【短編】ミナト桜(4/8)


 放課後になった。若葉は荷物をまとめて図書館へ向かう。今日は図書委員の当番の日である。

 図書館は中等部校舎の近くに建っている。三階建ての、赤煉瓦とそこを這う蔦(つた)が特徴的だ。ここは昨年の改修工事でも最低限の耐震補強が行われたに留まった。戦争の空襲で焼け焦げた箇所も一部ある、学園百年の歴史を色濃く残した場所のひとつである。

 若葉の仕事は主に返却本などを元の場所に戻すことだ。まだ棚の配置を覚えきれていないために時間はかかるが、自分のペースで仕事を進めることができた。だが本の場所は聞かれたくないと常に願っている。

 今日の若葉は紗枝にも美希にも会えなかった。彼女の足取りは、地面がぬかるんでいる以上に重かった。

「耶麻(やま)さんには、まずこれをお願いできるかな」

 スタッフルームでエプロンを着た若葉は、貸出カウンターの横で四角い眼鏡をかけた中年男性の司書温和に口調で言われた。彼が手を添えた三段ブックトラックは八割ほど埋まっている。分厚い本がほとんどのため、冊数は多くはなかった。

 若葉は返事をして早速仕事に取り掛かる。本の背表紙に貼られているラベルを確認し、同じグループのものをまとめて運ぶ。多少無駄に歩いたが、誰かに話しかけられることもなく順調に仕事をこなした。

「これが最後か……」

 トラックには、禁帯出の赤いラベルが貼られた古めかしい図鑑が三冊残った。いずれも若葉が入学時に購入した辞書よりも分厚く、大判のものだ。

 若葉はそれらを気合いを入れて持ち上げた。ヨタヨタとふらつきながら階段を下る。

 地下室は学術書や専門書、資料、雑誌のバックナンバーなど、貸出禁止の書籍が所蔵されている階だ。天井の低さや岩壁のように並ぶ移動棚、切れかけてチカチカしている蛍光灯などが、若葉の不安を駆り立てる。

 若葉は早くここを立ち去りたい一心で、さっさと図鑑を棚に戻した。ダッシュで階段へ向かって走った。

「キャアア!」

「うわっ!」

 若葉は思わず叫んだ。移動式棚から出て間もなくのところで、同じように誰かが出てきた。相手もほぼ同時に叫び、二人で尻餅をついた。相手が持っていた本が音を立てて床に転がる。

「すみません、大丈夫ですか?」

「う、ウチは大丈夫――あっ!」

「なんだ、お前か」

 相手は湊人だった。彼は面倒臭そうに言うと、本を拾って立ち上がった。対して若葉はまだ立ち上がれなかった。

「ど、どうしてあなたがここにいるんですか」

「別に、お前には関係ねぇよ」

 若葉は唇を尖らせた。 

「今日は保護者様はいないのか」

「別に、あなたには関係ないでしょ」

 不満を露わにした口調で若葉は言い放った。立ち上がり、スカートを叩くと、大股で湊人の横を通過する。

 直後、湊人の鼻が動いた。遅れて若葉の姿を目で追って言う。

「お前、この前よりさらに臭うぞ」

 若葉の足が止まった。途端、耳まで顔が赤くなる。

「ほっといて!」

 裏返った力任せの叫びが木霊した。一時の静寂のあと、若葉は湊人に振り返ることもなく走り去った。

 湊人はその姿を呆然と見送った。ほどなく無言のまま部屋を出た。

「お前は相変わらずデリカシーがねぇなぁ」

 振り返ると、防火シャッターの陰に男子生徒が立っていた。垂れ目の男子生徒だ。斜に構えたような笑顔を浮かべている。

「何だ、旭(あさひ)かよ」湊人は彼を一瞥(いちべつ)しただけで階段を昇り始めた。

「お前はもう少し言葉を選べよ」旭は湊人を追う。「あんな可憐な乙女に対していきなり『臭う』とか。世界中の女子を敵に回すぞ」

「事実なんだから仕方ねぇだろ」

「人っていうのはな、事実を事実のまま伝えられるとカッとする生き物なんだよ。お前だって『目つき悪い』とか『人相悪い』とか言われると腹立つだろ」

「じゃあどうしろって言うんだよ」湊人は大層面倒くさそうに尋ねた。

「事実と反対のことを言うのがベターだ」旭は真面目に答える。「『君、いい匂いがするね』とか『君の匂い、もっとよく嗅がせてくれないかな』とかさ」

「お前も大概だな」

 そうか? と旭は聞き返した。「それはそうと、あの子のことホントに放っておくの? 彼女、わりと危険な穢(けが)れ具合っぽかったけど」

 湊人は返事をすることなく一階に到着した。貸出カウンターの近くで司書と話している若葉を発見する。遠目にもヘソを曲げているのが分かった。

 湊人は若葉を視界から外し、学習スペースへ向かった。六人掛けの長机がすべて空席だったので、そこに座った。持ってきた分厚い書籍を開くと古びた紙の臭いが解放された。

「なぁなぁ、今日の帰りもメンチ食べてこうぜ。お前の奢りで」

 旭は机の淵からに肘を立てて湊人に囁いた。湊人はそれにも答えず、書面に目を通していく。

 表紙には『桜神学園録《昭和四十四・四十五年度》』とあった。


「今日は見るからに不機嫌だね……」

 紗枝は表情を苦笑いを浮かべて言った。今日は朝から日差しが強く、ジワリと汗が滲む陽気だった。

「別に普通だけど」

 若葉は低い声で言った。口は微かに突き出て、頬は膨らみを帯びている。

「昨日の電話で話してたこと、まだ気にしてる?」

「別に、あんな奴の言うことなんて、気にする必要ないし」

 紗枝は肩を竦めた。若葉からは普段より強く、シトラス系のシャンプーや制汗スプレー、消臭スプレーの香りがしていた。

 紗枝は唐突に手を叩いた。「そうそう。昨日言いそびれちゃったんだけどね、私、明日は若葉と一緒に帰れるはずだよ」

「えっ、ホントに」若葉は声も表情も明るくした。

「ホント。今やってる生徒会選挙の準備、明日の昼休みには絶対終わるから」

「じゃあさ、じゃあさ、節目さんのとこ行こうよ。新作ケーキ食べたい」

 若葉は振り返り、生き生きと指を差した。

 彼女たちが今しがた通過した小洒落た外装の店がcafe FUSHIMEである。以前は洋菓子店だったのだが、二年ほど前にリニューアルして喫茶店になった。ケーキやプリンなど味はそのままに、カントリー調の装いが若い女性を中心に人気を博し、今静かなブームになっている。

 紗枝は頻りに頷いた。「さくらんぼのタルトでしょ。私もさっき目に入って気になってたんだよねぇ。一緒に食べようね」

「約束だよ」

「うん、約束」
 二人は固く指切りをした。だがそこで、若葉が声を漏らした。表情が曇る。

「ゴメン、明日ウチ日直だ。帰るの遅くなっちゃう」

「そう暗い顔しないで。若葉の仕事が終わるまで、私ちゃんと待ってるからさ」

「うぅ、紗枝ちゃん……!」

「ここ泣くとこ」

 ほどなく校門を通った。周辺の道路および学園内の地面は、昨日の雨で散った桜の花びらによって覆われていた。若葉は花びらの絨毯の上をスキップするように進んだ。

 その後の授業にも身が入り、あっという間に昼休みとなった。若葉は素早く机の上を片付け、弁当とお茶を手に風のように教室を出た。

「美希せんぱーい」

 いつもの場所に息を切らしてやって来ると、すでに美希の姿があった。花が散った木に寄りかかり佇んでいるだけで絵になる彼女を見て、若葉は小さく震えた。

「若葉ちゃん、おはよー。おとといぶりだね」

 駆け寄ってきた若葉に、美希はニッコリと微笑んだ。若葉の顔にも自然と笑みが浮かぶ。

「おはようございます、先輩」

 そう言いながら、若葉は美希の手や周囲を確認した。

 美希は今日も昼食を持っていなかった。いつも自分だけが弁当を食べていることに申し訳なさを、そして美希と一緒に食べられないことに不満を、若葉は感じていた。

 ダイエットしてるのかな? あるいは早弁? 他人に食べる姿を見られるのが嫌とか?

 様々な憶測が若葉の頭の中を巡る。だがその理由を本人に尋ねるのは、美希のことを詮索しているようで気が引けた。

 若葉は気持ちを胸の内に隠し、普段通りに振る舞う。昨日見たテレビの話題から入り、弁当を食べ進めながら、今の時間を楽しむ。

「今日の若葉ちゃん、何だかいつにも増して楽しそうね」美希は若葉の顔を覗き込むようにして言った。

「へっ、そうですか」

「うん。何かいいことでもあったの」

「えへへ、実は明日、久しぶりに幼馴染みの親友の子と帰りにカフェに行く約束したんです。それが今からすっごく楽しみで」

「へー、そうなんだ」

「先輩も知ってますか、節目って名前のカフェ」若葉は前のめりになって言う。「踏切の向こうの商店街にあるお店なんですけどね、もともとはケーキ屋さんで、小さい頃から私と親友の、あ、生綿(いけわた)紗枝ちゃんっていうんですけどね、このヘアピンくれた子で、お誕生日とかは必ずそこのケーキ買ってもらったりしてて、スゴくおいしくて馴染みのあるお店なんですよ。そこがこの間新しく出したさくらんぼのタルトを食べるんです。それがすんごく楽しみなんです」

「うんうん、そうなんだね」

 若葉はスッカリ自分の世界に入っていた。それゆえに美希の微妙な反応の変化にまったく気づかなかった。話したいだけ話し、お茶をごくごくと飲む。

「ところで、若葉ちゃんって怪談とか大丈夫な人かな」

 若葉は思わずむせた。

「だ、大丈夫!?」美希は慌てて若葉の背中を擦る。

「だっ、大丈夫、です」若葉は呼吸を整える。「えぇ、全然余裕ですよ。こう見えて毎日つま先立ちで歩いたりして鍛えてますから」

「多分だけど、それって昇り降りする階段のこと言ってる? 私が言いたいのは怖い話とか不思議な話の方の怪談だよ」

「や、やだなぁ先輩、もももちろんわかってますよ。ジョークですよ、ジョーク。そっちの怪談も余裕のよっちゃん若葉ちゃんですよ。アハハハーーゲホゲホッ!」

 若葉は再びむせ返った。あまりに早口で話したために息が続かなかった。美希はさらに若葉の背中を擦りながら、若葉の呼吸が整うのを待った。

「うちの学園には七不思議があるんだけど、それがちょっと他と違う感じのやつなの。知ってる?」

「は、はい。でも詳しくは知りません」

 知りたくもありません、という言葉は飲み込んだ。

「それじゃ教えてあげる。七不思議だけあって、全部で七つの話があるんだよ」

 若葉は身構えた。美希は手を出して指を折っていく。

「『ひとりぼっち人形』『午前二時の購買部』『ミナト桜』『ヨシ子さんの下駄箱』『ここから出して』『ロミオの短剣』『名無しのゴンベイ』――の計七つ。何か気になるのある?」

「えっと……ミナト桜だけは、一応知ってます」

「あ、なんだそうだったの」

「紗枝ちゃんから入学式の日に聞かされました。高等部の男子生徒がフラれたショックで、桜の木で首を吊っちゃうんですよね」

「そうそう。じゃあさ、その話に別の話があるのは知ってる?」

 別の話? 若葉は聞き返し、首を横に振った。美希は頷くと、若葉から視線を外す。

「そのミナト桜の幹に、好きな人の名前を、その人のことを強く思いながら刻むの。そうしたら、その人とずーっと一緒にいられるんだって。死んでも、ずーっとね」

 美希は一本の桜の木を見ていた。新緑が茂り始めた多くの桜の木の中に、花も葉もつけずにポツンとある。若葉もつられてそれを眺めた。

 美希と二度目に会った時から、若葉はそれがずっと気になっていた。あれが件のミナト桜なのだろうか。その考えを、若葉は頭を振って否定する。学園を回っていた時、枯れている桜の木は他にも何本か見かけていた。迷信だ、そんなものがあるはずがない、と自分に言い聞かせた。

 若葉がそう自分にそう言い聞かせていると、遠くからチャイムの音が聞こえてきた。

「わわ、チャイム鳴っちゃった。先輩、お先失礼します」

「うん、またね」

 若葉は手早く弁当を片付け、中等部校舎へ向かって猛ダッシュした。若葉の姿が見えなくなるまで、美希はジッと彼女のことを見つめていた。


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