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部屋とアリと私

大学生のとき、大学近くのアパートでひとり暮らしをしていた。そこは古いからなのか自然豊かな環境のせいなのかとにかく虫がよく出るアパートで、そこに住む四年の間、忘れられない彼らとの数々の熱い闘いがあった。どの虫もなかなかに手強かった。
これからも永く記憶に留め、そして虫たちの健闘をたたえるために、そのエピソードの一部をここに記しておこうと思う。



それは突然やってきた。
ある暑い夏の日、私はごろごろと布団に寝そべり、だらしなくテレビを見ていた。クーラーをつけ、アイスでも食べようかと起き上がると、床の上に小さな黒い点がぱらぱらと散らばっていた。よく見るとそのひとつひとつが全て動いている。

アリだ。

信じられなかった。だってここは2階で、下の階には住人もいる。窓も開いていない。それなのにどうしてここにいるのか。
目を凝らすとこれまた信じられないことに、彼らはフローリングの板と板の隙間から侵入していた。こうしてる間にも次々にアリが這い出てくる。
じりじりとこちらに迫りくる、アリたちの群れ。

全身に鳥肌が立った。無理だ。怖い。だがこのままではこの部屋がアリだらけになってしまう。

アリの付着を確認しながら高速で布団をたたみ、床の上の物をバタバタとどける。物入れをひっくり返し、なにか良いものはないかと血眼になって探る。マスキングテープを手に取る。これならすぐに剥がせて床を傷つけない。これで隙間を塞ごう。
そう決心し、フローリングの隙間にびいっと伸ばして貼り付けた。爪を立て、溝にぴったりと沿わせる。
そして心の中でごめんねごめんね、と謝りながら、既に出てきてしまったアリたちを掃除用のコロコロで回収した。胸が痛かった。
出入り口だった隙間はマスキングテープでしっかりと塞がれ、後を追ってくる者はもういなかった。
こうして、アリたちはいなくなった。


翌日。目を覚まし、布団から起き上がりカーテンを開ける。セミの声が聞こえる。日差しが強く、よく晴れて気持ちのいい朝だ。昨日の騒動がまるで嘘のようだった。ひんやりとしたフローリングが素足に心地良い。
足元を見る。

そこには、再び彼らがいた。なぜだ。いったいどこから入ってきたのか。

昨日マスキングテープで塞いだところを確認すると、少したわんだテープの隙間からぞろぞろとアリが這い出てきていた。絶望した。

マスキングテープはだめだ。それでもなんとかして溝を塞がなければならない。さもなければこの部屋はアリに支配されてしまう。
にんげんのへやとしての、尊厳を。
再び物入れをかき回してみたが、もう中には太刀打ちできそうなものは何も残っていなかった。慌てて隣の部屋へと向かう。洗面台までたどり着くと、あるものが目に入った。

…歯磨き粉だ。チューブを手に取った。これならしっかりと溝に密着するし、後で簡単に拭き取れる。素晴らしい考えだと思った。
チューブから歯磨き粉を絞り出し、そのまま溝に塗りたくった。迷いはなかった。みるみる隙間は埋められていく。はみ出したところをちょいちょいとティッシュで拭う。ふわりと部屋にたちのぼる、さわやかなミントの香り。

しばらくの間は何匹かの出入りがあったが、やがて溝が白くかちかちに乾くと、その入場は途絶えた。
こうして、アリたちはいなくなった。

ところがである。
その後外出し帰宅すると、そこにはアリたちの列があった。ああああああああ!叫び声をあげた。

まさか歯磨き粉もだめだったのか。くらくらしながら昨日埋めたところを見ると、そこは白くきっちりと塞がれたままだった。
どの窓もやはりしっかりと閉まっている。外からの侵入はあり得ない。それならばいったいどこから彼らは?
列の最後尾を目で辿っていくと、アリたちはまた別のフローリングの隙間から這い出ていた。膝から崩れ落ちた。な…ぜ……

再び歯磨き粉を手に、制圧に臨んだ。
溝をふさぐんだ。ふさいで、ふさいで、ふさぐんだ。アリたちのいないおだやかで平和な日常を、この手にもう一度取り戻すんだ。
歯磨き粉はたっぷりとふんだんに使われた。
部屋の中の空気はすっかりミントまみれになっていて、鼻の中はスースーと涼やかだった。

そして翌日、再びアリたちは別の隙間から元気いっぱいに這い出てくるのである。


埋めても埋めても次々と果敢にルートを変え、繰り返し我が部屋へと挑み続けるアリたち。それでもなお進もう、道を切り開こう、という前向きでストイックな姿勢は逞しく、そこにはある種の尊さが宿っていた。そしてわたしの部屋は、そのような屈強なレジェンドたちにとってどうしようもなく魅力的な場所なのだ。なんと誇らしいことか。

それでも、共に住むことはできない。彼らには勝たなければいけない。私は、私の生活を守らなければならない。
もう道は残されていなかった。

原付で走ること15分。ホームセンターへ到着し、アリの巣の駆除剤を購入した。かわいそうに思えてこれまでこの選択肢を避けていたが、もう他に打つ手はなかった。
帰宅してすぐに開封し、緑のそれをそっとアリたちのそばに置く。やがてアリはその前で立ち止まり、中に潜って顕粒を運び出していった。それに続いて次々と他のアリたちも歩き出し、同じように粒を咥え、一匹、また一匹とひとつの列を成していった。 


こうして、アリたちは、いなくなった。



いつからだろう、このごろは外を歩いていても、アリの姿を見かけることが少なくなってきた気がする。小さいころは毎日のように目にしていた、あんなにも身近な生き物だったのに。
就職して都市と呼ばれる地に住むようになったからだろうか。それとも、私が小さな生き物の姿に目を見張る心のゆとりを失ってしまったのだろうか。

今でも記憶にやんわりと残る、さわやかなミントの香り。簡単には拭き取れず、爪楊枝で必死に削った床の隙間の歯磨き粉。ひたむきでまっすぐな、小さなアリたちの行進。

いつだったか、公園でお昼を食べているときに、久しぶりに彼らの団体に出会った。私はパンのかけらをそっとつまみ、パラパラと地面にまいた。そして心の中で語りかけた。
アリさん、お食べ。あの日のアリたちの分まで。もう2度とあんな悲しいことが起こらないように。巣に運び、空腹を満たし、みんなで仲良く暮らしておくれ。
アリたちは進行方向を変え、パンのかけらへと向かった。しばらく触覚で点検した後、かけらを口に咥え、一列にまっすぐと進んでいった。
グッドバイ、アリファミリー。やわらかなそよ風とパンのほのかな甘みが、私の心をやさしく満たしてくれた。


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