【短編】ミナト桜(6/8)

 目の前が突然明るくなった。若葉はハッとして顔を上げる。

「若葉あなた、電気もつけないでどうしたの」

 声がした方を見れば、若葉の母親が、驚いたような表情で立っていた。あかぎれたふくよかな手が、ドア近くの壁にあるスイッチから離れた。

 若葉は周囲を見渡した。

 自分の部屋にいた。入学祝いに両親から買ってもらったシンプルな学習机の椅子に座っている。花柄の壁時計は二十時過ぎを示していた。服装もブレザーではなく、着古した半袖のTシャツとスエットの部屋着姿だった。手や腕、膝など、見える限りの体のあちらこちらには絆創膏が貼られている。

 いつ帰宅したのかまるで覚えがない。思い出そうとしても、頭の中に霧のようなものが立ち込めてハッキリとしない。それでも何とか、若葉は頭を振って記憶を遡ろうと試みる。

 えーっと、今日はひとりで日直やってたんだよね。それからお昼はいつも通り美希先輩と過ごしてた。放課後は日誌頑張って書いて、それを職員室に提出したあと紗枝ちゃんの教室に行って、えーっと、それから……それから……。

「大丈夫? やっぱり体調悪いんじゃない?」

 母親は短い脚で若葉に歩み寄ると、彼女の額と自分の額それぞれに手を当てた。

「んー、少し熱っぽいかしら。夕飯も少し残してたわよね。傷口からバイ菌が入っちゃったのかしら」

「別に何ともないよ」若葉は母親の手を払う。「それで、何か用事があったんじゃないの?」

 あ、そうそう! と母親は声を高くした。

「若葉、あなた今日、紗枝ちゃんと一緒にいた?」

 針で突かれたような痛みを胸に覚えた。

「いないけど、どうして?」

「紗枝ちゃん、まだ家に帰ってきてないんだって」

「――へっ」

 母親は頬に手を当てた。「今、紗枝ちゃんのお母さんから電話がかってきたのよ。まだ帰ってきてないから、紗枝ちゃんのこと、何か知らないかって」

「し、知らない……」

「そう。わかったわ」

「あっ、待って、お母さん!」

 早足で部屋を出ようとした母親を、若葉は慌てて呼び止めた。母親はつんのめるように立ち止まって振り返る。

「ビックリした。どうしたのよ、いきなり」

「あ、あの、えっと……。今思い出したんだけど、放課後、紗枝ちゃんがクラスの女の子と一緒にいるのは見かけたよ」

「それって、もしかして大槻さんって子?」

「何で知ってるの」

「お母さんは知らないけど、紗枝ちゃんのお母さんから聞いたの。その大槻さんって子が、夕方ひとりでお店に来たんだって。で、ちょっと目を離してる間に紗枝ちゃんいなくなってたって言うんだって」

「いなくなってた?」若葉は前のめりになった。「どういうこと」

「お母さんにもよくわかんないけど。そんな話があった上に今もまだ帰ってきてないから、何かあったんじゃないかってみんな心配してるのよ」

「電話かけても駄目なの?」

「その大槻さんが言うには、紗枝ちゃんのスマホ、バッテリーが切れてたそうよ」

「そう、なんだ」

「とりあえず、電話待たせてるから、もう行くわね」
 母親は今度こそ部屋を出た。どたばたと階段を降りていく音が遠ざかっていった。

 若葉は胸を押さえた。胸の痛みが増していることに気づく。髪の毛よりも細い針が霧状になって、胸の内側でゆっくりと膨張しているような心地だった。力を込めても痛みを抑えつけることはできなかった。

「若葉ー、ちょっと来て―」

 一階から母親の声が聞こえた。若葉は反射的に返事をし、部屋を出て階段を駆け降りる。

 一階には母親と父親がいた。母親は防虫剤臭い春物のコートを羽織って階段下に、熊のような体格の父親はリビングでクタクタのパーカーに腕を通したところだった。

「お母さんたちも紗枝ちゃんのこと探しに行ってくるから、お留守番よろしくね」

「えっ、それならウチも行く!」

「若葉は家にいなさい」父親は優しい口調で言った。

「何でよ」

「危ないからに決まってるだろ」

「そうよ。それにあなた体調も悪そうなんだから」

「ウチは大丈夫だってば! ねぇお願い、行かせてよ!」

「紗枝ちゃんのことが心配なのはわかる。でもここは大人に任せなさい」

「行くったら行くのぉ!」

 目涙で訴える若葉を見て、両親は顔を見合い、同時に小さな溜め息を溢した。そして母親は若葉の前に屈む。

「若葉が紗枝ちゃんのことが大好きなのは、お父さんもお母さんもよくわかっているつもりよ。けどね、それと同じくらい、お父さんとお母さんは若葉のことが大好きなの。だから危険な目に遭わせたくないのよ。わかる?」

「そのくらいわかってるもん! わかってるけど……」

「本当に紗枝ちゃんのこと心配してくれてるのね」

「だって、親友だもん」

 若葉は頬を膨らませ、俯いた。その頭を。母親は軽く撫でた。

「もしかしたら、紗枝ちゃんからあなたのところに連絡がいくかもしれないわ。それにいち早く気づけるためにも、若葉はお家で待ってくれないかな。その代わり、私たちで必ず紗枝ちゃんを探し出すから。ねっ、お願い」

 若葉はさらに頬を膨れらませた。だがしばらくして、直角に倒れたままを小さく頷いた。

「いい子ね」

 母親は若葉を優しく抱きしめ、さらに頭を撫でた。そののち、若葉の口角を指で少しだけ持ち上げてニッコリと笑った。

「はい、笑顔ー」

 若葉は頑なに笑わなかった。

 間もなく両親は家を留守にした。玄関のドアを施錠する音が若葉の耳を突く。リビングから聞こえる時計の針の音も孤独を煽るようで不快だった。

 階段を登りながら、若葉の手は自然とスエットのポケットに伸びた。普段からそこに入れているはずのスマホがないことに気づくと、若葉は焦りを覚えた。

 早足で部屋に戻ると、机の横にかけてある通学鞄や、壁面クローゼットの折れ戸にかけたブレザーを探った。だがそこにもスマホはない。

「無くした? どうしよう、新しくしてもらったばっかなのに。帰りに落としたのかな。それとも学校に――」

 若葉の声が急激にフェードアウトした。口を開けたまましばらく固まっていると、あ、と言葉が零れた。

「違う。ウチ、教室のドアにスマホ投げつけたんだ……!」

 頭の中の霧が晴れ出した。

 紗枝と大槻との楽しそうなやり取り。憤る自分。走って走って、転んで、目の前にあった桜の木。根元にあった古びた彫刻刀で、木の表面に紗枝の名前を刻み込んだ。

 両の手の平を見る。細かい擦り傷がいくつもあるが、絆創膏が貼られているのは左手の指先の三か所に限られてた。うちの一か所、人差し指の絆創膏を剥がすと、パックリと開いた深い傷があった。木に名前を刻んだ際、誤って彫刻刀で切った時のものだと思い至る。

 夢や妄想ではない、確たる事実である証拠。今になって傷がズキズキと痛んだ。同時に、木を彫った時の感触が鮮明に甦り、そして思い至る。

「紗枝ちゃんがいなくなったのって、まさかウチのせい……?」

 若葉は体温が急上昇したのを感じた。背中から汗が滲み出ていることと、手が震えていることにも気づいた。

 そんなまさか、と笑う自分がいた。そうかもしれない、と焦る自分もいた。二人の自分がない交ぜになり、若葉は広くない自分の部屋をグルグルと回り続けた。

 ウチのせいじゃない。ウチのせいじゃない。きっと何か別のことに巻き込まれたんだ。それかあの大槻って人のせいだ。きっとそうだ。ウチのせいじゃ――

 若葉の脚がピタリと止まった。刹那、自分の頬を思いきりはたいた。

「そうじゃない! 紗枝ちゃんが危ない目に遭ってるかもしれないっていうのに、そんなこと考えてる場合じゃないでしょ!! 馬鹿馬鹿! ウチの大馬鹿!!」

 若葉は左右の頬を何度も何度もはたいた。ついには頭を殴った。産毛まで響くような衝撃が駆け抜ける。痛みに耐えかね、若葉はうずくまって呻き声を上げた。

 痛みが引き始めた。熱を帯びた小さなコブにそっと触れつつ、クールになった頭で若葉は考え始めた。

 紗枝はどこに行ってしまったのか。何とかして自分が彼女を見つけ出す方法はないか。

 だがいくら頭を働かせようとも、漠然とした問題の前には、良くてさらに漠然とした解答しか出せない。若葉はしばらくの間、羊を模したクッションを抱きながらベッドの上で悶々とするだけの時間を過ごした。眠気を覚え始めたため、慌てて立ち上がって部屋を歩き回りながら考えるも、やはり答えが出ることはなかった。

「あぁ、もうどうしたらいいの! こんなことしてる間にも紗枝ちゃんが危ない目に遭ってるかもしれないのに!」

 若葉はそう叫びながら髪を掻き乱す。さらにはベッドに思いきりダイブし、枕に顔を埋めながら叫んで脚をバタつかせた。だがやがて叫ぶのも暴れるのも止めた。室内に虚無感を孕んだ静寂が訪れた。

 ふと、弾かれたように若葉は顔を上げた。

「紗枝ちゃん?」

 今、紗枝の声が聞こえたような気がした。だがいくら見渡そうとも、ここは自分しかいない六畳半の自室。紗枝の姿はない。

「気のせい?」

 若葉は自然と耳に意識を集中させた。

『……』

 やはり何か聞こえる。さらに耳を澄ませた。

『たすけて……』

 聞こえる。クローゼットの方から聞こえる。若葉はベッドから転がり落ちながらも、急いでクローゼットに向かった。

「紗枝ちゃん、紗枝ちゃんなの?! そこにいるの?!」

 扉を壊さんばかりの勢いで折り戸を開けた。中は十二分な広さがあるが、レーンにかけたワイシャツやワンピース、夏物の服や旅行鞄などとが収納されているだけで、紗枝の姿はない。

『助けて』

 だが声は確かに聞こえた。

「紗枝ちゃん! どこにいるの!?」

『助けて』

 ハッとして、若葉は戸を閉めた。戸にかかるブレザーの胸ポケットにつけていた、桜のヘアピンをサッと手に取った。

『助けて……!』

 声はヘアピンから聞こえていた。

「紗枝ちゃん、紗枝ちゃんなんでしょ!? ウチだよ、若葉だよ! 聞こえる?!」

『若葉……助けて……!』

「うん、助けに行くよ! 今、どこにいるの!?」

『木……学校の……桜の木……!』

 小さく破裂したような心臓の鼓動を感じた。紗枝はミナト桜の所にいるに違いない。若葉は言葉に詰まったが、何とか絞り出す。

「待ってて紗枝ちゃん! 今すぐ助けに行くから!」

 若葉はヘアピンを握りしめ、上着も羽織らずに家を飛び出した。通りがかりの商店街の人々の声はすべて無視し、降りかかっている踏み切りを駆け抜ける。

 校門は当然閉まっていた。夜の学校が放つ不気味な雰囲気と、警報が鳴るかもしれない不安が芽生え、若葉の逸る気持ちを押さえつけようとする。だが若葉はためらわなかった。小さな体を校門の隙間に滑り込ませ、学園内に侵入する。

『若葉……。早く……はや、く……』

 紗枝の声が弱々しくなってきていた。一秒でも早く紗枝の元に行きたい。若葉のその強い思いが、脇腹の痛みや息が苦しさを麻痺させ、限界を越えて若葉の脚を動かし続けた。

 ようやく桜桃館の前を過ぎた。若葉はさらに速度を上げ、ようやく、月明かりに照らされたミナト桜が見えてきた。

 紗枝の姿を探して若葉は木を凝視した。ゆえに異変にはすぐに気づいた。

 我が目を疑った。

 心臓がいまにも破裂しそうだった。嫌な汗が全身から吹き出してくる。最悪の想像が頭の中を侵食していく。脚がもつれそうになりながらも全力で走る。

 そして目的地に辿り着いた若葉は色を失った。呼吸はおろか心臓まで停止するかのような絶望に撃たれ、膝から崩れ落ちる。

 紗枝が首を吊っていた。



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