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海の底と太陽の森 10.僕の街

僕はサラリーマンが去った後、少しずつ横に流れていた。

気持ちを行きたい方向に動かすと進んでいく。その行為は僕の意思で行なわれていて、何処まで行くのも自由だった。

僕は街の上空にいて、何を見る事もなく左右に揺れている。

今まで暗くて何も見えない森や、暗い海の中で僕は存在していた。ここは静かで明るい。

高揚感が僕の中を進んでいく。太陽の光が僕にぶつかり、街の中に何本もの線が入って行く。

僕は雲のように、光を透したり遮ったりして景色を操る。世界は美しく変化していく。

僕はこれほどの安らぎを味わった事があるだろうか?おそらく無い様に思える。

僕は自分が何者なのかをずっと探していたのかもしれない。自分が流れていくのに気付いてからその理由を探していたのかもしれない。

「ここはあなたの街です」サラリーマンの声が頭に響く。そう…ここは僕の街だ。

僕が自分を認識する為に必要としているあらゆるパーツ。その全てがここに集約されていて、その上で僕は今自由を手に入れた。

探さなくちゃならない。もうすぐそこだ。

 重力の無い街が僕を呼んでいる。そこに行く理由もある。

「ありがとう」

高揚感に包まれた僕はそう呟く。深い森にありがとう。暗い海にありがとう。サラリーマンにありがとう。

揺れる建物は僕を見ていない。そこに暮らしている人たちも同じだ。そこには日常あって、僕はその中から飛び出していた。

そして世界に迷い込んで、クルクル回って戻ってきたのだ。だから僕のことをもう誰知らない。

僕は精神を動かす。重力が僕の中から外に生まれる。心は街の方向にハンドルを向け、僕はアクセルをゆっくりと踏んでいく。街は入り口を大きく広げ、ゆっくりと僕を包み込んだ。
 
 地面に近づくにつれ、建物が段々とはっきりとしてくる。さっきまであやふやだった街は、その姿を完全なものに変えていく。

僕は音も無く街に降り立った。僕は周りをキョロキョロと見渡す。それは僕が思っていた風景とは違っていた。

子供達が遊ぶ公園。改装されていない学校の校舎。露店の集合したような商店街。これは僕が今暮らしている街ではない。

この街は僕が小さな自転車で走り回っていた。太陽が沈むまで遊んでいることが出来た。僕の子供の頃の風景だ。

僕は息をゆっくり吐きながらその風景を眺める。まるでここは時間が止まってしまっているみたいだ。

街はずっと同じ時を刻んでいて、僕だけが時間を過ごして帰ってきた。僕は大人の世界で自由を捨てて、子供の世界で自由を知る。

「ちょっとまってよー」

自転車に乗った子供達が僕の隣を通り過ぎていく。一人だけ遅れた少年が必死で自転車をこいでいる。

子供達はみな僕のほうを一瞬見てすぐに目をそらし過ぎ去った。僕はここに存在している。

僕は何度か瞬きをする。息を大きく吸ってゆっくり吐く。何故かとても気分が良かった。

子供の頃に大人の姿で戻って、そこを歩きたいとずっと思っていた。今目の前に広がる景色はその世界で、僕はそれを実行できる。

僕は流れるままに歩き出した。

 僕が今いる場所は小学校のグラウンド脇の道路だった。

駅のロータリーから真っ直ぐ進んだ所にあって、道路は小学校を囲むようにグルっと一周している。

その合間に信号がいくつもあって、それぞれを曲がると住宅街に続いていた。僕は視点を定めずに、せわしなく周りを見渡していた。

この道は懐かしい。道を通るのも久しぶりなのに、風景が子供の頃のままだ。現実的に懐かしいとでもいうのだろうか?

初めての気分だ。

団地の一階で、小さな子供をつれた母親達が話している。

僕はその隣を通り過ぎながら子供達を見る。母親に手を繋がれた子供達は僕のほうをじっと見つめていた。

子供達は不思議な顔でこちらを見ていたが、僕が笑いかけると無垢な笑顔を返してくれた。僕の街が変わることなく存在している。

青い空は僕を許してくれて、僕が変わるのを待ってくれている。

僕のこの安らぎは僕が変化を望まない限り永遠に続くように思えた。でも僕の知らない所で風は流れていて、瞬間的に視界を揺らす。

道の両端に建ち並ぶ木々。その道の中央に小さな少女が立っていた。僕は見た瞬間に彼女が誰なのかを理解する。

「Troubleは聞こえた?」

とても微かな声だったが、静かな世界にそれがよく響いた。とても小さなその手は、僕がずっと見えていなかった。小さな手だった。

アカリは僕に笑いかけた。

 僕は声を出せないまま、アカリの前に立っていた。アカリは小さな声でまた話し掛ける。

「どうしたの? 元気ないの?」

いつもと変わらない。普通の日常のように彼女は問い掛ける。僕はどう答えたら良いのか解らずに。彼女の顔をじっと見ていた。

「何か答えてよー」

そう言いながら彼女は僕に近づいてきて、下から覗き込むように僕を見た。

「うん。良く聞こえたよ」

僕は彼女の目を見ながらそう言う。

「本当に? 良かったー。私あの曲をわざわざ練習したのよ。私は言わないけど練習してたんだから。ちゃんと褒めてあげてね」

柔らかな笑顔でそう言う。心に染み込むような笑顔だ。

「わかった。きっとそうするよ」

僕も笑顔でそう言う。

「ねえ。散歩しましょうよ。今日はとても暖かいから気分が良いでしょ? 散歩しましょ」

彼女はそう言って小さな手を僕の手に当ててきた。彼女の手が僕の手に触れた瞬間に僕の目から無数の涙が零れ落ちた。

でも僕の表情は何も変わっていない穏やかな顔だった。ただ涙だけが零れ落ちていくのだ。

アカリはそれを見て口の端を少しだけ上げて、とてもやさしい笑みを浮かべていた。

「どうして涙がでる?」

僕はそう呟く。自分の涙がわからない。僕の感情は冷たく凍っている。それを彼女が少しずつ溶かしていく。

彼女の心が内側に流れ込んでくる。彼女は僕を必要としていてくれて、彼女は僕を愛してくれていた。

それが僕の中一杯に溢れ出して、僕は涙の理由を知る。表情が一気に崩れた。目を力いっぱい瞑って、鼻をすすった。

僕は怖くて仕方がなかった。嫌われるのも失うのも、怖くてたまらない。そして僕は全てを受け入れなくなった。

それを彼女は知っていて、それでも僕を愛してくれている。彼女は僕を微笑みながら見ている。僕は膝を付いてうなだれ、彼女の両肩に手を置いた。

「ごめん…こんなにも…こんなにも長く…」

僕の涙が地面を濡らす。

彼女は僕を引き寄せる。小さな体が僕の心臓に触れる。彼女の鼓動が聞こえる。僕の鼓動がそれに重なっていく。

「…いいよ」

彼女は優しい声でそう言って、僕の頭をそっと撫でた。涙は段々と弱まっていき、僕の中にアカリが根をおろしていく。

「ね、いきましょ」

そう言って彼女は僕を立ち上がらせた。彼女は手を繋いで僕を引っ張っていく。僕は微笑んで目を閉じた。僕達はゆっくりと歩き出す。

 アカリは僕の隣にいて、僕は腰くらいの高さの女の子と昔の街を歩いている。大切な人は見つけた。でも僕はここに止まっている。

僕は何故アカリがここに現われたのかを少し考えていた。繋いでいるその手には信じられないほどの温もりがある。

僕はとても弱い人間で、誰かがこうして僕の何かを補ってくれないと前に進む事が出来ないのかもしれない。

いや、前に進む事は出来るかもしれないが、進み続ける事が出来ないんじゃないかと思う。

次第に人の足音や、風の音。人の息づかいが聞こえるようになってきた。でも音楽は鳴っていない。

音楽は僕の頭の中になくて、消えてしまったかのように思えた。

「覚えてる景色が沢山ある。あそこで友達とサッカーをしてたんだ。日が暮れるまでずっと」

僕は小学校のグランドを指差してアカリにそう言う。

「…私もそうしたかったな」

アカリが小さく呟く。そして僕を見て言う。

「私はね、お母さんがとても周りを気にしているから、かわいくみんなに愛されてないといけなかったの。私は色んな人の家に連れて行かれて、色んな人にかわいがられたわ」

「僕も君がかわいいと思うよ」

僕は彼女の全体を捉えてそう言う。すらっと腰近くまで伸びたストレートの髪。小さな顔にバランスよく配置された目や鼻や口。

小さな体にピッタリ収まっている白いドレスのような服。決して派手ではなく完成された美しさが彼女にはある。

それは僕が知っているアカリにはない美しさだった。

「これは私じゃないのよ。私はもっとやんちゃで走り回りたくて、お母さんなんか気にしなくて、みんなと遊びたかったの。

でも私が何のトラブルも無く生きていくには、このお母さんの私に収まっていなくちゃいけなかったのよ。だからあんな風にずっと駆け回りたいと思ってたの」

彼女はグラウンドの子供達を見てそう言う。少し寂しそうな目をした。

「お母さんは私のことを何も見てはくれなかったわ。私のことなんてどうでもよくて、自分の子供が他人にどう思われて、自分がどう思われるかが重要だったのよ。

だから私は家に帰ると消えちゃったみたいに、居なくなったみたいに思えた。今でもたまにそういう気がする」

彼女の手から寂しさが伝わる。それは僕が感じていた、友達と別れてから家の天井を見て眠るまでの寂しさと同じだった。

「良くわかるよ」

僕は頭の中で昔の自分が見ていた視界を思い描いていた。その頃は深い事は何も考えようとしていなくて、ただ寂しさだけがそこに存在していた。

誰も僕を必要としていない。そう感じる事が、あの空間の全てだった。

「良くわかるよ」

僕は彼女の顔を見てもう一度そう言う。

「うん」

優しい目で僕のほうを見て彼女もそう言った。

僕たちは歩きながら話し続ける。僕は昔の事を人にあまり話さない。でも彼女にはありのままの体験を、風景にのせて話した。彼女も僕に合わせて昔の話をする。

手を繋いでいると、彼女の感情が良く伝わってきた。僕の感情も同じなんだろうと思う。あどけない彼女の表情は僕を柔らかな光で包んだ。

彼女を僕の優しさで包み込む事が、僕にとっての幸せではないだろうかと思う。

僕にとっての幸せ。彼女にとっての幸せ。それは良くわからない。掴み取れないものなんだけど、今こうして手を繋いで体温を感じているという事が、重要なのかもしれない。

海の底は僕の街で、そこに今こうしてアカリと手を繋いで歩いている。太陽は暖かい光で僕たちを照らしている。目の前の景色はちゃんと存在していて現実感がある。

いつのまにか海水の感覚も無い。僕は普通に呼吸をして普通に歩いている。普通に話をしている。

景色が進むにつれて、僕はあらゆる過去を思い返していく。子供の頃の狭いテリトリーは、僕に話し掛ける。僕は鳥を飼っていたのを思い出した。

鮮やかな緑のセキセインコで雛の状態で買って来た。飛べない状態から少しずつ育てて、かなり僕になついていたように思える。

今でも鳴き声は覚えているし、陽だまりの中、ベランダにインコと座りながら微笑んでいたのを覚えている。

でも僕は今知っている。インコが逃げ出してしまったのは当然の事なのだ。金網のかごの中に入れられて、インコは飛び立つ事が出来ない。

いつも必死で入り口を開けようとしていた。僕はそれが自由を求めている行為だとは知らなかった。

僕は彼と話す事が出来ない。彼が何をしようとしていたのかが解らなかった。ただかわいいとか愛着がある。無責任で傲慢な事だったように思える。

僕のインコは入り口をこじ開けて外に飛び立った。インコは自由を手に入れて、僕の世界から消えた。

僕は今自由に生きている、何処にでもいけるし、恋もセックスも出来る。あのインコは幸せになれただろうか?

僕は空を見上げる。そこは子供達が遊ぶ小さな公園で、二つ並んだブランコ、それに滑り台と砂場があった。そのブランコに二人で僕たちは座り、空を見上げていた。

「あなたのインコは自由を手にいれたわ。きっと幸せになれたわよ」アカリが空を見上げながら呟く。

「でも、外は危険がいっぱいで、すぐに食べられたり、えさが採れなくて死んでしまったかもしれない」

僕もそのままの空を見上げて答える。

「それはそれで彼の人生の一部なのよ。自由を手に入れたことが一番重要なの。だからその後苦しくても辛くても、きっと良かったと思える。少なくとも私は自由な方がいい。捉われているよりかわね」

続けて僕のほうを向いて彼女は話す。

「死んでしまう事は、息をするのと同じくらい当たり前の事なのよ」少し笑みを浮かべて彼女は言う。

「それはとても必然的な事だし、当たり前の事なのよ。生きているものはいつか死ぬ。ここの本当の景色を知れば良くわかるわよ」

「本当の景色? それはどういう意味?」

僕の疑問がまた一つ増える。

「ここからは目的のある散歩。私について来て」

そう言って彼女は僕の手を引っ張った。少し心配している感覚が、手からは伝わった。

 彼女の後姿を眺めながら、僕は母親の姿を思い出していた。前を歩く小さな女の子にだ。

僕は背の高い小さな子供で、彼女は背の低い大きな大人だった。僕が知らない事を教えてくれて、僕を案内してくれている、まるで母親のように。

彼女が歩いていく道のりには見覚えがあった。僕が知っている曲がり角で曲がり、僕が知っている建物の横を通った。

それは僕の学校の帰り道だった。

ランドセルの鍵を閉めずに、カタカタと音を立てて家に帰った。時に三人。時に二人。時に一人で。学校の帰り道は楽しかった。

自分が解放されたような気分になり、そのまま真っ直ぐ家に帰らない事が、僕の中の美徳だった。

僕の自由はこの帰り道にあったような気がする。僕は何処にでもいける。今何処にでも行ける。

大人になって、今何処にでもいけるようになった。でもあの時の自由は僕の隣にまだ座っているだろうか?

…わからない。捉われてはいないけど、僕はあの瞬間ほど自由なのだろうか?

アカリが僕のほうを一瞬振り向く。

「あなたは何処にでもいける」

アカリが満面の笑みで僕に向かってそう言う。

「何でそう思ってると思ったの?」

僕は質問をする。でも答えは知っている気がした。

「ここはあなたの街だから」

少し笑みを崩してアカリはそう答えた。

そう、ここは僕の街だ。

僕の自由だ。

僕は何処にでもいける。

 アカリは僕の前を相変わらずスタスタと歩いている。もう何処につくかはわかっていた。

僕の昔住んでいた団地だ。四階建ての集合住宅で、市が経営していていた。抽選にあたって入居した部屋で、僕が生まれる前から両親はそこに住んでいた。

僕の幼少時代はそこにある。今は別の誰かが住んでいて、別の誰かの人生になっている場所だ。僕はそこに何があるのかは知らないけど、アカリはその方向に向かって足を進めている。

「私はあなたの事が知りたいわ。でもあなたをもう傷付けたくないの」

アカリは歩きながら言う。僕の方は向かずに前を向いて。

「それはどういう意味?」

僕は後姿を見ながら聞く。

「あなたは何もかもを覆い隠してしまうの。覆い隠して見えなくなってから、平気な顔で言うの。大丈夫だよって。大丈夫じゃないのに、大丈夫だよって笑いながら言うの。

あなたは教えてくれなくて、私が笑うまで笑わそうとするでしょ? 私があなたの事を知ろうとしたら、あなたは私を傷付けると思っている。でも本当はあなたが傷ついていて、私はあなたを傷付けたくないの。そう言う意味」

「良くわからないな」

僕は答える。

「そう。あなたはわかっていないわ。とても簡単な事だけど、わかってない」

彼女は振り向かずに言う。

「僕は何もかも知らないと思う。君の事も、何一つ知らないような気がする。でもそこからどうすれば良いのか解らない。

答えが出るまでずっと悩んだけど、結局は君に触れて、何かに飲まれてしまう。それを僕は本能と呼んでいて、それが解らない。

でも僕は君を愛しているから、何かを伝えたいと思ってる。でも何を伝えたいのかがまだ解らない」

僕は頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。それが良いのか悪いのかわからない。僕は少し混乱する。

「大丈夫?」

それに気付いたのか、彼女は振り向いて僕に聞く。

「…大丈夫」

僕は少し笑顔を出して彼女に言った。彼女は立ち止まって僕の手を掴む。僕の心は少し落ち着いて、また何事も無いように世界が動き始める。僕は不安定な人間だ。そしてシンプルに出来ている。


両端に木々が並ぶ遊歩道は、建物と建物の間を縫うように通っていて、僕たちはその最後の道を歩いていた。僕たちは並んでいて、僕は子供のように穏やかな気持ちなっている。

「ここを右に曲がるの」

彼女が先の曲がり角を指差してそう言う。
「知ってる」

僕は彼女の目を見て答える。彼女は頬を上げて笑う。僕も少し笑った。そして曲がり角を一緒に曲がる。

 それまで穏やかで安定していた僕を、そこに映る景色が不安定に変えた。
太陽が包み込むさっきまでの暖かい空気は消え、僕が住んでいた団地の棟は明らかに下方に沈み込んでいた。

それは遥か数十メートル下の位置にある。そして地面があった場所に海水が静かに存在している。

僕の団地の周辺だけが海に沈んでいた。地面は家に向かう途中でスッパリと切れていて、先のコンクリートは遥か下に見えた。空だけが繋がっている。

海と僕がいる街は別の空間と言う気がした。空はグラデーションのように色が変わっていて青空から夕焼け色になり、僕の団地の上で暗くなっていた。

切り取られたように広がる海は僕が沈んできた海よりも重たい感じがした。海水がやけに透明で揺れ一つ無い。

暗い空が静かに僕たちを見つめている。

僕の部屋は太陽の光が微かに届くくらいの場所に位置していた。

空気が違う。

耳にまた音が響いてくる。しかしそれは聞き覚えの無い音で、太陽の鼓動とは違っていた。

太陽は町の空間で音もなく揺らめいている。僕の足の先から音が聞こえる。まるで海が鳴っているかのようだった。

海が聞こえる。

太陽の光は僕のつま先まで直進していて、海に沈みこみ揺らめいた。僕はアカリの手を強く握る。アカリの手から不安が伝わる。

僕はアカリの顔を見た。 アカリの顔はひどく沈んでいて笑顔が無かった。海の底を見つめ、下唇を噛んでいる。

「あなたも私もここにいる。だからこの先には二人ともいける。この海水は冷たくて体温を奪うけど、あなたは私を暖めて欲しい。私はあなたを暖めるから」

アカリはそう言って僕の顔を見る。

「僕はとても弱いけど、僕は君を暖めるよ」

僕は笑うことは出来なかったが、真剣な顔でそう言い、何度か頷いた。

「ありがとう」

彼女はそう言って掌を海水につけた。海水に触れた彼女の手は消えた。

薄くなったとか濁ったとか見えにくくなったとかではなくて、消えたのだ。

彼女の顔はいっそうこわばり唇を噛む。目を思いっきり瞑って少しうなだれた。

僕は彼女の手を強く握って彼女を落ち着かせようとする。でも彼女に全く変化は無くて、彼女は口を開く。

「とても冷たいわ」

そして彼女は海に飛び込んだ。

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