き方も知らないみたいですから、早く教えてください。自分の体を自由に動かせないっていうのは、結構つらい事なんです」

僕は本当にそう思っていた。不自由になるというのは、本当にそうなってみないと気持ちがわからないものだ。

思い通りに自分の体が動かない。確かに今までそんな事は一度もなかった。僕は入院したことは一度もないし、骨を折ったこともない。

僕には知らない事が沢山ある。僕は精神の動かし方をほとんど知らなかった。

「重力のない人間には沈み込む力が必要です。まあ当たり前のことなんですがね。」

男は僕の近くで泳ぎながらそう言う。

「沈み込む事は、自分の力で深い部分に入っていくという事です。普通の人は自分の力で沈み込んだりはしませんがね。沈み込むという事は深層に近づくという事です。

だからあなたは自分から、自分の深層に入っていかなければいけない。海の底に沈む事と、自分の底に沈む事は同じ事なんです。それは大変しんどい事です。普通の方なら絶えられる事ではありません。

他の重力に引っ張られない限り、誰も自分から沈み込もうなどとは思いません。でもあなたは大丈夫なはずです…おそらくですがね。少し楽にしてください」

男はそう言うと僕の両肩を両手で掴んだ。

「自分の感情に抵抗しないでください。全てを受け入れてください。苦しさも悲しさもあなたの感情です。慣れる事が出来ますから、自分を見つめてください」

男が僕の肩に力を入れる。僕の体が一瞬下に下がる。

「力を抜いて…行きますよ」

男がそう言ったと同時に僕の感情は悲しさや苦しさ、寂しさ、それによる不快感に包み込まれた。

下がっていく。僕は下がっていく。感情が僕の位置と共に下降して行く。でも僕は知っている。

この感覚を知っている。今までにもこの感情になった事がある。一人の時に閉じこもって考えている時の感情だ。

僕が何かに迷った時。何か失ってしまって悩んでいる時。僕は僕と話をする。頭の中で僕は自分の中に入って行く。

僕の質問に僕が答える。知っている感覚だ。サラリーマンの男はとてもゆっくり沈み込んでくれている。

その速度が、僕の知っている感覚と呼応していた。周りの景色は相変わらず太陽の光が微かに届く海の中だ。

でも僕はゆっくりと沈みこんでいく。男の手はもう力を入れていなくて、僕は自然に下降して行った。

僕は自然に仰向けになり、太陽の方を向いて両手を広げた。それが一番楽な姿勢だったからだ。太陽が海面に反射してユラユラと揺らめいている。僕は目を細めてその光を感じた。

「かまいませんか?」

男はそう言って僕と太陽の間に不思議な笑みを浮かべて入ってきた。

「かまいませんよ。出来たらゆっくり案内してくれるとありがたいですね。僕は急に沈み込んだりは出来ないと思うんで」

そう言って僕は小さく息を吐いた。息は浮かび上がっているように見える。僕が沈み込んでいるのだが、そう言う風に見える。

「大丈夫ですよ。自分の中に沈みこむという事は悪い事ではないんですよ。ここは海の中ですからね。沈み込んでわかる事も沢山あるんですよ。

まあゆっくり行きましょう。案内する事はちゃんとありますからね。楽しみしておいてください」

男は少し安心したように、真剣な顔が消えてまたさっきのように笑っている。

僕も少しおかしくなって、小さく頬を上げた。

僕らはエレベーターに乗り合わせたように、二人が平行して沈んでいる。最初は太陽の光を欲して横ばいになっていたが、僕の好奇心は上の太陽より海全体に意向していった。

深く沈むにしたがって僕の心はその行為に慣れる。沈み込む事によって自らは研ぎ澄まされていく。

最初はどんよりとした暗い感情が伴い、ため息しか出ないような不快な感覚があった。

しかし更に長く沈んでいくと、頭の中が並列され整理されていくような感覚に包まれた。僕の視界はそれと共に段々と変化していく。

さっきまでは数メートル先の男の姿も捉えられなかったが、今は暗闇の濃度が薄くなってきたように思える。

それと同時に海の中の景色は生物のある景色へと変貌を遂げた。僕はその情景に息を呑む。僕はこのような場所で存在している。

森の中がそうであったように、あらゆる物が大きい。ただ海の中には何もそれを確認する物がなくて全く気付かなかった。

サラリーマンは僕と同じサイズだったし、それ以外は何も見えなかった。濃度の薄くなった暗闇に、大きな物体が沢山存在している。

そしてそれは大木などとは違って、動いていた。その中の一つに僕が目をやる。

クジラだ。

僕のいる地点よりも遥かに深く。そして遠くにその影はうごめいている。ただ大きい。黒い大きな影が緩やかに動いている。

僕はこんなに大きな姿の生物を見た事がない。クジラと確認できるのは、あの独特の形をした尻尾によるものだ。

しかし尻尾こそクジラの形をしているが、僕の知っている限りあんな形をしたクジラを見た事がない。

輪郭としてはシロナガスクジラに最も近いように思えるが、明らかにそれとも違っている。

頭の部分に曲線めいた角のような物が二本出ている。角と言ってもかなり大きくて長い。

チョウチンアンコウの垂れ下がった先端部分の様に、頭から二本の柔らかな角が伸びていた。それはクジラのように見える何かだった。

「いやいや。こんなに早くあなたの視界が生物を捕らえるとは思いませんでしたよ。大したものですね。案内し甲斐があります」

男は笑いながら僕のほうを見ている。

「あれはクジラですか? それとも他の何か特有の生物なんですか?」僕も

彼のほうを見て聞く。

「間違いなくクジラです。しかしあれはクジラという生物ではありません。クジラの精神です」

「クジラにも精神があるんですか?」

「当然です。生まれ進化し、淘汰されるまでの間。全ての生物には精神と言うものが存在します。

しかしです。しかしですよ。

あれはクジラという精神の全てです。あの大きな塊がクジラという精神の流れそのものなんですよ。あれはクジラ一体の精神ではない。そこが説明のポイントです」

男は得意げにそう話す。

「どういうことですか?」僕が聞く。

「つまりです。つまりですよ。彼らの精神は全にして個なんです。全ては一つの流れです。つまりあの一頭のクジラが彼ら全体の精神なんです。

この世界にクジラは一頭しかいません。肉体ある全てのクジラの精神はあの一頭の中に含まれています。

あのクジラは一頭のクジラの精神であり、全てのクジラの精神でもあります。あのクジラが泳ぎ着く先が全てのクジラの泳ぎ着く先なんです」

男はそう言ってクジラを指差す。

クジラは尾びれを大きく動かして僕らのいる方向に上昇してきた。その巨大な威圧感は、僕との距離がかなりある今現在でさえ驚異的なものだった。

クジラの体は斜めに傾き僕らの高さに近づいて来る。その動きはゆっくりで、僕は早まる呼吸と共にその生物を見つめている。

「大丈夫ですよ。食べられたりぶつかったりという事はこの世界ではほとんどありませんから。その精神にぶつかろうとしなければ、ぶつかれないですからね。

クジラの流れにとって私達はその辺に浮いている海草なんかと大して変わりませんから。こちらに来てもただ通り過ぎるだけですよ」

男はそう言って笑っている。そうは言われても、キロ単位の生物がこっちに向かって泳いできているのだ。

進行方向は変わる気配がない。大丈夫と言われようが何と言われようが、気にしない方がおかしい。

ゴゴゴゴゴという大きな振動を空間全体に響かせながら、クジラは僕たちのすぐ近くまで泳いできた。

「はっはっは大丈夫ですよ」

男は笑いながら僕の肩を叩いている。

くそ大丈夫なもんか!

僕は息を大きく吸い込む。クジラは目の前に迫る。さっきまでの影とは違い、皮膚の質感や目のきらめきなどがはっきり見て取れる。

目は僕の体の何倍も大きい。赤く光って動いている。目だけ見てもまるでそれが生物の目には見えない。

まるで階段の上で見た太陽みたいだ。僕たちの目の前に迫ると、クジラは口をあけてそのまま進んできた。

僕は疑いの目でサラリーマンを見る。男は相変わらず笑っている。クォ―ンと大きな声をあげ、クジラは僕たちを飲み込んだ。

僕の目の前はクジラの様々な視界が、スライドショーのように切り替わっている。耳からはクジラの様々な鳴き声が代わる代わる聞こえてくる。

高かったり低かったり、長かったり短かったりした。クジラが僕の精神を通り過ぎて行く。

僕は様々なクジラの視界を見る。クジラの子供が僕の周りを泳いでいたり、大王いかに噛み付く瞬間。

海面に上がるその視界。見たことのない数のクジラの大群。そしてクジラが本能的に求めている欲求が僕を支配する。

そこには彼らが求める全ての欲求が入っていた。それはとてもシンプルで心地の良い感覚だ。

死の瞬間にさえ欲求がある。

そして何の前触れもなくその感覚が途切れる。クジラは僕の視界にいない。僕は瞬間的に後ろを振り返った。クジラはもう全体を捉えれる位置まで移動していた。

「はっはっは。大丈夫でしたでしょ? なかなか良い体験です。私はクジラの精神の流れがとても好きなんですよ。雄大ですからね。いやいやいや」

男はそう言いながらクジラを眺めている。

何というか…すごいですね」

僕はそう言って遥か遠くの巨大なクジラを眺めている。僕は放心してしまって動くことが出来ない。

一瞬だったが、情報が僕の中をいっきに駆け巡った。僕の脳が遅れながらにクジラの視界を処理している。そしてクジラの鳴き声がいつまでも耳に残った。

クジラが過ぎ去った後には、また静かな海が残った。二人の男が並んで浮かんでいる。

クジラの精神はすばらしいものだった。

僕の頭は高揚していて、しばらく首を小刻みに横に振っていた。まるでこんなことがあって良いのかと言う様に。

しかし単純な疑問がすぐにわいてきた。

あのクジラがクジラの精神の全てだとして、僕らは一体何なのだろうか?

僕は僕としてここに存在している。

隣のサラリーマンもおそらくそうだろう。

僕はそう思うと急にサラリーマンの男が気になった。僕は彼の目に視点を合わせる。男もそれに気付いて僕のほうを見返す。

彼の表情は笑っておらず、真剣な表情に変わっていた。

「あなたは有能な人です。ただ通り過ぎていくだけではないですね。やはりといいますか」

「僕はまだ何も言っていないんですがね」

僕はそう言って首を少し傾げる。

「あなたは何故我々は? と思っているはずです。そのとおりです。私もそう思います。ここに存在する人間以外の生物は全て一個体なんですよ。一体しかいません。私は色んな生物を見てきました。

しかしやはり同じです。私は何故我々は? という疑問をまだ解いていません。知っている人もいますが、私には教えてくれませんでした」

男は僕の顔を見てそう言う。自分に話し掛るように、その後何度か頷いた。

「何故僕がそう思ってると思ったんですか?」僕は男に聞く。

「あなたがそういう方だからですよ。見ればわかります。あなたが意識していなくても、見ればわかる事が沢山あるんです。

別にあなたが考えている事がわかると言うわけではありません。全然わかりません。しかしあなたがそう思っているという事はわかるんです。そういうことはよくあることです」

男はそう言うと、真剣な顔が消えて、いつもの柔らかな顔に戻った。はっはっはと声をあげ、僕より少し沈みこんだ。

僕は良くわからないと言う風に、少し首をかしげて彼の後を追いかけた。

「そろそろ見えてきますよ。実は案内する場所は決まっていましてね。あなたは探し物をしている方なので、あなたの場所に辿り付くんです。

そしてあなたが自由になってしまった今、私と共にいる必要はない。あなたはあなたとしてここに存在しています。あなたは自由を手に入れました。後は赴き決めるだけです」

男はそう言うと、海の底を指差してこちらを見た。僕は男の顔を見た後に、その指の先に世界を移動する。指の先の景色は暗くてよく見えなかったが、何か建物のように見える。

僕はそれを確かめようと段々と沈み込んでいく。近づくにつれてそれは輪郭を帯びて、はっきり見えるようになる。

それは街だった。

「海の底に街がある…」

僕は不思議な景色に見とれながら、そう呟く。僕たちは街の遥か上空に位置していて、海の中にいる事を忘れ、現実の世界で空に浮いている様な気分になった。

僕は飛行機から街を見下ろした事ははあるが、自分が浮かんでいて下に街があるというのは全然印象が違った。

飛行機から見る景色は、移動しているせいか孤立感が無い。しかし今の僕は取り残された感じがある。

僕だけが浮かんでいるという感じがした。僕は街がはっきり見えるまで沈み込んだ。

僕の視界に映る街は、建物と道があって人が生活している。普通の街の景色に思える。僕の家からでも見えるような、日常の風景だった。

見覚えのある建物もいくつかある。

いや…よく見ると、いくつかどころではない。

僕の家。

施設や駅。

そこまでのアスファルトの道。

全ての景色が僕の見覚えのある空間だった。

ここは僕が住んでいる街だ。僕が存在している、僕が生きている場所だ。

「私が出来る事はここに案内する事。それだけなんですよ」

サラリーマンの男が急に口を開く。僕は彼の存在を少し忘れていた。

「ここは僕が存在している街です。人もいる。精神の世界ではないんですか?」

僕は目を見開いて聞く。

「ここはあなたの街ですよ。ここからではまだ良くわかりませんがね」男はそう言う。そして街と平行して横に泳ぎだした。

僕もその後を追い、街の上をゆっくりと泳ぐ。まるで飛んでいるみたいだ。気持ちが良い。僕は街を眺める。

街の建物はみな不安定な感じがした。建物の線がゆらゆらと揺れていて、海草のように海底からはえている。

不思議な街だ。建物同士を結ぶ道だけがハッキリとしていた。血管の様に無数に散らばる道が、揺らめく家から人々を駅に運んでいく。

そして駅のロータリーに集合し、クルクル回ってまた家に帰っていく。街を歩く人々にも安定感がない。

歩いている姿に重みが感じられない。歩いているというより進んでいるという感じだ。建物に比べて、人は普段のサイズより小さいように思える。

街が見えるようになってから辺りが妙に明るい。さっきまでの深い闇は消えてしまって、僕の上方は夜明けのような淡い青色になっている。

そして驚くほど静かだった。

さっきまでは遠くで太陽の鼓動が鳴っていた。それ以外は僕らの話し声だけがこもって聞こえていた。

太陽の鼓動も集中して聞かないと、忘れてしまったように聞こえなくなる。しかし街が見えてからは静かだった。

音が全く存在しない街。その上で音も無く泳ぐ僕ら。僕は何処にもいないような気がした。

「いやいや、とても楽しかったですよ」

男が急にそう言って僕を見る。さっきよりも優しい目つきになっている。

「私の案内はここで終わりです。もうここはあなたの街ですからね。後はあなたが考えて進んでください。

しかし考えすぎないでください。答えはいつもあなたの中にあります。あなたが決めたことが重要なんです。必ず選択してください」

男はそう言って笑った。

「何をどうしていいのか、まだわからないですよ」

僕は少し頬をあげて聞く。

「あなたなら大丈夫ですよ。あなたは頭が良いですからね。すぐにわかるはずです。わかるというか、迷う事はないと思いますよ」

男はそう言って頷く。

「あなたが行ってしまうと、迷ってしまうと思うんですがね」

僕の不安は消えない。

「はっはっは。そう言って頂けると、とても嬉しいですね。案内人として冥利に尽きるといいますか」

男は嬉しそうに笑っている。

「正直な話、あなたがここから何処に行けば良いかは、私にもわからないんですよ。ここはあなたの街です。私の街ではありませんから」

そう言うと男は泳ぐのを止めて、僕の方向に体を向けた。

「必ず探し物を見つけてください。あなたの重力は必ずここにあります。迷う必要なんてないんです。流れるままに進んでください。そして考えてください。知ってください。その先にきっと光は見えます」

男はそう言うと、僕の肩に触れる。触れた瞬間に彼を心の中心で感じる。僕の肩に力をいれ、その反動で彼は浮き上がっていく。

僕は彼が上昇するのを目で追った。海は淡く青い色でサラリーマンを迎えている。太陽はキラキラと揺らめき男を照らし出す。

男の姿は影になり、輪郭だけが僕の目に映る。彼には似合わない美しい景色だ。僕は少し笑ってしまう。

男が段々と見えなくなり、小さくなっていく。僕は遥か上空の海に太陽を感じる。男はその中を通り過ぎていき、やがて見えなくなった。

僕は彼が見えなくなった空をじっと眺めている。太陽がとても近くに感じられた。

光は僕の見える範囲で揺れていて、世界が一つになっていくのを感じる。暗い闇などない。

ただ深いだけだ。

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