海の底と太陽の森 11.海の底
僕は目を開けると仰向けになって寝転がっていた。
何度か瞬きをする。僕の目に映る景色には二つのものが映っていた。僕が住んでいた団地と月の揺らめきだ。
また何度か瞬きをする。今いる場所には閉鎖感があって空間がやたらに狭い気がする。団地から数メートル離れた所に壁のような影があって、海面までずっと伸びていた。
暗くて材質も何もわからないが、黒い壁のような物が団地の周りを四角に囲っていた。
団地の入り口には明かりが点いていて、その光で僕は照らされていた。
僕が住んでいたのは四階の右側の部屋で、階段の電気はついているが他の部屋の電気は点いていなくて真っ暗だった。
僕の家の電気は点いていたが、カーテンは閉まっていて誰かがいるのかは解らなかった。
ただ繋いでいた手の温もりは消えてしまっていた。
僕の背中にコンクリートが当たっている。
僕は両手両足を広げて、その上に大の字になって寝転がっている。
消えてしまった手の温もりを欲するように、手を握ったり開いたりしていた。
その動作はしばらくの間続き、僕は妙な孤立感を感じていた。目に映る景色には何の変化も無い。
肌の感触で海水があることは解るのだが、目には全く映っていないまるで空気のように見えなかった。
僕はしばらくの間、放心するように海面を眺めていた。海面を見つめているうちに、ある事に気が付いた。
段々と海面の空が小さくなっていくのだ。太陽が昇るくらいのスピードで、ゆっくりではあるが確実に海面の闇が端から濃くなっていく。
僕はその様子を眺めながら安心感を抱いている。何故だか判らないが、とても安心していく。
闇が月に触れて、小さな月はすぐに飲み込まれ消えてしまう。月明かりだけに照らされていた小さな空間は、月が消えると同時にいっきに深い闇に染まった。
音もなく完全に空の無くなった狭い空間に、僕は仰向けで寝転がっている。少し頭を動かして僕の部屋のほうを見る。
電灯の明かりがさっきよりも暖かく目に映り、海水はさっきよりも冷たくなったように思える。
空間が大きな闇に閉ざされてしまってから、僕は少ない呼吸で入り口の電灯を眺めている。
コンクリートは僕の体温で少し暖かくなる。海水が僕とコンクリートの間に入り、その温度をまた元に戻していく。
僕は耳を澄まして周りの音を聴いている。リーリーリーっと名前もわからない虫が何匹か鳴いていた。静かな夜だ。
「僕は海の底にいて僕の天井を眺めている。でもそんなに悪い気はしないよ。母さん」
僕は独り言を呟く。僕は自分の奥底にいる。
自分の最も奥深くにいて、僕は確信に近づいてきている。ここは僕の海の底。誰のものでもない。もう階段を上がるしかない。
そこに答えは待っていて、僕は自分で決めて自分の足で階段を上がらなくちゃならない。
僕は立ち上がって入り口に向かって歩き出した。階段は僕を真っ直ぐに照らしていて混乱しなかった。もう分かれ道は無い。
ここまでずっと落ちてきた。落ちるだけ落ちた。後はもう、昇っていくしかない。
団地の電灯の明かりにぼんやりと照らされながら僕は僕の昔に包まれていく。不思議な圧力が僕の肌に触っている。
誰かの空気が僕の空気に混ざっていて、別の空間が流れている。いや…別の空間は僕自身だ。
僕が誰かの空間に入っていっている。その空間が僕に触っていた。瞬きが妙に遅い。瞬きはスローモーションの様にゆっくりなのだが、僕の動きはいつも通り普通に流れている。
体と心が少しずれてしまったような感覚。僕の目が閉じて次に開くまでに、階段を随分と飛ばす。更に体は僕の遅い視線からずれていく。僕はゆっくりと目を閉じて、ゆっくりと目を開いた。
そこは現実のアパートの、僕の部屋のドアがあった。
リーリーリーと虫が鳴いている。僕は普通に瞬きをしていて、海水の感覚も閉鎖間もなくなっていた。
僕は部屋の前で鍵をさしたまま立ち尽くしていた。僕は二、三回呼吸をしてから頭を少し上げて、ゆっくりと周りを見渡した。
そこは僕が出かけたそのままの景色だった。酸素や二酸化炭素は僕の周りに浮いていて、息を吸い込むと肺にそれが流れ込んだ。
僕は口を閉じて、目を細めた。
「現実? 現実にいる?」
僕はそう言って首を傾げ、鍵を回してドアノブを握った。
おかしい…ドアノブの感触じゃない!
肉厚が僕の手を圧縮する。体温が伝わって僕は反射的に顔を上げた。
目の前には子供の男の子が立っていて、僕は彼の左手を握って握手をしていた。彼は少し笑ってから、そのまま僕を引き入れた。
「あんまり大きな声は出さないでね。まだ彼女は眠ってるから」
男の子はそう言って僕を見上げている。
部屋の中は廊下が2メートル半くらい続いていて、床は灰色のカーペットが敷いてあった。
廊下の明かりは点いていなくて奥の部屋がぼんやりと明るく見える。
僕は少し呼吸を整える。
ここが何処の次元かわからない。海水がない、でも現実でもない。吸い込んだ物は空気で、あたりまえのように酸素が肺に流れ込んだ。
部屋の中は明らかに僕の現実の部屋じゃない。廊下の長さや部屋の感覚は似ている、でも明らかに僕の部屋ではない。
何と言うか、匂いが違う。色が違う…見た目はすごく似ているけど、古ぼけた感じがする。
「君がここに入るのは、実は初めてなんだよね」
少し笑いながら男の子が言う。
「不思議だよね。本当に不思議だよ。初めてだなんてね」
さっきよりも少しトーンを落として彼は言う。
「自己紹介がまだのような気がするけど」
僕はそう言う。しかし彼に見覚えはとてもある。でも、そんなことはおかしな事だから、普通に話し掛けた。
「自己紹介? それは冗談のつもり? あまり笑えないけど」
彼はそう言うと、少し軽蔑したような目で僕を見る。
僕は黙って正面を見る。嘘だ。そんな事はありえない。
だって僕は今ここにいるし…おかしいじゃないか。よく見ればすぐにわかったよ。でも…でも、おかしいじゃないか。
この男の子は僕だ。
月明かりが窓から差し込んで、部屋の半分の空間をぼんやり照らしている。
ベッドではなくて、地面に布団が敷いてある。押入れのふすまが少し開いていて、そこにも眠れるように布団が敷いてあった。
押入れの布団の中には女の子が眠っていて、それは子供の姿をしたアカリだった。僕はとても安心した気分になって思わず口が微笑んだ。
歌を歌いたい気分だった。頭の中に音楽が少し蘇る。消えてしまっていた音楽は、僕の心の奥底で少しだけ音を鳴らす。
部屋の端、押入れの丁度反対側に机が置いてある。
懐かしい机だ。子供には大きな机で、父親が昔使っていた机を、そのまま僕の部屋に運んだものだった。机の上にはプラモデルがポーズを決めていて、そこに1シーンを再現していた。
夏の工作の宿題で作った粘土の貯金箱や、当時のアニメのシールが机の上に並べられていた。
机の横のフックにランドセルが掛けてあり、その中に教科書はすべてしまい込んである。
「自己紹介をしたほうがいいのかな?」
小さな僕が僕に向かってそう言う。
「いや…もういいよ。必要ない」
大きな僕は小さな声でそう言って机の上に手を置いた。
何と言えば良いのだろうか…懐かしいと一言で終わらせたくない感情が僕の中にこみ上げる。
僕の目は焦点が合うか合わないか位の所で止まっていて、僕の目の裏側には少年の頃の記憶がホームビデオ見たいに流れていた。
自分の子供の姿をした男の子と僕は話をしている。僕を海の底で引っ張っていたのは彼のように思える。
「アカリがここにいてよかったよ。もうどうしようかと思っていたからね」
僕はそう言って机の椅子を彼のほうに向け座った。
「すごいよね。森も太陽も海水も、全部飛び越えてここで眠ってる。こんな海の底まで飛び込んでくれる」
子供の僕はそう言う。話し方はまるで大人だった。まるで彼は十年来の親友のように話す。
「さっきアカリと街を歩いてたんだ。すごく幸せだったよ」
「知ってるよ。君と僕は一つだから。君が心の奥底で感じていることは、僕が感じている事だよ。僕は君のもっとも奥底の感情だから。精神のね」
「何の話し? 良くわからないけど…」
僕はそう言ってアカリを見る。
「君が誰にも見せようとしない。でも誰かに見ていてもらいたい純粋な心だよ。自分で言って恥ずかしいけどね」
彼はそう言って少し笑う。
「君は姿は子供だけど子供には見えないよ」
僕は少し皮肉った笑顔で言う。
「子供だよ。遊んでほしい。抱きしめて欲しい。誰かに必要とされたい。誉めてほしい。泣き叫びたい。君が何か理由をつけて出来ない事を、僕は君の奥底でいつもしてる。
でもそんなことはないって、君は嘘をついてる。君がここに来るのをずっと待ってた。僕は今とても嬉しいんだよ」
少し感情的に早い口調で彼は言葉を切る。
「僕は子供の頃の自分なんてとっくにいなくなっていると思ってたよ。いつのまにか大人になったと思ってた」
僕はそう言う。
「君は大人になってしまった。恋愛や人間関係で傷つくたびに僕を心の奥底に仕舞い込んでね。誰にも見えなくなるくらい…知らない存在になっていた。僕は消えてしまう寸前だったんだよ」
彼はそう言う。
「それで僕をここによんだの?」
「そんな事は出来ないよ。そんな事が出来るならもっと早くにやってる。君がここに来れたのは事故みたいなものだよ。偶然に良太君がこっちに来るのを見かけてついてきただけだよ」
彼はそう言って僕の方を見る。
「そう…良太君を追って僕はここに来た。彼はいったいどこに行ってしまったのかな?」
「さあ…海のどこかにいるはずだよ。もう帰っているかもしれない。良太君は事故に遭ってから自分の中に世界を創っていたから、彼の場所があるはずだよ」
「どうして沈み込む良太君が見えたの?」
「それは解らないよ。僕と同じような位置にいたんじゃないのかな? たぶん君と話している間、良太君が僕に同調していたんじゃない? 僕も良く解らない。君は死んでいないしね」
彼はそう言う。アカリも何か死について話をしていた。
「死んでいたなら? 問題が無い?」
僕が聞く。
「ないね。死ねば全てが見えるから。沈みゆく良太君も、海も問題なく認識できる。でも君は死んでいない」
彼がすぐに答える。僕は少し混乱してきた。わけがわからない。そのまま彼が話を進める。
「肉体はね、精神と本能が動かしている乗り物みたいなものなんだよ。そして僕らはほとんど何も動かせてやしない。それが人間って言う生き物だよ。そして君は肉体から離れてる。死んでもいないのに」
彼はそう言う。
「僕が肉体から離れてここにいるのは解るような気がする。…でもどうして離れた場所に君がいるんだ?僕達は同じ精神じゃないのか?」
僕はまた質問をする。
「うん…間違いじゃないよ。だから君が僕の部屋に来るなんて事は考えられない。君は自分の精神を二つに分けたんだ。
その一つを自分の街に閉じ込めた。僕は肉体と繋がっていなくて、広大な海のほんの一握りの空間で生き続けてきた。
僕は君が昔に切り離した精神だよ。違う個体として存在してる。君とは同じだったけど、今は違う」
彼が答える。
「切り離した? いつ?」
僕が聞く。
「母親を…君が必要としなくなった時さ」
彼が答える。
「そうなの?」
僕は少し驚いて聞く。僕は母親を必要としていない?それはわからない…そういう気もする。そうじゃない気もする。
「僕には必要だけど、君は必要としていないだろう? いなくても生きていけるだろ? そう言うことだよ」
彼が答える。
「それが大人になるって事なのか?」
僕がまた聞く。
「…たぶんね」
彼は答える。それは今まであやふやな線だと思っていた。いつの間にか大人になっている。その様にあやふやな事だと思っていた。
「それは知らなかったな…知らなかった…」
僕はそう呟く。でも確かにそう思える。あの時は必要だった。常に欲していた。僕の傍にいて欲しかった。でも今は…今はそう思わない。
「アカリはそれを知っているのかな? 僕の世界にアカリがいる。母親のように…」
「彼女は僕が見えてる。切り離された僕を認識してる。君が傷つかないように僕の部屋のドアに何十にも鍵を掛けたっていうのに、彼女は押入れで眠ってる。でもそれがどうしてかはわからない。理由はあるんだろうけど…」
彼はそう言ってアカリを見る。僕もその目線を追ってアカリに目をやる。アカリが子供で、子供の自分が目の前にいる。
僕だけが大人として立っている。
「アカリがいる理由か…」
僕はまた呟く。そして沈黙が少し続く。
「でもなぜ君は死後の世界を知っているのかな?」
僕が質問を変えて聞く。
「そりゃそうだよ。それは当たり前の事なんだ」
子供の僕はハッキリした口調でそう言う。僕は首を少し斜めに倒して彼のほうを見る。
「こちら側の話だよ。みんなは精神の海は同じだって事さ。君は体験していないから解らないだけだよ。死んだ人はこっちじゃ解り易いからね。見れば解るし、死後の世界はここそのものだから」
「そうなのか? でも僕は死んでいないんだろ? 君もそうだろ?」
僕はまた混乱してそう聞く。
「君は死に執着し過ぎてる。窓を開けてみなよ。見れば解るよ」
子供の僕は、そう言って窓の方を見る。僕はため息をつく。そしてゆっくりと窓の方に向かう窓はスライド式で曇りガラスだった。
僕の腰から手を上に伸ばしたくらいの高さまである。二枚とも両端まで閉まっていて、ホック式の鍵がかけてあった。僕は鍵に手を触れた。
「冷たいな」
指先に冬の寒さが一瞬宿り、外の温度が僕に触れた。僕は鍵をはずして、窓をゆっくりとスライドさせた。
窓から僕の目に飛び込んできたのは、光だった。
僕の視点の斜め四十五度位の所から、光がきらきらと輝いている。僕はその眩しさに目を細めて、手を光の方向にかざす。
すると黄色い光が僕の手を包み込んで、僕の手は透明になっていく。
僕は自分の体の全てが光に包まれるような感覚を受け、大きく息を吸う。しばらく何も考えずに、少し口を開けたまま、ぼんやりと光を見つめている。
光は僕の視界を全てイエローに変える。僕は眩い世界で目をゆっくりと瞑った。
「やっぱり綺麗だな」
小さな声で小さな僕は言う。
「なんだろう? 少し寂しい」
僕はそう言う。そう感じた。光に包まれている間、様々なことが僕の感覚を刺激していた。
それは体温と感情だ。光の温度はその輝きとは反して冷たかったのだ。でもその圧力は僕の感情に喜びや悲しみ、あるいは開放感のような感覚を押し当てた。
「僕たちは精神だから、人間の死が見えるのさ。他の生物を見ても一固体にしか見えないけどね。ここは人間の空間だから、固体として他人の精神を認識できるんだよ」
小さな僕はそう言う。僕は目を細める。ようやく眩い光に目がなれて来た。窓の外から溢れていた光は、段々と輪郭を帯びてくる。長い髪。
透き通るような細身のライン。輪郭はまばゆい光を失いはしなかったが、僕の目はその全容を捕らえていた。
光を放っていたのは女性だった。窓の淵に足が触れていて、外の空気にもたれかかるようにして浮かんでいる。
僕は目を大きく開いて彼女を見ている。眩しさは消えていた。口や目が見えないので、そう感じたとしか言えないが、彼女が笑ったような気がした。
「いってらっしゃい」
小さな僕がいつの間にか僕の隣に来ていて、彼女にそう言う。すると光が少し弱まって、眩くて見えなかった顔の表情が少し見えた。
しわ一つない真っ白でふっくらとした素肌。顔立ちは柔らかく優しそうに見えた。輝くその体に、その表情は女神のように見える。
見とれるほど美しかった。窓から離れて、女性は昇っていく。彼女の光が薄れていき、窓の外の景色が浮き上がってくる。
「なんだろうな…この感じは…」
僕はそう呟く。窓の外には限りなく透明な真実があった。
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