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【長編小説】暮れなずむ秋と孤独な狛犬の歌 #10

10月3日――(6)

「――……と、まあ。こういう感じの曲だ。アキ、どうだった? ……アキ?」
「……えっ?」
 少女に呼びかけられて初めて、歌が終わっていることに気がついた。「余韻に浸る」という言葉の通り、どうやら僕は、少女の歌声によって表現された世界に浸りきっていたようだ。
「もう! 聴いてくれていなかったのか?」
 未だ呆然とする僕に、少女は腕を組んでそう言った。
「違うちがう。聴いてたよ、ちゃんと」
 首を横に振り、少女の言葉を否定する。それと同時に、意識を現実へと引き戻す。
「聴いてたんだけど、お前の歌がすごく上手で。うん、こういうのを聴き入ってたって言うんだろうな」
「お、おおお!」
 僕の拙い感想に、少女は全身を震わせて喜びを表現する。
「そうであろう、そうであろう! ワタシは、歌には多少の自信があるのだっ!」
「多少どころの話じゃないだろ。お前、歌とか習ってるのか?」
「ふふふ、歌はオペラ歌手であるお父さん直々に――じゃなかった、ええと、うん。狛犬の嗜みだからな、歌は」
「ふうん」
「さ、さあ、次の曲に行こうじゃないか」
 誤魔化しかたが段々と雑になってきたような気がするが、言及はすまい。
 そうして、その後。
 少女は続けざまに、残る四曲を見事に歌い上げてくれた。
 どの曲も、歌詞が脳に直接染み込んでくるようだった。
 少女の奏でる旋律が、ひとつひとつ丁寧に世界を構築していく。
 歌詞が描く情景を、正確に表現していく。
 かつてない情報量に、脳が溺死しそうな錯覚を覚える。
「――……」
 少女が歌い終えても、僕は一言も発せなかった。その代わり、この感動を両の手に全て乗せ、目一杯の拍手を送った。
「ありがとう」
 満足気にそう言った少女の声は、しかし僅かに掠れていた。五曲も連続で歌えば、当たり前である。
「要る?」
 だから僕は、たまたま神社へ来る前に買って、そのまま鞄に入れっぱなしにしていたペットボトルのお茶を取り出した。
「え?」
 立ち尽くす少女に、僕は首肯する。
「だって、僕のために歌ってくれたんだし。これくらいのお礼はさせて欲しい」
 むしろ、これだけじゃ足りないくらいだ。
「でも……」
「ああ、大丈夫。これ、未開封だから」
「……それなら、うん、いただこうかな」
 とことこと歩み寄り、少女はペットボトルを受け取る。そうして僕の隣に座り、キャップを開けた。
「なっ……!」
 しかし、少女は愕然とした声を上げたのである。
「どうした?」
 その問いかけに、少女は手に持ったペットボトルと僕とを見比べ、言う。
「大変だ、アキ。お茶が飲めない」
「どうして?」
「お面が邪魔をするのだ」
「……外したら?」
「それは嫌だ」
「……」
 顔にコンプレックスがあって見られたくない、という気持ちはわかる。
 ほんの一瞬外すことすらも嫌がるのであれば、僕から提案できることはただひとつである。
「それじゃあ、僕は向こうを向いてるから。飲み終わったら声かけてよ」
 言いながら、僕は少女に背を向けた。
「ぜ、絶対にこっちを見たら駄目だからな。絶対だぞ」
「はいはい」
「はいは一回だぞ、アキ!」
「はーい」
「本当の本当に、駄目なんだからな?! 見たら狛犬パワー全開で祟っちゃうんだからなっ?!」
「わかったって。絶対にそっち見ないから、さっさと飲めって」
 そう言って僕は、体育座りをして両膝に顔を埋める。
 そうすると、背後からごそごそとお面を外し、ペットボトルを開ける音が聞こえ始めた。
 やれやれと肩を竦め、僕は神社を囲う木々の音に耳を傾けることにする。
 この時間帯、ここはほとんど日の落ちているから、木は壁のようにすら見えて気味が悪い。そんな不気味な壁と壁の間を、風は颯爽と通り抜けていく。風に揺れる草木のざわめき程度、この田舎では特別味など一切ない。いつだってそこにある音のひとつだ。そんな当たり前の音が、さっきは少女の声と綺麗に結びついて聞こえたのだから、不思議なものだ。
 こうして一息ついてもなお、脳は上手に息ができていない。
 頭の中で、まだ少女の歌声が残響する。
 溺れてしまうくらいに苦しくて。
 けれど、心地の良いものだった。
「アキ。もうこっちを向いても大丈夫だぞ」
 少しして、少女は言った。
 その言葉を受けて、僕は少女のほうへ向き直る。少女の顔は、さきほどと変わらずアニメ絵のお面で覆われていた。
「お茶、ありがとうな。とても美味しかった」
「どういたしまして」
 相変わらず表情は読めないが、声の調子は明らかに良くなっている。神社までの道中、思いつきで買ったお茶が役に立つとは思わなかった。これほど喜んでもらえたら、お茶も本望だろう。
「さてと。それじゃあ今日はもう帰るな」
「えっ」
 本日二度目の絶望感漂う声に、僕は、大丈夫、と声をかける。
「明日もまた来るから」
「それは本当か?!」
「本当」
「それなら、ゆびきりをしよう」
 僕の答えを聞くまで待てず、少女はさっと僕の右手を掬い上げて小指を絡めた。
 けれど、それに嫌悪感は抱かない。むしろ心が温かくてむず痒くなる。この奇妙なまでの心地良さの中に、僕はまだ浸っていたかった。
「ゆーびきーりげーんまん、うそついたーら、はりせんぼーん、のーます」
 そうして馴染みの歌を口ずさむ。
 後半は僕もぼそぼそと声を重ね、最後は声を揃え、
「ゆーびきった!」
と、一層指を強く絡めて約束をした。

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