【短編】ミナト桜(3/8)

「それじゃこの問題を、耶麻さん、前に出て解いてください」

「は、はいっ」

 若葉は裏返った声で返事をし、起立した。その際机に脚をぶつけ、花柄のペンケースなどを床に落とす。大急ぎで拾い、大急ぎで黒板の前にやって来て、ノートを片手に目一杯背伸びをして数式の解答を板書する。

 背中から茨で突かれたような視線を感じた。声や音に敏感になり、チョークを持つ手がさらに震えた。

 どんくさい子って思われてるかな。チビって思われてるだろうな。字、汚いかな。答え、間違ってないよね。

 ネガティブな思考ばかりが若葉の頭の中に浮かんだ。

「で、できました」

「はい、正解です。戻っていいですよ」

 丸眼鏡の教師に言われ、若葉は小さくため息をついた。席に戻りながら、改めてクラスメイトたちの様子を伺う。あれだけ視線を感じていたはずなのに、彼らのほとんどが、参考書の問題を黙々と解いていた。

 着席と共に、若葉は異なる色のため息をつく。胸ポケットに刺した桜のヘアピンに自然と手が伸びた。

 入学から間もなくひと月が経つ。大型連休前後から防寒具なしで過ごせるような暖かな日々が続き、街も本格的な春が到来した。

 学園内は今、すべての桜が雅びに咲き誇っている。昼休みとなれば、中等部高等部問わず多くの生徒たちが教室を出て、至るところで花見をしながらの昼食や談笑を楽しんでいた。

 そんな彼らを、若葉は恨めしそうな目で見ていた。購買近くの自販機で買ったペットボトルの緑茶と自作の弁当を入れた巾着を手に、学園内を独りさまよい歩く。

『ゴメン、若葉! また先生に頼まれごとされちゃって、今日も一緒にゴハン食べられなくなっちゃった! ホンンントにゴメン!!』

 紗枝からの謝罪のメッセージが届いたのは、昼休みのチャイムが鳴り終わった直後だった。

『大丈夫だよ。頑張ってね』

 絵文字やスタンプがふんだんに盛り込まれていたそれに対し、若葉は短く返事をするに留まった。

 紗枝は入学早々にクラス委員長に選ばれた。そのため昼休みはもちろん、放課後も何かしらの仕事を任され、早朝にひとりで登校してしまうこともしばしばあった。話によれば、五月末に控えている生徒会選挙の手伝いなどもしているとのことだ。

 愛嬌があって要領もいい紗枝であるからに、皆から頼られてしまうことは、若葉も充分わかっている。自分もそんな紗枝にベッタリと甘えていた。それゆえに、自分を後回しにされてしまっている現状が耐えがたかった。

 行き場のない寂しさははみるみる膨れ上がった。それを昇華しようとして、クラスメイトとの親睦を深めようとしたり部活動の見学などをしたりもした。だが元来の人見知りと引っ込み思案が災いし、目を合わせることさえできなかった。

 結果、若葉は孤独な時間のほとんどを苦手な勉強で埋める他なかった。お陰で学校の勉強に遅れることはなかったが、寂しいさの風船はいまだゆっくりと膨れ続けている。

 ふと強い風が吹いた。反射的にスカートを抑え、周囲を素早く確認する。誰もいない。若葉はホッと胸を撫で下ろした。

 若葉は改めて周りを見渡す。考えごとをしている間に、彼女はまた人気のない場所に足を踏み入れていた。学園の北西、庭園を抜け、高等部校舎に程近くに建つ桜桃館という講堂の裏だ。管弦楽部の演奏が微かに聞こえる程度の閑静な場所で、入学式の日に迷い込んだのもここだった。

 以来初めて来たが、今の若葉は不安がっている様子はない。紗枝の唯一の欠点ともいえる方向音痴をフォローするため、若葉はひとり、百平方メートル近くある広い学園の敷地内をひと通り見て回り、おおよその地理を把握しているからだ。

「もうこの辺でいっか……」

 そう呟いて、目についた桜の木に向かった。紗枝とお揃いで買った水玉の巾着を根元に敷き、腰を下ろす。管弦楽部の演奏も塀の外からの音も聞こえなかった。落ち着いた静けさを覚える一方で孤独感もかき立てられる。

 膝の上で弁当を置いた。そのタイミングで若葉の視界にそれが入ってきた。

 花が咲いていない桜の木が一本だけあった。学園の端であるこの場所で、見事な並木を作っている中、物悲しいような恐ろしいような雰囲気を漂わせている。若葉は弁当を開くのも忘れて、その木に釘づけになる。

「こんにちは」

 若葉は奇声を発した。巾着とペットボトルが芝に転がる。

「ご、ゴメン。驚かせるつもりはなかったんだ」

 ややあって、その声に聞き覚えがあることに気づいた。ダンゴ虫のように縮こまっていた若葉は、そーっと頭を上げ、目を見開いた。

「みっ、美希先輩」

「やあ、覚えてくれてて嬉しいよ」

 美希は歯を見せて笑った。そよ風が運んだ桜の花びらが、彼女の笑顔をさらに可憐に際立たせた。

 若葉は飛び上がらんばかりに身を起こす。「どど、どうしてこんな所に」

「食後の散歩。私、天気がいい日はいつもこの辺ブラブラしてるの」

「そ、そうなんですね」

「若葉ちゃんはこれからゴハンなんだね」

「あっ、は、はい、まぁ……」

 転がった巾着とペットボトルを若葉は急いで拾った。気まずそうに、恥ずかしそうに目がキョロキョロと動いた。その様子を見た美希の口元がさらに緩む。

「隣、座ってもいいかな」

「う、ウチの隣にですか!」

「あ、ゴメン、迷惑だったかな」

「そそそんなことないです! ーーあっ! ど、どうぞ、お座りください」

若葉はハンカチを自分の横に敷いた。

「ありがと」

 美希は金の鈴のような声で言って、そこに座った。座れば牡丹(ぼたん)というように、座っただけでも華がある美希の姿を見て、若葉はまたしても頬を染めた。

 はじめ、若葉は美希の話に上手く返すことができなかった。「学校には慣れた?」とか「部活はもう入った?」などと質問されても、震える声で短く返事をするだけだった。美希と目を合わせることさえできない。

 しかし美希が「お弁当おいしそうだね」「その桜のヘアピンかわいいね」などと話し始めると、状況が変わった。おっかなびっくりではあるが、若葉は自ら話をし始めた。そして弁当が残り少なくなかった頃には、若葉は饒舌な話し手になっていた。

「それで私、実は先輩にもう一度お会いしたくて、三年生の教室まで行ったんですよ」

 若葉はやや語尾を上げて言った。タマゴサンドをひと噛りし、飲み込む。

「でもそしたやっぱりガチガチに緊張しちゃって、廊下を歩くのでも精一杯でした」

「わかるわかる。私も同じような経験あるよ。なんか部外者な感じがして、回りからの視線が気になっちゃうよねぇ」

「そうなんですよ! ウチ、見ての通りのチビじゃないですか。だからメチャクチャ目立つし、まともに顔も上げられないままほぼ素通りして帰ってきちゃいました。何しに来たんだって感じですよね」

 若葉はアハハと声を出して笑った。美希はクスクスと笑い、目を細めた。

「若葉ちゃんって以外とお喋りなんだね」

「あっ、ご、ごめんなさい、私ばっかり喋ってしまって」

「ううん、そうじゃなくって、この間会った時はあんまり話せなかったから、物静かな性格の子なのかなぁって思ってたの。だから今日はたくさん話せて嬉しいな」

 若葉は顔が熱くなるのを感じた。その感情を悟られまいと、残りのタマゴサンドをガツガツと口に押し込め、お茶で流し込んだ。

「若葉ちゃん」

「はい」

「じっとしてて」

 美希は真剣な顔をして若葉に寄ってきた。突然の出来事に、若葉はすぐに反応できなかった。長いまつ毛の一本一本までわかるほどの距離で、真っ黒な瞳に見つめられる。若葉は更なる熱と胸の高鳴りを覚えた。

 美希は若葉に手を伸ばした。細くて長い、爪は桜色をした、まるで美術品のような薬指が若葉の頬に触れる。そこからさらに唇にも触れた。冷たい。だが心地よい。若葉はさらに顔を赤らめ、目を固く閉じた。

「――はい、もういいよ」

 情けない声を出して若葉は目を開けた。そこにはイタズラっぽい笑みを浮かべる美希の顔がある。

「タマゴ、ほっぺについてたよ」

 美希は薬指の先に載せたタマゴの欠片を見せびらかした。そしてそのままためらいなく舐め取った。

「ご馳走さま」

 若葉の頭は茹でタコのように真っ赤になった。


「若葉、最近なんだか機嫌いいね」

 紗枝はニコニコと微笑んで言った。春雨降る通学路、二人は並んで歩いている。

 若葉は声を漏らした。自然と頬を掻く。「そ、そうかな」

「うん、なんか顔がホッコリしてる感じがする。若葉が雨の日ドンヨリしてないのってメッチャ珍しい」

「雨の日はみんなドンヨリしてるもんでしょ」

「だからこそ若葉の笑顔が際立って見えるんだよ。かまってちゃんもしばらく発動してないし、若葉もようやくお姉さんになったのかな」

「それは、うん……」

 若葉は花柄の傘を下げて紗枝からの視線を遮った。歯切れの悪い返事をする若葉に、紗枝は首を傾げた。ややあって、あっ、と手を叩く。

「もしかして、仲良い人できたとか」

 若葉はさらに高い声を漏らした。ややあって、右の後れ毛を指でクルクルと弄りながら、小さく返事をした。雨音にも負けそうな声だったが、紗枝はしっかりと聞き取った。

「えっ、マジで?! やったじゃん!」紗枝は弾むような声を言った。「どんな人? クラスの子?」

「ううん。高等部の三年生の先輩。美希先輩っていうの」

「ホントにぃ?!」紗枝は目をまん丸にして言った。

「ホントだよー。校章、ちゃんと緑色だったし『高』の字もあったもん」

「ふーん。キッカケは何だったの? 図書委員とか?」

「そうじゃなくて、ほら、入学式の日にウチ迷子になっちゃったでしょ。その時に助けてくれた人だよ」

「へー、そうなんだ。結構会ってるの?」

「うん、ここ一週間くらいはずっと昼休みに会ってる」

「なんだ、それならそうと早く言ってくれたらいいのに」

「ゴメン。いざ話そうとすると照れ臭くて」

「そっーか。じゃあ私が色々と心配する必要もなかったか」

「そうだよ」と若葉は得意気に言う。「私はもうお姉さんになったんだから」

「そっかそっか。それで、その先輩ってどんな人なの」

 若葉は美希の魅力を、熱を持って語り始めた。だがすべてを語り尽くすには時間があまりに足りなかった。

 紗枝の両親が営む雑貨屋フルールの前で待ち合わせをし、商店街を下って踏切を渡れば、十分ほどで櫻神学園に到着する。家の近所にあるということも、二人が櫻神学園を志望した理由ひとつであるが、今日はそれが裏目に出てしまった。消化不良のまま、若葉は独り教室の自席に着いた。


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