海の底と太陽の森 13.上昇する空間
目まぐるしく変わる景色の中で、僕は寝そべっている。
僕は小さな空間に男と二人で存在していて、彼は右に立ち、僕は左に倒れこんでいる。世界がクルクルと回っている。
スロットマシーンのリールのように。ただわかることが一つ、空間が上昇している。
昇っていく僕達の空間。右にいる彼と僕には明らかな違いがあって、僕は寝転がっていてもそれがハッキリわかった。
彼はずぶぬれで立っていて、僕は海の中で寝そべっている。
滴り落ちるしずくと、肌に張り付いたワイシャツ。彼はそれをハンカチで拭っては絞ってを、何度か繰り返していた。
絞られた雫は床に落ちると、自然に僕の方向に近づいてくる。そして空間の丁度真ん中で僕側の空間に吸い込まれた。
空気の泡が僕の目の前を横切る。その泡も空間の外にすぐに消えてしまった。
僕は寝そべりながら外側に目線を向ける。やはり僕の空間は上昇している。しかもすでにかなり上昇した後のようだった。
僕は何か四角い透明な箱に存在している。僕側の空間の広さがだいたい二畳半くらいで、天井は立って手を伸ばしても20センチ届かない位の高さにあった。
僕は周りを見渡してから外に目を向ける。
左側の僕の世界
見たことのない光景だった。まあ沈み込んでからずっとそうなんだが、光景と言うよりは世界と言った方がいいのだろうか。
まず目に入るのは太陽だった。太陽は僕が見てきた今までのものとは明らかに違う。太陽はとても大きく世界の半分以上を占めている。
そして窓の外で見た光の球体の様に、細かい小さな光の触手が無数に蠢いている。
そして太陽の周りを螺旋状にぐるぐると何か帯状の物が巻きついていた。球体に蛇が巻き付いている様にも見える。
巻きついている帯も大きく、僕が余裕で含まれる大きさだ。大きな川の様にも見える。
巻きついていると言ってもぴったり張り付いている感じはなくて、取り囲んでいるようにも見える。
土星の輪のようにそれは存在していた。僕がいる空間は螺旋状の帯の全体が確認できるくらいの位置にあって、横の距離的には離れている感じがした。
ただ縦の距離で言うと、丁度太陽が下に来るあたりの位置にあった。
よく見るとその螺旋状の帯は立体的に存在している。
その中にも空間があって何かがキラキラ光りながら動いたり消えたりしていた。それもかなりの数だ。
太陽に反射しているようにも見える。それは下から上に流れていて、とても美しかった。
流れる水槽を泳ぐ熱帯魚の様に輝き、消えたり光ったり動いたりしていた。その動きも不規則で見ていて飽きない。
僕との距離が離れているからこのように小さく見えるのだが、実際の大きさは僕にはわからない。
僕は自分の感覚に自信が無い。どこか遠くから僕を操作しているような感覚になっている。
自分がそこにはいないような感覚。現実でも唐突に感じることがある。しかしその時よりも今は明白で、自分はここには居ないと、殆どの感覚がそう言うのだ。
僕は今とても軽いとか、薄いとか、そう言う感じがする。ただ手も足も、瞬きも呼吸も、そこに存在している。
「…ムータ」
男が僕に話し掛ける。僕は驚いて彼の方向を見る。立っているのはサラリーマン姿の少年だった。
さっきまで大人の背丈だったのに、そこに立っているのは明らかに少年だった。相変わらず彼側の世界はクルクルと回っている。
「いったいどこに行ってたんだい? 結構探し回ったんだよ」
うつ伏せのまま彼の方向を向いて話し掛ける。
「お母さんとお父さんに会いに行ってた。ありがとうね。探しに来てくれて」彼は無邪気に笑いながらそう言う。
「途中からは引っ張られてばかりだったけどね。まあ会えて良かったよ」僕はため息混じりにそう言う。
「怒ってる?」彼は僕の社会性に問い掛ける。
「怒ってないよ。少し疲れただけ。怒ってない」僕は起き上がってそう言う。
別に社会性も道徳も正義感もどうでも良かった。そんなものは今存在していない。僕の中にあるのは幸福感だ。今上昇していく僕の心は幸せを感じている。
「そっちの景色を見ていると、何か酔いそうだな」僕は彼側の空間を見てそう言う。
「そう? そうかもね? もう慣れちゃった」彼も僕と同じ方向を見てそう答える。
右側の彼の世界
右側はとにかく目まぐるしく景色が変わっていた。景色がくるくると回転している。
空間の外は巨大なスクリーンのように映像を表示していて、それは立体的に見える。
上から下まで湾曲した液晶画面が、何枚も貼り付けてあるという感じだった。そしてその画面は縦にくるくると回転している。
球体の内側から表面を見ている。そしてその表面に映像が映し出されている。それが縦方向に回転して動いている。そう言う感じだ。
そしてその映像には様々な情報が映し出されていた。映り変わりが早く、
よく見ていないと何なのかわからない。それはホームビデオに見えたり、ニュース番組や戦争ドキュメンタリーのようにも見えた。何なのか本当にわからない映像が流れることもある。
じっとこちらを見つめている女の人や、傘をさして海の上に浮かんでいる紳士。動く抽象画の映像。
そういった良くわからない映像には、美しさのようなものがあった。単純に綺麗な景色も映る。夕日か朝日かわからないが水平線に浮かぶ赤い太陽。雲の上に浮かぶ山並み。
躍動しながら落ちる滝。せせらぎ透き通った川。そして緑溢れる森。とにかく多種多様な映像が目まぐるしく変化している。
時に全体に、時には沢山の画像が区切れ区切れに。そしてそれが回転しているのだから、気持ち悪くてしかたがない。
しかし映像群には圧倒的な圧力がある。気持ち悪いと感じるのは、僕がこちら側の空間から見ているからかもしれない。
圧倒的な情報も海水越しから見るとぼやけてしまう。そう言う事なのかもしれない。
「僕達は時間を上昇しているんだよ。映像が切り替わっていく速度が、上昇している速度だよ」良太君は右側の世界を見つめたままそう言う。
「精神の世界に時間の概念があるのかい? ここにはそんなものは存在していないのかと思っていた」僕の良太君の方向を見てそう言う。
「次元が違うんだよ。僕達が暮らしている時間と、ここの時間は見え方が全然違っていてね。存在自体が違うんだよ」
良太君は何か大人っぽい話し方をしている。それは子供の僕の話し方とまるで同じだった。
僕は首を反対側に曲げて、左側の世界に視線を移す。太陽を取り巻く螺旋状の帯は、見つめれば見つめるほど僕に近づいてくるようだった。
キラキラと光る粒子には見覚えがある。それが少しずつ上昇していくのが見える。
見つめれば見つめるほど、僕の目は透き通っていく。曇っていたガラスが風に吹かれて透明感を取り戻すように。
「…光が昇っていく…小さな光が」僕は彼に呟く。
「そう、僕らが生きていくということは、昇っていくということさ。あの大きな渦のほんの一つの空間でね」良太君も僕側の世界をのぞきながらそう言う。
「そして消えていくのか」僕はまた呟く。頭の中が少しずつ整理されて埋まっていく。全てが埋まってしまわないうちに、僕の世界に変化がおきる。
天井から少しずつ、音も立てずに水が下がってくる。僕の空間と彼の空間を区切っていた水が天井から少しずつなくなっていく。
やがて僕の頭に到達して耳元まで降りてくる。そして僕の耳を通過する瞬間に音が抜ける。
そして海水は僕の魂から抜けて、その空間から完全に姿を消した。下に落ちるわけでもなく、消えていった。口を開けて天井を見ている僕には、まだ海水がまとわりついている。
「ずぶ濡れだな」僕はそう言って少し笑った。
僕の服からは雫が滴り落ち、右側の彼と同じ様な格好をした。濡れていると何故か重力が強く感じられる。
海水がないという事は、いったいどういう事なのだろうか? 僕は良太君を見る。
「ん?」僕は目を細める。
今一瞬、良太君がダブって見えたような気がした。映画のフィルムに一枚違う映画のフィルムをはさんで流したように、良太君と重なってあのサラリーマンが映ったように思えた。
「ん?」
良太君は首を横に少し傾けて目を少し開き、僕を見る。僕が目を細めているのを見ると、少し頬を上げて笑みを浮かべた。
僕はさらに目を細めて彼を凝視する。やはりそうだ。今度はうっすらと半透明な笑みを浮かべ、首を傾けているサラリーマンがうっすら見える。そしてその彼と目が合う。
「おわかりになりましたかな?」良太君の声で彼はそう言う。
僕は彼の言葉と同時にまぶたを開く。フッと半透明なサラリーマンは消えて良太君だけが水晶体に残る。僕は小さく笑いながら息を吐く。
「わかるかよ」聞こえるくらいの小さな声で彼にそう言う。
「見ているだけじゃわからないことは沢山あるからね。どんなにテレビを凝視したって、映っている場所の匂いや空気はわからないから」
彼は傾けていた首を戻してそう言う。喋り方は良太君に戻っていた。
「君と僕は、今同じ空間にいて、同じ空気を吸っているんじゃないのかな?」僕は彼に問い掛ける。
「海水がなくなったら同じ空間になるの? さっきまで違う空間だったのに? そんな事はないよ。区切りがなくなったからって、君と僕が同じ場所に立っていると言うわけではないんだよ」
少しの笑みが消え、成熟した大人の様に、丁寧な話し方で彼はそう言う。そう言われても海水が無くなってしまうと、僕と彼の間には何一つ隔たりはない。
天井を見上げても空間のような切れ目がない。僕と彼の世界は見た目は完全に融合しているように見える。ただ映る風景だけが異様に違う世界だった。
「ここは本当に中間でね。線を引こうと思えば引けるんだけど、今の君にも僕にも、そんな事はもう必要ないんだよ。だから海水がなくなる。もう必要がないから」
そう言って彼は僕のほうに、左手を肩と平行に挙げた。彼の左手は真ん中の空間を抜けて、僕の目の前に差し出される。そしてその手は情報を語る。
彼の手は大人の手だった。
しわの少ない子供のやわらかい手ではなく、成熟した大人の手だった。手に小さな傷やあざがあり、つめは縦に線が入っていて、肉が少し食い込んでいる。
小さな手首から湾曲して伸び、年月を過ごした指先が左側の空間に浮かんでいる。僕はその手をしばらく眺める。
そして見た事のない景色を見るような視線で、彼を見る。本当に不思議な気分だ。何の変化も見て取れない空間を越えると、彼の手が老いる。ただ手だけが時間を語っている。
僕の呼吸はテンポを変えないが、空間は上昇を続けていく。僕は一度目を閉じて少し考える。
多分十秒くらいの時間だったけど、とても長く目を瞑ったような気がした。目を瞑っている間、僕の中の時間が上昇する。また僕の中の情報が整頓を始める。
「早く手を取ってくれないかな? 腕が疲れちゃうよ」
彼は僕に笑ってそう言う。僕は目を開けて、彼を見る。そして状況を確認する。
彼の老いた手は手の甲を裏返し、掌を横に向けて僕のほうに差し出されている。
とても意味のあるシンプルな行動に思えた。彼は握手を求めている様に見える。僕はまた自分で決めなくちゃならない。
言い訳の出来ない行動を、彼は僕に提示した。僕は彼の手に右手を差し出して、彼の右手を掴んだ。
彼の手から温度が伝わる。僕が到底かなわないような暖かさを持った手の温もりは、悲しいのとは少し違う切なさを僕の心に焼き付けた。
僕はそのまま膝を床につけて、頭をうなだれた。
「あー…あー…」感情が声になって表れる。膨大な情報を一変に受け取ってしまった僕は放心してしまう。
一度目の声の後に唾を飲み込み、息をゆっくり吸って二度目の声が同じトーンで響いた。
何も知らない僕達二人は、二人してうなだれている。もう一人の僕はいろんな事を理解したみたいで、奥底で小さく頷いている。
その行動はまだ何も解らない僕を飛び越えて、表面に現れる。僕は膝をついたまま、切なさを含む不思議な笑みで何度か頷いた。
そして僕等は行動を決めて立ち上がり、足を一歩前に踏み出した。
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