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海の底と太陽の森 7.階段の先

風が段々と弱まっていく気がする。

木々は僕を遠ざけていくように静かになっていく。僕は歩き続ける。

アカリはまだ眠っているのだろうか?

目を閉じてから何時間たったのだろう?

僕は今この世界でたった一人。空気が冷たい。

知らない間にまぶたの上の景色は完全なものになっていた。色も輪郭もハッキリしている。世界は変わってしまった。

世界が変わってしまったから僕は一人なのだろうか?

誰でも良いから話がしたかった。どんな話でも良いんだ。

最近元気か? とか、

久しぶりに今度野球でもしないか? とか、何でもいい。

僕は失われた世界を考えていた。

僕が目を開けて、みんなに笑いかける世界。

失ってから思い返すと、それはとても貴重な体験のように思えた。

アカリに話し掛けた一言、一言。僕を大切にしてくれる人達。車から見える季節の風景。

僕は立ち止まった。帰りたかった。帰って涙を流したいと思った。

立ち止まっていたのは最後の分かれ道だった。

僕は手に入れた全てのものを失うわけには行かない。良太君は僕の精神的な鎧を、この森で全部解いてしまった。

僕は弱い人間だ。寂しいし抱きしめて欲しい。

そしてみんなが僕の話を聞いてくれる事を望んでいる。

失ってしまったものは一体何なのだろうか?

僕は何かを失ってここにいる。なにかを失って目を瞑っている。

この先に失ったものはあるのだろうか?

この先に行って、良太君を悪い奴から連れ戻す?僕はそんな正義の味方みたいな強い奴じゃない。

僕は大きく息を吐き出した。ゆっくりと…とても長く。

「僕はお前が大嫌いなんだぜ」

無意識に頭に浮かんだ言葉を僕は吐き出した。

それは誰か違う人が僕に対して言ったように聞こえた。僕はまぶたの隙間から大粒のしずくを流した。

そうだ。この先にあるものは、失っちゃいけない。何なのか全然わからないけど、失っちゃいけないものなんだ。

僕は下を向いて、何度か鼻をすすった。何故か少し僕は笑っている。

本当に涙を流すのは久しぶりだった。感動する映画も音楽も、知り合いの人が死んだって涙は出てこなかった。

今は何故涙が出てくるのかがわからない。悲しくもないし、切なくもない。

ただ涙だけが無意識に流れていく、それが少しおかしかった。

僕の涙は自然に止まり、僕の小さな笑みだけが残った。僕は息を大きく吸って、また歩き出した。確かここからすぐそこが階段だ。

この先に階段があって、僕は確かめなくちゃならない。僕は立ち上がり歩き出した。

 全ての物が大きくなっている事を忘れていた僕は、その階段の大きさによって僕の視界がどれほど変わったかを、その圧倒的な威圧感によって思い知らされた。

階段は今僕の目の前にある。周りにあった大木は、階段の出現によって姿を消した。階段は僕が見渡せる限りの全ての視界に存在している。

まるで何かを区切るように、正確な直線で森の地面と階段とをコンクリートが分けていた。

ここまでが森でここからは階段と言う感じだ。階段にはコケ類がびっしりと付いていて、ここが随分と使われていない事を語っていた。

とてもなだらかな階段で、一段一段の段差はとても小さかった。そのなだらかな階段が、暗く見えなくなるほど地中奥深くまで続いていた。

僕は興奮している。見た事のない、誰も見た事のない景色のような気がする。

「すごいな」僕は昼間と同じ言葉を呟く。

言葉は階段を下って地下に吸い込まれていく。本当に吸い込まれていく感じがするのだ。僕が放った言葉がどんどんと遠ざかっていく。

階段の曲線にそって、下へ下へと。ここには特別な重力がある。そんな気がする。

僕は足元の階段を眺めていた。地中深くまで続いているこの階段。誰かが作ったというより、そこに昔からあるという感じだ。

階段の上の空間、つまり僕の正面の景色は何もない。地面は階段と共に下がっていっている。僕の正面の景色は、見渡す限り何もなく暗い空が広がっていた。

その景色に圧倒され、僕は何を考えるわけでもなくその場に立ち尽くしていた。

僕が自然に足を一歩階段の方に踏み出した。その時だった。

チャプンっという音がして、僕の足先が冷たくなった。僕はとっさに飛びのいて、その音がする方向に目をやる。階段は波紋の広がった地面によって揺らめいている。

水だ!

水が階段の上で揺らめいている。僕の視界では水はわからないようだった。目の上が段々黄色がかっていく。

水に触れた事で視界が変化していく。僕がさっきまで見ていた景色が、その全体の色が変わっていく事によって変化している。

さっきまで真っ暗だった空が水の波紋と共にゆっくりと明るくなっていく。色はセピア色に近い所で変化を止め、階段と水と僕を全て黄色がかった暖かい色で包み込んだ。

僕の体は僕の意識とは別に動き出した。心臓はありえないくらい大きな音で鳴り、僕の息は自然に荒くなっていく。

僕はそれに逆らうように少し上を向いて大きく深呼吸をした。どっどっど。心臓の音が低音でリズムを刻んでいる。

おかしい。おかしいんだ。

心臓の音は外から聞こえている気がする。僕の耳から振動が入ってきて、僕はそれを聞いていると感じる。

でも僕の心臓も同じように脈打っている。同じ速度で呼応する何かが外にある。

その時、まぶたごしに見える景色が急に真っ暗になった。

僕は急に視界を失って驚いて目を開けた。

 太陽だ。僕が見た事のない太陽だ。

太陽はまるで模型のように輪郭がハッキリしていて、脈打つ溶岩やプロミネンス何かがぼやけることなくハッキリ見える。

そして大きい。

空の半分くらいを埋めた太陽は、躍動しながら一歩も動かずに僕を見つめている。

太陽の鼓動は低音のビートを僕の心臓まで届けている。色はさっきと同じセピア色で、僕の体も地平線も階段も、全部黄色がかっている。

僕はその景色を眺めている。ひどく懐かしい気分になる。昔遊んだ路地裏を映したホームビデオを見ている感じだ。

階段の下からの重力が強くなっていく。僕は少しずつ階段の方に頭がもたれていく。僕には選択肢ない。重力に逆らえないのだ。

僕の体はどうしてしまったのだろう?

僕は自分の体を見る。不思議な事に右足がない。
いや正確に言うと、さっき水に浸かった部分が見えない。

僕は立っている。右足の感覚もある。ただセピア色の体は右足の膝の辺りで消えている。

僕は少し混乱する。しかし重力は更に強くなっていく。僕はそれに耐え切れずに階段の方に足を付く。

ドボンっと言う音がして僕の足は完全に水に浸かってしまった。

水越しにみる僕の足は明らかに見えない。少し水に浸かってしまった手を自分の目の前にもってくる。

滴り落ちる水滴がとおっていくにしたがって、そこにあった僕の肉体は消えていく。更に重力は強まっていく。

僕は必死で階段にしがみつこうと太陽に背を向け自分が来た方向を向く。そこにはありえないものが見えた。

そこには僕が立っていた。

僕が着ている服を着、僕が鏡で見ている顔をし、そして僕を見つめてそこに立っていた。

僕は僕の姿をした何かを見ている。それはとても無表情に僕の方を向いている。

僕は段々と悲しい気分になってきた。僕にこれ以上かまわないで欲しい。重力も僕を放っておいて欲しい。

僕は引っ張られている方向には行きたいとは思わない。

もし僕がそっちに行くとしても、せめて僕の意思で行かせてくれないか?

僕は重力に耐え切れずに、背中から水に飛び込んだ。バシャンと言う大きな音と共に水しぶきが舞い、僕の視界は水の景色に包まれていく。

大男に縄で引っ張られているような感覚が背中からする。

僕の体は水に沈むと共に再生していく。見えなかった手や足は、何の痛みもなくそこに存在していた。

みるみるうちに階段の先端が遠ざかっていく。僕の体は階段のすぐ上をかなりの速度で進んでいる。

瞬きをするが目に水が入ってくるような感覚もない。

僕は反射的に息を止めていたが、やがて耐え切れなくなって呼吸をしようとした。

水は水として僕の口の中に入ってくる。しかし苦しくはない。

不思議な感覚だが、苦しくは全くなかった。水は僕の口から入って、同じように口から出て行った。

息をしているのかはわからない。でも僕が思っている水というものによって死ぬ事はないようだ。

水の中は太陽からの光を受けて上の方は明るかった。僕は照らされている海面越しに太陽を見つめる。

海水に僕の空間が完全に包まれると体が急に冷たくなった。ひどい寒さを全体に感じる。太陽の光が当たっている部分だけが微かに暖かい。

でも僕は沈み込んでいる。太陽の光も段々と弱まっていく。

僕は首を少し上にあげる。どっどっどっという低音の鼓動が水の中にも響いている。

僕を通り越して更に深い所までその音は進んでいるようだ。僕は太陽の光を欲し、手を大きく広げる。階段が僕の下で流れていく。

落ちていっているわけではない。僕は何かに引っ張られている。階段と平行して何かに引っ張られている。

重力はまだ強くなっていっているのだろうか?

それも段々わからなくなっていく。海面に映る太陽が本当に小さくなってしまった。僕の体に届く光も弱まっている。

僕は一体どうなっちまうんだろうか?このまま死んじまうのか?

そして何の前触れもなく流れていた階段が途切れた。

階段がとぎれてその先端が遠ざかって行く。そしてちっぽけな階段の姿があらわになった。

階段は海の中に斜めに沈んでいるトタン板の様に薄っぺらかった。そして巨大な階段は遠ざかってしまうと小さな紙切れのように見える。

それほど大きな水の空間に僕は横たわっていた。遠くに見える階段以外、辺りには何もない。完全な海の中だ。

知らない間にあの強力な重力も消えてしまった。少しずつ落ちていっているような気もするが、止まっているような気もする。

僕は息をして天井を見上げている。

「ここからどうしろっていうんだろうな?」

僕は両手を広げながら太陽に向かってそう言った。その音は遠くのまで響く。太陽の鼓動は遠くで響いていた。

そして僕は意識を失う。

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