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超個性的なゴッホ

ゴッホとは?

今回はまたまた世界的な超有名画のゴッホ
本名はフィンセント・ファン・ゴッホ。
英語だと「ヴァン・ゴー」、上の歯で下唇を噛みながら「ヴァン・ゴー」。

1853年のオランダに生まれる。日本ではペリー率いる黒船が浦賀に来港し、その後、国際社会に市場か開かれ明治維新へとつながる大変重要な年である。

キャリアとしては画家ではなく、画商としてスタートしているが、画家への情熱が冷めることがなく、27歳で画家になる。

生涯で2000点以上の作品を残しているが、生前は殆ど評価されておらず、売れた作品は1点のみ。面倒な性格が災いしたのか、精神疾患を患いながらも絵は描き続け、逆にそのことで後年に評価されることになるのだが、37歳の若さで自ら命を絶っている

そんな波瀾万丈のゴッホの人生を彼が好きだった「ひまわり」と「耳切り事件」にフィーチャーして見ていきたい。

ひまわり

まずは、有名な「ひまわり」。
私の知識は「そういえば、昔に日本のどこかの美術館で保管されてなかったっけ」というとてもチープな情報のみで、つくづく無知は罪だなと実感し自分自身に嫌悪感を覚える。

調べてみると、この「ひまわり」は合計で7点あったが、現存しているのは6点のみ。1点はアメリカの個人が所有し、もう1点は戦前に実業家の山本雇弥太が所有していたが、山本雇弥太の「ひまわり」は第二次世界大戦の空襲で焼失してしまい、1点はアメリカの個人が所有しているため、現在は5枚しか観ることができない。

【5点の内訳】
1点目
・イギリスのナショナルギャラリー所有
・ゴッホがゴーギャンと過ごした南仏のアルルで実際に見て描いたもので背景が赤色
2点目
・オランダのファン・ゴッホ美術館所有 
・1点目のナショナルギャラリー所有の「ひまわり」をゴッホ自身がセルフコピー
3点目
・新宿のSOMPO美術館所有
・2点目と同様にゴッホ自身がセルフコピー
4点目
・ドイツのノイエ・ビナコテーク美術館所有
・ゴッホがアルルで実際に見て描いたもので背景が青色 
5点目
・アメリカのフィラデルフィア美術館所有
・4点目のノイエ・ビナコテーク美術館所有の「ひまわり」をゴッホ自身がセルフコピー

つまり2パターンが5枚あるということになる。

なぜ「ひまわり」を多く描いたのか?好きだったから?
その答えははゴーギャンと共同生活を過ごした南仏のアルルにある。

まずアルルに行った経緯だが、日本への憧れを抱いたことに始まる。大政奉還のあった1867年にパリ万博でジャポニスムブームとなったことをきっかけに、ゴッホも浮世絵の世界にはまり、浮世絵の影響を受けて描いた「タンギー爺さん」、「雨の大橋」は有名である。浮世絵の色使いがカラフルであったことから、日本と南仏のアルルを重ね合わせ、そのことでアルル行きを決意したらしいのだが、アルルと日本の共通点は海があるくらいで、それほど似ている点は多くなく、日本に対して相当な勘違いをしていた。でもこれもゴッホらしさが出ていて、この勘違いがあったからこそ、人類の誇る名画が生まれているのも事実である。

アルルに行くと決意したはいいが、ゴッホは存命中は絵も売れず貧乏生活であったためいつも金欠で、有名な画商であった弟のテオに頼って資金援助を受けて、遂に憧れのアルルへ行けることになる。アルルではパリから画家たちを呼んで共同生活したいがために1軒家を借りているのだが、ここでようやく登場するのが「ひまわり」で、その1軒家の食堂に「ひまわり」の絵をキリストの12使徒のように飾りたかったためだといわれている。

ただ、超個性的な性格であったため誰もアルルに来てもらえず、ゴッホ自身は現代でいうところのコミュ障、もしくは発達障害的なものがあったのかもしれない。逆にそのような一面があったからこそ、時代を先取りした内面の表現や特徴的な色使いができているのだろう。

アルルの共同生活であるが、実は1人だけ来てくれた画家がいて、タヒチでの生活を描いた作品でも有名なゴーギャンがわずかな期間ながら共同生活を送っている。これは兄を助けるため弟のテオが色々な画家に声をかけてくれて唯一手を挙げてくれたのがゴーギャンなのである。が、しかし、ここでゴッホの面倒臭さが遺憾なく発揮され、予想通り共同生活は1ヶ月を過ぎた辺りで、後述する有名な「耳切り事件」が勃発するのである。その後、ゴーギャンはパリへ帰り、タヒチへ移住するのだが、このゴーギャンも調べると結構面白く、また存命中はあまりついていない人生で、ゴーギャンについてもnoteで取り上げたいと思う。

しかし、なぜゴッホに関しては他の画家とは違い、ここまで詳細に知られているのかといえば、それはアルルでの生活を始めてから、テオと友人に事細かに手紙で伝えているからなのである。
人類の歴史も約5000年前からメソポタミアで文字が生まれたことで過去まで辿れるわけで、プラトンが書いたソクラテスの弁明や、ナポレオンのエジプト遠征時のロゼッタストーン発見・解読など、今は画像や音声データがあるが、文字に残すということはとても重要なのである。おおよそ100年したら今生きている人はいなくなり、余程名を残した偉人以外、殆どの人は誰からも忘れ去られた存在となる。もちろんフェルメールやジャンヌダルクのように掘り起こされることもあるが、それはかなりのレアケース。
ちょっと話は逸れるが、そう思うと他人を気にして生きることに意味はなく、人生一度きり、やりたいことを貫いた方が幸せなのかなと思う。

耳切り事件

そして「耳切り事件」の勃発。

アルルでゴッホは「ゴーギャン君まだ来ないのかな?ルンルンルン♪」と胸を踊らせながらゴーギャンのために椅子を買ってくるのを心待ちにしていた。
ただ、前述したとおり、絵を描くこと以外は基本全て苦手だったゴッホは家事、家計管理のすべてをゴーギャンにお願いしていたのだが、なかなかの性格的に難のあったゴッホにさすがに共同生活は厳しいということで、ゴーギャンはテオにもうこれ以上は無理!ということで根を上げて、ゴッホの元から去ることを決意した。
そんな中、ゴーギャンはゴッホの元から去って行くわけだが、二人の別れ話?の翌日にゴッホの知人の娼婦の女性のところにゴッホの切られた耳が届けられるのである。

耳が送られたのはゴーギャンが娼婦のところへ遊びにいった翌日であったため、耳は娼婦というようりはゴーギャンに俺のことを忘れるなよということであったのかもしれない。耳を切った理由は他にもゴーギャンが描いたゴッホの自画像の耳が気にいらなかった説やゴーギャンが切った説もあるようだが、耳を受け取った娼婦はそんなことは露知らずなわけで、きっと「ひえーっ」となったに違いない
因みに切り取られた耳は左耳で、包帯を巻いた自画像は鏡に映った姿を描いているため、右耳が切り取られたようになっている。

耳を切り取ったゴッホは郵便局員のルーランに助けられ病院で治療してもらうのだが、この耳は当時アルルの病院で研修医をしていたフェニックス・レイが担当していて、1930年にインタビューしたところカミソリで切って耳たぶだけ残っていたとの記事が2016年に確認されているのだが、記事を書いているこちらも思わず顔が歪んでしまう。

恋愛もそうだが、一方的な片思いは偏屈な愛を生み、まさに愛が憎しみに変わった瞬間かのかもしいれない。

そしてこの「耳切り事件」後に、ゴーギャンもいなくなったアルルの黄色い家で、一人になった後でも描き続けたのが「ひまわり」なのである

ゴッホの最期

その後のゴッホだが、やはり精神状態がおかしいということで、退院後の1889年5月にアルルから20キロほど離れたノストラダムスが生まれた街として有名なサンレミの精神病院へ入院する。ここから絵の表現方法が変わり、写実から内面の歪みを表現した「星月夜」はまさにその代表作といえる。現代においては内面を表したポスト印象派として捉えることができるが、ゴッホ本人は精神が不安定になっていただけで、あくまで写実をしているだけで、本人はそのつもりはなかったのかもしれず、時代が後から追いついた典型といえる。

少し精神状態に異常をきたすようになってから、皮肉にもゴッホの評価が上がり出していく。兄を助けたいテオの協力もあり、美術評論家のアルベール・オーリエがゴッホを賞賛する評論を投稿したり、ベルギーでも徐々に人気が高まってきたことで、存命中は殆ど絵が売れなかったが、唯一「赤い葡萄畑」はベルギーのアーティストが購入している。精神が不安定になってから描いた絵が売れるという何とも救われないような気もするが、徐々に波に乗ってきていたのである。

そして1890年5月に1年間の入院生活が終わり退院し、その後パリに戻るが、すぐにまたフランス北部のオーヴェルに行ってしまう。そこでは美術好きだった医師のポール・ガシェと出会い、良き理解者が現れるのだが、また歪んだ絵を描き始め、最期は1890年7月27日に拳銃で腹を撃ち、その2日後に亡くなってしまう
血を流して帰宅し、ガシェ医師の治療も受けるが、精神科医であったため簡易的な手当しか受けられず、翌日も意外と元気でテオとも話をしているようだが、1日経った7月29日に37歳の人生の幕が閉じられてしまうのである。

この亡くなり方にも諸説あり、自殺が有力説とされているが、その真相は明らかになっていない。
拳銃についても謎が多く、そもそも金欠なゴッホに拳銃を買うお金もなく、事件後に拳銃も見つかっていない。さらに自殺が目的で自分で撃っているに、なぜ頭でも心臓でもなく、お腹なの?尚且つ銃弾がお腹の中に残ったままで、貫通していない。ということは他殺なのか?当時オーヴェルでからかわれていたこともあるようで彼らが誤って撃ってしまたという説もあるようだが、おそらく真相は謎に包まれたままになるのであろう。

なお、弟のテオもゴッホが亡くなった後にすぐに亡くなっており、テオ自身も兄に尽くした人生であったといえるのである。

絵画はもちろん、超個性的な性格で現代でもなお人を惹き付けるゴッホ。
でも友達にはなれないかもしれない。

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