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はっちゃんママは私の目標。これからもずっとね。

焼き鳥屋「はっちゃん」は、小さな繁華街の端っこにある。

繁華街といっても、無人駅から伸びる小さな通りに飲み屋やスナックが数件立ち並ぶだけの一角だ。お客のほとんどが小さな港町の住人で、時たま旅行者やお遍路さんなんかの一見さんがふらっと歩く姿が見られる。

その外れにある「はっちゃん」は創業してから30年以上。木造二階建ての住宅兼店舗には「やきとり・お茶づけ はっちゃん」と書かれた年季の入った看板がかかっている。「お客が来たら開店」「お客が帰ったら閉店」のアバウトな営業時間で、入り口に小さな暖簾がかかったら開店の合図だ。

店内は6,7人が座れるカウンターと小さな小上がりだけ。ホワイトボードに手書きされたメニューは、常連さん曰く20年来書き直されていないのだとか。

カウンター奥には、神の河、黒霧島、角のボトルが並び、その一つひとつにマジックで手書きされた名札がかかっている。

ビールは中瓶のみ。駆けつけ一本やったあとは、各々キープしてあるボトルで、水割りや茶割り、ハイボールと続ける。

場末感が漂う、実に昭和なお店だ。

移住してきた当初、そのあまりの年季の入り具合とローカル感に、私はその暖簾を一人でくぐることができなかった。だから酒飲み仲間になった地元の漁師さんに「はっちゃんに行こう」と誘われたときのワクワクは、いまでも鮮明に覚えている。

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「はっちゃん」を切り盛りするのは、店名と同じ、はっちゃんという名の御齢85歳のおばあちゃんだ。

町で商売をはじめて70年近く。「はっちゃん」開店後は、たった一人で商いを続けてきた。

じいさんの代から、父親、自分、そして息子や孫まで、はっちゃんの世話になっている常連さんも多い。

はっちゃんを初めて見た時、その当時すでに80歳は越えていたが、「可愛らしい」という形容詞が一番似合うと思った。それは時間が経っても変わることはなかった。

「日和佐の八千草薫」なんてあだ名をつける人もいたくらいだ。

それくらいはっちゃんは可愛くて綺麗だった。シワくちゃな顔に黒目がちの目がキラキラしていて、おばあさんとは思えない豊かな髪をいつもしっかりセットしていた。

「いらっしゃい。」

個人的に思うのは、はっちゃんは声がとてもいいんだ。実に可愛らしい。文章にすると伝わらないから歯がゆいけど。その柔らかくて、加齢からか少し揺れていて、でも程よく力強いはっちゃんの声が私は大好きだった。

可愛い声で、はっちゃんはよく冗談を言った。85歳とは思えないちょっとエッチなジョークも交えて、いつもお客を笑かしていた。

「酔いつぶれてもかまんけんなー。介抱したるけん♡」
「私、“ 今日は ” ショジョじょー♡」

おばあさんが発する、何とも“ 現役 ”のようなセリフが面白くて、私は一気にはっちゃんが好きになった。

「酒と女は2号まで!」

はっちゃんの名言の中で一番好きな言葉だ。

血気盛んな海の男たちを長年相手にしてきたはっちゃん。色恋沙汰や人情劇には途方もない経験値があるのだろう。お客の公にできる話もできない話も、親身になって聞いてくれる懐の深い人だった。

はっちゃんは女将というよりママと呼ぶ方が近い気がする。

所作は美しく、ちょっと儚げて、妖艶で、たまに肝っ玉母ちゃんみたいなことも言う。強い女なのは間違いないけれど、口に手を当ててオホホホと上品に笑う姿は良家のお嬢さんのようだった。

そして、少女のような可愛らしさと合わせて、同時に半端ない安心感を持った人でもあった。

それは、何十年も一人で商売をしてきたことや、若い頃は散々苦労したこと、気に入らない客にはビシッともの言う姿勢とか、数年前になくした旦那さんと最期までラブラブだったことなど、はっちゃんの80年を超える経験値が、可憐さと安心感を混ぜ込んだ独特の雰囲気を纏わせていた。

こんなふうに歳をとれたいいな。
常々、私はそう思っていた。

はっちゃんに集まる人たちは、酒を飲みにきたのでも、焼き鳥を食べにきたのでもなく、はっちゃんに会いにきていたのだと思う。

煙の奥で焼き鳥を焼くはっちゃん。ネギマにはネギではなく玉ねぎを挟むはっちゃん。業務用スーパーの冷凍つくねを絶妙の焼き加減で出してくれるはっちゃん。

その姿をみながら、ちびちび酒を飲んで、仕事や家族の愚痴や近況を話して、町の噂話をして、はっちゃんとケラケラして、ほろ酔いで帰る。

それが楽しかったんだろうな。
私もみんなも。

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はっちゃんが亡くなったのは、秋祭りが終わった次の月曜日だった。

私がそのことを知ったのはその週の金曜日。私をはっちゃんへ誘ってくれた漁師さんが、苦しげな声で電話をしてきた。

「はっちゃんおかあさんな、亡くなったわ。」

昨年末に癌の手術をしてから体調がすぐれないのは知っていた。コロナの影響もあって、お店は開けたり開けなかったりが続いていた。

8月の終わりのはっちゃんの誕生日に、常連さんたちとお店でささやかなお祝いをした時、はっちゃんは立ってるのもしんどそうだったけれど、私たちのために焼き鳥を焼き、ビールを出してくれた。

「店に立ってる方がな、元気になるんよ。」

「死ぬまで店をやりたい」と言っていたはっちゃんの、その日が最後の営業日となった。

はっちゃんが大病を患ってから、近い将来、店がなくなること(つまりはっちゃんがいなくなること)を、みんなも私もなんとなく覚悟はしていた。

でも、なんとなく、なんとなくだけど、はっちゃんは病気なんかケロっと治して、しれっとまた店をあけて、「いらっしゃい。」って可愛い声で迎えてくれるもんだとどこかで思っていた。

亡くなる1週間くらい前、「はっちゃんの様子を見に行こう」と誘われたときも、「また次でいいや」と仕事を理由に断ってしまった。

だってはっちゃんの安心感は私の中で絶対的だったから。
絶対なんてこと、当たり前なんてこと、ないのにね。

漁師さんからはっちゃんの訃報を聞いた時、なんだか遠い国の誰かの話を聞いてるような、他人事のような気持ちしか持てなかった。はっちゃんがもういないということが、どういうことかよくわからなかったのだ。

そのことを現実として受け止められたのは、電話があった次の日、漁師さんたちとバーベキューをした時だ。

テーブルには飲みかけの「神の河」のボトルが何本も並べられていた。その一つひとつに見慣れた筆跡の名札がかかっていた。

「今日は、はっちゃんの葬いや。」

私たちは昼から焼酎の茶割りをしこたまやった。店から持ってきた焼酎をコップに注ぐたびに、はっちゃんの思い出がすっと浮かんできて、それはそのまま酒の肴になった。

「若い男性客には優しかったな。いうても50代とかやけど。」
「最後までいろんな意味で現役やったな。」
「昔はごっついべっぴんさんやったんやで。」
「玉ねぎのネギマ、おもろかったなぁ。」

思い出話にケラケラしながら、私はウォンウォン泣いた。たくさん笑って、たくさん泣いた。そうやってやっと、はっちゃんの死は私の中でリアルになった。

何本もあったボトルは、ちょっと信じられないペースで空になっていった。みんなも私もようけ飲んだ。

酔い冷ましに海を眺めていると、秋の空がとても綺麗に感じた。すかっとした青空に丸くぽこぽこしたうろこ雲が広がっていた。可愛らしい空だった。はっちゃんみたいやなーと思った。

悲しむことは大切だ。

大好きだった人の思い出話は切ないし悲しいけど、自分の中にある気持ちに存分に向き合うことで、昇華されることもある。

そんな時間を、みんながくれた。
「はっちゃん」の常連だった人たちだ。

これもはっちゃんだからなせる技なのかもしれない。しみったれたことが嫌いな人だ。彼女を語るときは、明るく楽しく酒を飲んでなくちゃいけない気がする。

「いなくなった後も思い出話に登場できる人になりたいね。」

常連さんの一人が言った。

うん、私もそう思う。
こんなふうに思い出される人になりたい。
これからもずっと、はっちゃんは私の目標だ。





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