海の底と太陽の森 12.流動的な部屋
風景は透明で空気は透き通るように澄んでいた。
窓の外は街を全て見渡せる高台に建っている。建物は透明度のメモリを落としたみたいに薄れていた。
暗い世界に、眩いばかりの小さな光が無数に散らばっている。光は一つ一つが小さな球体で、その中から無数の光の線が触手のように伸びている。
その触手のような無数の線がそれぞれくねくねと動いていた。その光の球体は落ち着きがなく、常に動き回っていた。
空を見上げると、さっき窓の淵に足を付けていた女性が…と言っても今は女性かどうか判別できないのだが…上昇を続けていた。
女性は窓を離れて数メートル昇ると眩い光に包まれて、地上にある光のように、球体に変わっていた。
空には南国の星空の様に、沢山の光が上昇している。地上の光のように触手は動いておらず、光の球体だけが眩く輝いている。
そして吸い寄せられように昇っていく。
「君の目にはどう見える?」
小さな僕が尋ねる。
「綺麗だね。精神は光なんだね」
僕は昇っていく光を見上げながらそう言う。
「そう、僕たちは肉体がなければただの光なんだよ。電気信号さ」
小さな僕が得意げにそう言う。
「電気信号? 電気信号だって? それは何か寂しい話だな」僕は聞く。
「でも事実だよ」相変わらずの口調で彼はそう言う。
「昇っていく光は死んでしまった人々なのかな?」僕は彼の方を少し見る。
「そう肉体がね。簡単な話だろ? 見れば何も疑問なんてないだろう? これが死ぬって事さ。肉体が消えて空に昇っていく。難しい話じゃないだろう?」
彼の口調は僕を少し苛つかせる。知らないことを馬鹿にされた気がしたからだ。
「…子供の癖に」僕はそう小さく呟く。
「何だって? そんな事を言うのか? 僕達の間で? 君が奥底に放り投げた僕にそんな事を言うのか?」
小さな僕はその言葉に異様に反応する。声を大きく張り上げてそう言う。
「…いや…その…」
僕は彼のほうを少し驚いた表情で見ながら言う。僕の瞳孔は少しひらく。
「君は大切な事にいつも気が付いてない。自分の事ばかり考えて、人の気持ちがわかってない。僕はまだ君の一部なのに…何も知ろうとしない」
小さな僕は悲しさと苛立ちが混ざった表情でそう言う。僕は言葉が出てこない…少しの沈黙。窓の外から眩い光が昇り、僕らを照らしていく。
「大切なことを一つ教えてあげるよ」小さな僕は言う。
窓の光は上昇し、部屋が眩い光に包まれる。目をそらしていた僕は、彼の言葉で視点を彼の方にあわせる。
「僕は自由じゃない」
小さな僕は目をそらさない。僕は少し目を細める。光が窓を通り過ぎ、部屋が少し薄暗くなる。彼の顔は微動だにしない。
「君はここから出られないのか?」
僕が聞く。僕は普通に入り口から入ってきた。
「出られないかだって? 出られないよ! 誰も入らないように海底に沈めて、部屋の鍵を外から何重にも掛けたくせに。君は何も知らないのか!?」
さらに小さな僕は声を張り上げて叫ぶ。彼は少し息を切らす。僕は更に目を細め、眉間にしわを寄せる。
「知らない。本当に知らないんだ」僕はゆっくり首を振りながら言う。
「冗談だろ? 君を精一杯の力でここまで引き寄せたって言うのに、それはないだろう?じゃあどうして僕はここにいるんだよ?」
彼の声のトーンが少し下がる。僕はまた沈黙する。何の話だ?何の話なんだ? 僕は頭の中で叫ぶ。
「何を聞いたって無駄よ。この人は本当に何も知らないんだから」
小さな女の子の声が僕らの間に響く。僕は声のしたほうに顔を向ける。微かな光が、窓の外からゆっくりと彼女を照らす。
アカリは寝転がったまま僕達の方を見て、少し微笑んでいた。
「ごめんね。起こしてしまった」子供の僕はアカリに謝る。
「いいのよ。眠ってなんていないんだから」
アカリはスラっとした声で答える。
「大丈夫だから喧嘩しないで。どちらが悪いというわけではないのよ」
アカリは僕等にそう言う。
「でも何も知らないなんてあんまりだよ。君は何か知っているのかな。何もわからなくなってきた」
小さな僕はアカリに向かってそう言う。小さな僕は、混乱しているように見える。
「何も知らないわけじゃないけど、全てを知っているわけでもないわ」
アカリはそう言って立ち上がる。
「あなたはここの世界と少しの外しか知らない。あなたは外の世界と少しの中しか知らない。あなた達二人は両方で一つなんだけど、二人が合わさったからといって、あなたの全てが埋まるわけではないのよ」
彼女はそう言って、僕らのすぐ近くまでゆっくりと歩いてきた。アカリは僕達のすぐ隣で膝を折ってかがんだ。三人は窓の淵で段々に並んでいる。
「まだ知らない僕がいるのかな? 僕が認識していない感情がまだ存在するのかな?」
僕はアカリにそう聞く。僕は世界をやっと認識し始めた。でもまだ疑問が出てくる。この世界に沈んでからずっと誰かに質問しているように思う。
精神のロータリーは僕を飲み込んで離さない。
「ううん。そうじゃないの。誰もがみんな同じなのよ。自分が何に向かって動いていて、自分がこの先どうなるかなんて誰もわからないでしょう?
あなた達がこんな風に分かれて、また出会って話すって事は何か意味があることなのよ。それは全体の流れなのよ。
しょうがないの。私たちは自分の意志で全てを制御して、生きているわけじゃないの。流れに乗って、いろんな事にぶつかって、その意味を知るの。それが生きるって事なの」
アカリはそこで一息つく。僕らはそれを何も言わずに聞いている。
「私は何も知らないけど、私はここであなたにぶつかっていく」
アカリはそう言って僕たちに触れる。アカリの体温は相変わらず暖かくて、母親に包まれているような気分になる。
「僕が苦しんだ事には意味があるのかな?」
子供の僕はそう呟く。彼が苦しんでいた事が僕にはわからない。
「僕も苦しまなかったわけじゃない」
僕はその言葉に反応してそう言う。でも僕の苦しみは空っぽだ。
「苦しんだ事に…意味が無いなんて事はない」
アカリは少し怒りにも似た口調でそう言う。空気が少し重たくなる。
「アカリは僕のような大人の自分に会ったのかい?」
僕は話題を変えるようにそう言う。空気を少し変えたかった。
「そんなに昔のことじゃないわよ。私のお母さんが急に死んじゃって。もう一人の私は一人でこの海の底までゆっくり落ちてきたのよ。あなたみたいに力強く引っ張ったわけじゃないわよ」
そう言って子供の僕を見て少し笑う。
「私は大人の私に聞きたい事がいっぱいだったの。あなたと同じ質問ももちろんしたわ。でも、もう一人の私は本当に何も知らなかったのよ。
ビックリするくらい認識が全くなくて、私の存在なんてこれっぽっちも頭に入っていなかったわ。私は閉じ込められていたんじゃなくて、忘れ去られていたのよ。
だから肉体の外にあって、こんな下から見上げるしかなかったの。私はそれまであなたみたいに何もかも、世界の流れだって全部知ってるつもりだった。
あなたは何も知らないのよ。ここの風景と、昔の現実しか知らないのよ」
小さな僕に向かってアカリが少し強い口調で言う。嫌味な感じじゃなく、母親のような愛情のあるトーンだった。
「本当にその通りだよ。僕は君がここにいるって事を知らなかったんだ」僕はアカリの台詞に続けてそう言う。
小さな僕は窓の外に顔を向けて昇っていく光を見つめていた。その横顔は、不安な時の良太君の顔に似ている。
僕は良太君に自分の子供の姿を重ね合わせた。さっきまで大人のように話をしていた少年は、アカリが言った言葉によって子供になってしまった。
「でもあなたは今一人じゃないのよ。一人なんかじゃないんだから」
アカリの鼓動は僕の世界を揺らす。今小さな世界で交換されている言葉の体温は、大人の僕が大人の彼女から与えられているものと、何の代わりもないものだった。
小さな僕は涙を流し大きな声を上げて泣き出した。何かの糸が切れてしまったみたいに、窓の下の壁に背中をつけて、うつむいたまま膝に頭をつけていた。
アカリは笑みを浮かべて、小さな僕の前に座って頭に手を置いた。
僕はその約束をすぐ傍で見つめながら、忘れていた記憶に包まれていく。
昔の僕が見た風景や出来事が頭に入ってきて、無くした世界を埋めていく。
笑って手を振っている友達の顔。学校のプールの裏の景色。新しい自転車。ボロボロになったランドセル。
運動会の組み立て体操。夕暮れの校舎。夜の花火。夏休みの工作。探し当てたトンネル。放課後の教室。大雨の朝。死んだ小鳥。
いなくなった猫の餌。駄菓子屋の中。友達の家。親戚の顔。その家の天井。お風呂の換気扇。
ベランダの風景。プラモデルの箱。人形劇の本。好きなこの泣いている顔。笑っている顔。語り合った親友。非常階段の途中。
電車の窓。窓に写る雪。長袖の父親。笑っている母親。ろうそくの灯火。暖かいストーブ。父親の実家。話す祖父。古いテレビ。暗闇の階段。その先の部屋。橋の上の風景。
団地の入り口…僕の部屋……僕の顔。
そして歌が少し遠くから聞こえた。
とても遠くから…少しだけ。
僕の視点は彼らの近くに戻り、僕は少し浮遊感を感じていた。現実でのアカリの言葉が頭に浮かぶ。
「あなたは何を見ているのか知らないけど、私はあなたを見ているつもりなのよ」
僕は何も見えていなかった。アカリは僕が見えていて、本当に良く見えていて、話をしていた。うずくまっている小さな僕も知っていて、僕はそれを知らなかった。
「ねえ、笑って。笑ってよ」
優しい笑顔を見せながら彼女は小さな僕に言う。僕の目からも涙が流れる。瞬きをするたびに涙が床にこぼれ僕の表情を崩す。
アカリの声は僕の中心に響いている。二人の自分がその声に呼応して、同じ空間を共有していく。部屋全体が地震の様に揺れて、僕は部屋全体をキョロキョロと見回す。
急に耳がスっと抜ける。あらゆる種類の音が部屋を支配する。鼓動と流動音。息遣い。別々のリズムで、低音があらゆる方向から鳴っている。
全ての音は遠くからフィルターを通したように不透明な音でなっている。僕は唾をごくりと飲む。
それと同じ音が部屋全体に大きく響く。僕は沈黙する。瞬きを数回繰り返して目を細める。僕は部屋全体を見渡す、天井を見上げてゆっくりと押入れに意向し、入ってきた玄関に眼を向ける。
部屋は何の代わりもない。音だけが変わった。音だけがそれを確実に伝えている。
ここは僕の中だ。
僕の息遣いか部屋の中に響く。遠くからエコーとなって響き渡り、僕を不安にさせる。僕は視点を定めることが出来ない。
自分の息遣いが遠くから聞こえてくるのは不快だ。僕は息を止める。でもその止める息さえもが全て響く。
小さな僕もここが精神の世界で、自分の外だと思っていた。でもここは僕の中だ。その事実がこの部屋を支配している。
小さな僕は顔を上げる。そして僕の方に顔を向けて、口を閉じて目を開いた。驚きと困惑、その事実を知った事。
でもそれを彼の顔は否定していなかった。それは彼にとって後天的な事のようだ。僕の浮遊感は少し強まる。
足の裏に圧力がない。小さな僕は何度も頷いた。僕のほうに顔を向けて目を離さずに。
「私たちは何も知らないのよ」
アカリは小さな声で僕たちに言う。僕はアカリに視線を向ける。小さな息を吐く。吐いた息は部屋にこだまする。
「何も知らなくて、流れたり泳ぎ続けたりしなきゃいけないの…」
アカリの声は部屋には響かずに、アカリの口から僕の耳に響く。小さな僕が僕に目を向ける。
「君が何も知らないのが良くわかったよ。僕は探さないといけない…ここにいた理由を…」
小さな僕は僕を見ながらそう言う。
「僕も知りたい…ここにいる理由を…」
僕達の目的が重なった。重力が変化していく。また少し浮遊感を感じる。こんなに深く沈み込んでも、探し物が見つからない。
「…歌が聴こえたような気がした」
小さな僕が呟く。僕もそう思う。でもそんな気がしただけで今は僕の流動音しか聞こえない。流動音も小さくなったような気がする。不安は無くなったように思える。
「聴こえそうな時は…耳を澄まして、近くにいて」
アカリは僕達を見てそう言う。
「…うん」僕達同じタイミングで声を重ねる。
「探し物はここにはあるとは限りませんよ…か」僕が呟く。頭にその言葉が急に浮かんだ。
「なんだっけそれ? 聞いたことがある」彼がその言葉に反応する。
「昔、誰かにそんな事を言われた。同じような感覚の時に…」僕が彼に言う。
「僕も聞いたことがある…僕もそこにいた?」彼が聞く。
「さあ…わからないよ」
僕が少し笑って言う。彼が僕に何かを聞くのがおかしかった。さっきまでは聞いてばかりだった。会話している僕等を、アカリは退屈そうな顔で見ている。
「私はそろそろ帰ったほうがいいのかな?」
現実の口調で彼女が聞く。彼女が子供の姿なので不思議な感じがした。
「ここはそんな簡単に出入りできるような場所なの?」
小さな僕が真面目な顔でそう聞く。
「何言ってるの? 当たり前じゃない」彼女が優しい顔でそう言う。
「玄関の鍵を一つ一つ外してきたわけじゃないわよ」アカリはそう言って僕を見る。
「あなた達は何も受け入れようとしないけど、あなたの世界には小さな穴が開いていて、あなたが知らなくても入ることが出来るのよ。私はその入り口を知っているだけ、あなた達は忘れているの」
彼女はそう続ける。小さな僕は話を静かに聞いている。
「ぽっかり開いた穴に入ったら、そこに私が入りやすいように布団が敷いてあって、あなたは何も言わなくて、私は眠ったふりをするの。私はあなたに触れただけ、あなたにね」
アカリは小さな僕に視線を変えてそう言う。
「…本当に? 知らなかった。ここにきてからずっと出口を探してたのに…」小さな僕は悲しげな表情でそう言う。
「他人にしか見えないものもあるわよ」彼女が柔らかい声で小さな僕にそう言う。
「…うん。今は見えるかな?」小さな僕がアカリに目を合わせて言う。
「見えるかもね。そんな必要も無いと思うけど」
「どういう意味?」僕が聞く。
「あなた達はもう一つだもの。外から入ってきたあなたと、部屋の中にいたあなたは、もう同じ空間にいるのよ」
「僕達は全然別々だよ。見れば解るじゃないか?」小さな僕が、少し声を上げて言う。
「そうじゃないの…私と同じなら解るわよ。」
彼女はそう言って、僕が入ってきた入り口を見つめる。僕等も彼女の見ている方向に視線を合わせる。
おかしいな…さっきより廊下が短くなっているように見える。僕は何も感じないが、小さな僕の様子がおかしい。とても辛そうな顔をして僕を見る。
「どうしたの? 大丈夫?」僕が聞く。
「わからない。何か閉鎖感がさっきからあって…ここにいたくないんだ。」小さな僕は答える。
「ここにいたくないって…でもここは君の部屋なんだよ? 」僕はそう言う。
「嫌だ。何だよ? これは何なんだ? 頭が痛い」
小さな僕はとても苦しんでいるように見える。僕はどうしたら良いのか解らない。アカリの様子も少しおかしい。
アカリは押入れのほうに歩いていく。でもその動きがとてもゆっくりに見える。アカリだけ、時間がゆっくり流れている。
いや…違う。僕の視界がおかしい。僕の動きも、小さな僕の動きもゆっくりだ。僕の視界が変わっている。また瞬きが遅い。
子供の僕の体はだんだんと薄れていく。頭を抱えて苦しんでいる姿がだんだんと薄くなっていく。
体が薄れていくにつれて、彼の中から輝く光の線が何本も見えてくる。その光の線は小刻みにゆれながら彼の体の形をかたどって流れている。
その全ての線が僕の方向に流れて、僕の体の全体に繋がっていく。それは水の流れのようにも見える。
僕は自分の両手を子供の僕がいた方向に挙げ、手のひらを見る。僕の手も指先を失い、手そのものが無くなっていた。
僕の手は小さな僕のそれと同じように、電気的で流動的な光が何本も浮かんでいる。彼の光と僕の光が繋がっていて、僕の体の方向に流れてくる。
僕は手の先にいるはずのアカリにピントを合わせようとする。視点はゆっくりとだが動き出してその場所にピントが合う。
アカリはそこにはいない。何も映らない。その先の押入れに少しの光源が映る。でも僕にはそれを確認することが出来ない。僕はとっさに声を上げる
「アカリ!」
部屋全体にその声は響き渡る。さっきよりも空間が重たくなっている。言葉の振動が地面全体に落ちる。小さな僕から流れていた光の線が、完全に僕の中に吸収された。
僕は自分が光の塊になっているのを確認する。目線はまだいつもと同じ場所にあるが、体は完全に違ったものになっていた。
心臓の辺りから眩い光が出ていて、そこから伸びる光の触手が、手や足を何本もの線で象っていた。
「どうしますか!?」
大きな声で僕に後ろから誰かが話し掛ける。僕は息を小さく吸い込み驚く。聞き覚えのある声だ。
「どうするんですか?」
さらに大きな声で彼は言う。僕は精神を窓の方向に向ける。視界がゆっくりと動く。
僕に話し掛けていたのは案内人のサラリーマンだった。窓の外から僕を見下ろしていた。周りがとても五月蝿いみたいで、口のところに両手を当て、大声で叫んでいた。
「どうするも何もないでしょう。いったいどうしろって言うんですか?」
僕は彼に言う。その言葉は天井からこだまする。
「あなたはこのまま消えて無くなるか、それ以外しかないんですよ。どうしますか?」
「それ以外っていったい何なんですか?」
僕も大声で彼に聞く。五月蝿い音はどうやら僕の部屋から鳴っているようだ。
「この部屋から出るんですよ!この窓から!」
そう言って彼は窓の淵に手を置いた。
「出るって? ここは僕の中なんですよ!」僕は言う。
「そんなことは解っています。だからどうするのかと聞いているんです」
「僕が僕の中から出て行ってしまうって言うことは、何か間違ってるんじゃないですか?」
「そう思うならそれで良いんです。あなたが決める事なんです」
「でも僕は消えてしまうとあなたは言った」
「そのとおりです。それももうすぐそこです」
僕は重力を覚える。僕が入ってきた入り口のほうからだ。徐々にとても早くそれは強まっていく。
「どうするんですか?」
サラリーマンは最後の質問をする。僕はサラリーマンの言った事を信用する。彼はまだ一度も嘘をついていない。
「わかった。もう重力に振り回されるのもごめんだ。消えてなくなるのもごめんだ。外に出よう」
僕は窓の手すりに足を掛けて、窓の外に飛び出した。
飛び出した僕は再び海の中にいる感覚に戻る。粘りつく部屋からの重力は、窓の外に出た瞬間に無くなった。ふわっとシャボン玉の泡に包まれるように僕は海に浮かぶ。
目に映る景色には何もない。何も映らない。完全な暗闇が僕の視界を支配している。僕の目の前にいたはずのサラリーマンも見えない。
ただ体だけが海という空間に浮かんでいて、僕は少しずつ上昇していく。そう感じる。
「なんだ…僕は結局消えちまったじゃないか」
僕は深い暗闇にそう言う。でもその音は何も振動しないまま音ですらない。ただ僕の精神に孤独に響いた。
僕の精神は流動している。頭と顔の感覚はある。そこに存在しているという唯一の感覚。手や足。
他の器官の感覚は全くない。瞬きするまぶたや動かす口の感覚もない。しかし何かが僕の頭や顔のあたりを流動していて、それが僕の存在を認識させている。
その流れは少しずつ範囲を広げている。僕の眼球らしき物が次第に象られて行くのがわかる。そして僕の視点はスイッチが入ったかのように急に景色が戻る。
光だ!
暗闇の中に一筋の光が天井から僕の目の前に注がれている。僕は視線をゆっくりと動かす。光は暗闇を引き裂いて遥か下を照らしている。
僕は海面と海底の半分くらいの場所に位置して浮かんでいた。
遥か下の光の先には僕のいた団地が揺らめいている。光は建物の手前で弱まり光は地面につく寸前で切れていた。
うっすらと僕の部屋が見える。僕は部屋をじっと見詰める。そこには僕がいて僕が暮らしていた。
僕は欠落感を感じる。あの場所は失われてしまうのだろうか?良い事なのか悪いことなのかわからないけど、何かが失われてしまう気がした。
「あの部屋が消えて無くなるというわけではないんですよ」
サラリーマンの声が直接頭に響く。しかし彼の姿はどこにも確認できない。僕の精神が聞いている。
「ただそこにあなたはもういてもいなくても良いんです。あの部屋はあなたの部屋で、無くなったりしません。出るも入るも自由なんです。入り口が一つならそれが出口にもなります」彼の言葉は深く僕に響く。
「本当か? 無くなったりしないのか?」
僕は心から叫び声を上げる。
「何も無くなりませんよ。心配しないで昇ってきてください」彼がそう言う。
揺らめく僕の部屋は開いていて僕を見つめている。悪い気はしない。あの場所も僕の一部だ。
「そうか何も無くならないのか」僕はそう呟いて天井を見上げた。
歌だ。歌が聞こえる。
アカリの歌がハッキリ聞こえる。
あの時の透き通るようなファルセットで歌っている。音がぼくを包み込み、僕を含んでいる全ての空間に歌声が響き渡る。
僕の精神がそれに呼応して感情が溢れる。
暗闇の中の光だ!
あの光が輝いて歌っている。
僕のシンプルな世界はその音でいっぱいになる。溢れた感情が暗闇の中で叫び声を上げる。
光に包まれたい。光に包まれて全てを受け入れるんだ。僕の精神は思いと同時に光の方向にゆっくりと移動を始める。
吸い寄せられているのか、進んでいるのかもわからない。少しずつ僕の中に光が入ってくる。
僕の世界は暗闇を失って、僕の精神は光に包まれる。暖かさを感じる。心が暖かい。流動的に流れる僕の全てが暖かい。
もう何もいらないそれだけで良い…それだけで。僕の心は上昇を始める。何もない。これが全てだ。
視界は光に包まれていく。眩しくもない。
光を見つめて天井を見上げている。僕はそのまま上昇する。さっきよりも早く。
光が段々と強まっていく。僕は天井に向かって上昇していき、やがて世界は真っ白になる。懐かしい感じだ。僕が求めていた感情だ。
僕は大声で叫ぶ。
「そうか…ここにあったのか」
僕の声は天井から響いて僕の体は太陽に到達した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?