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【長編小説】暮れなずむ秋と孤独な狛犬の歌 #8

10月3日――(4)

「おお、アキじゃないか! また来てくれるとは、ワタシは嬉しいぞっ!」
 山道の入り口付近に自転車を隠し、道を登っていくことしばらく。
 神の遣いである狛犬を自称する少女は、平然と社殿の前に座っていた。僕の姿を認めると、弾む足取りで駆け寄ってくる。その顔は、今日もアニメ絵のお面で覆われていた。暢気な性格の割に、意外と用心深いらしい。
 自称狛犬。
 自称神の遣い。
 いわゆる『本物』なのか。
 狐か犬に化かされているのか。
 或いは、同級生にからかわれているだけなのか。
 それを確かめるために、僕はひとつ、やらなければならないことがある。
「……」
「うん? どうしたのだ?」
 とはいえ、この方法は流石に人間性を疑われるのではないだろうか。
 土壇場で臆病風に吹かれ、僕の身体は強張ってしまう。
「……」
「な、なにか言ってくれ、アキ。沈黙は怖いぞ」
「……」
「アキぃ……」
 逡巡の末、僕はどうにでもなれと半ば自棄気味に、少女に左の手の平を向けて、
「……お手」
と言った。
 少女は一体どんな反応を示すだろうか。
 馬鹿なことをするな、と怒るだろうか。
 それとも、ただただ呆れるのだろうか。
 果たして、少女は一度、きょとんとした様子で僕の手の平を見つめると、すぐに得心がいったようで、
「はい」
と、なんの躊躇もなく僕の手の平に、軽く握った右の拳を乗せたのだった。
「……おかわり」
「はい」
「……ぐるっと回って」
「ぐるぐる」
「……ハイタッチ」
「ヤーッ!」
 完璧だった。
 まさか、本当に犬なのでは?
「アキ、アキ」
「な、なに?」
 弾むような少女の声に我に返れば、僅かに屈んで僕に頭を向けていた。
 撫でろ、ということだろうか。
「……良くできました」
「うむ!」
 恐る恐る少女の頭を撫でると、とても満足そうな声が返ってきた。
「どうだ? アキ。ワタシは躾の行き届いた、賢い狛犬であろう!」
 絶句する僕を他所に、えへん、とふんぞり返る少女。
「僕のほうからやっておいてなんだけど、お前、嫌じゃないのか?」
「嫌じゃないぞ。ワタシは狛犬なんだから、これくらいはできて当然なのだ」
「……そういうものなのか?」
「そういうものなのだ」
「ふうん」
「うむ」
 『本物』か。化かされているのか。単なる同級生か。
 少女の正体を掴むためには、一度少女に触れてみるのが良いと思った。けれど、見た目は同学年の女子に、どうしたら不自然にならずに触れることができるかどうかと、必死に頭を捻った結果がこれだった。我ながらおざなりな作戦だと思っていたが、まさかこうも簡単に成功してしまうとは。躊躇していた僕が滑稽にさえ思えてきた。
 さておき。
 少女に触れることはできた。指先からは生き物の体温が伝わってきた。少なくとも、僕の目の前にいる少女は幻ではないようである。
 確かに生きていて、そこに居て、普通に話ができる。
 それならもう、狐だろうが犬だろうが人間だろうが、なんでも良いか。
「アキ、今日は大丈夫だったか?」
「え?」
 不意に話題を振られ、僕は一音しか発せなかった。
 少女はそんな僕を他所に、頭からつま先まで、さらりと視線でなぞる。
「うむ。どうやら今日は、あのいけ好かない連中から上手く逃げ果せたようだな」
「……。昨日は、たまたま逃げ切れなかっただけだ」
「そうか。無事でなによりだ」
 それより、アキ。
 くいっと僕の制服の裾を掴みながら、少女は言う。
「せっかく来たんだ、少しゆっくりしていってはどうだ?」
「そ、その前に」
 力で敵わないことを既に知っている僕は、少し大きい声を上げて牽制する。ぴたりと動きを止めた少女は、なにごとだろうと小首を傾げながら僕を見た。
「ひとつ、訊いておきたいことがあるんだけど」
「ワタシは正真正銘、本物の狛犬だぞ?」
「いや、それはもう信じてやるから」
 そうじゃなくて、と僕は続ける。
「……お前さ、本当に僕のこと、知らないのか?」
「昨日も言ったが、アキとは昨日が初対面だぞ? それとも、実はアキは有名人で、これからテレビの撮影でもあると言うのか?」
「そういんじゃないけど……」
 昨日といい、今日といい、この少女は本当になにも知らないようだ。知らないふりをして、僕に関する根も葉もない噂の真偽を確かめるつもりもないらしい。それならもう、この少女を警戒する必要はないんじゃないだろうか。
 だって僕は、少女と話していて、不快に思うところはない。久しぶりに同世代の子と普通に話ができて、どちらかと言えば楽しいくらいだ。楽しいのなら、もう良いか。
「訊きたいことは、それだけか?」
「ああ、うん」
 拍子抜けしてぼんやりと頷いた僕に、少女は再び僕の制服の裾を引っ張った。
「それならほら、立ち話もなんだから、あっちに座ろうではないか!」
「はいはい」
「はいは一回だぞ、アキ!」
「はーい」
 そうしてされるがまま、僕は少女に引っ張られて、昨日同様、社殿前の階段に座った。
「えへへ、また来てくれてありがとう。本当に嬉しいぞ」
 ぶんぶんと左右に振れる尻尾の幻覚を、少女に見る。それほどに僕の来訪を喜ばれると、こっちまで嬉しい気持ちにさせられる。
「それで、アキ。今日はどんな用事があって来たのだ? 上級生に追われてもなければ、暴力も振るわれてもなく、怪我もない。……ははあ、さてはアキ、ワタシとお喋りがしたくて来たのだな?」
「あ、いや。用事は、これ」
 言いながら、僕は鞄から小さな包みを取り出す。
「昨日はありがとう。ハンカチ、ちゃんと洗濯してきたから。返す」
 ハンカチ一枚を返すのに包装するのはどうかとも考えたが。あいつらと遭遇し、泥まみれになる可能性を考えると、こうしたほうが被害を最小に抑えられると思ったのだ。
「おお、これはこれはご丁寧に。かたじけない」
 包みの正体がわかると、少女はそう言いながら両手で受け取った。
「……用事は以上なんだけど」
「えっ」
 両手で包みを持ったまま、少女はこの世の終わりのような、絶望そのものの声を上げた。
「も、もう帰っちゃうのか、アキ」
 裾を掴まれながら涙声で懇願されて、一体どれだけの人間が拒絶できると言うのだろう。
「……日が沈むまで、なら。大丈夫」
 降参するように両手の平を少女に軽く見せながら、僕は言った。
 すると、少女の雰囲気がお面越しにでも明るくなっていくのがわかった。
「ヤー!」
「? うん」
 一瞬、『やだ』と言われたのかと思って動揺したが、少女のテンションから見るに拒絶ではないらしい。言葉と反応の差に驚きながら、僕は曖昧に頷いた。

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