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ぐん、と手を伸ばして外側の世界に触れること


買い物に出かけたら、隣の本屋さんが久しぶりに開いていた。

本屋さんに立ち寄るのもとてつもなく久しぶりだった。コロナ以前から本の購入はすっかりオンラインばかりになっていて、読みたい本は指先でスライドし、ピンポイントで指名買いすることがほとんどだった。

ぼんやりと棚を眺めていると、パチンパチンと心の中でなにかが弾けていくのがわかった。
自分の好きなものや興味のあるもの、ここ最近漠然と考えていたこと、あらゆる感情。その断片があちらこちらに散らばっていて、それが次々と呼び起こされていく。
ああそうか、私こんなことを考えていたんだった、こういう本が読みたいんだった、そういえばこれに興味があったんだった。
そして棚を眺めるたびに、目には見えない本と本とのつながりが、私の中に新しく生まれていく。

いつのまにか顔がほどけて、にやにやしているのに気がついた。こういう偶発的な出会いは、生身の本棚にしかない力だと思う。

偶発的な出会い。最近の日々の中で抜け落ちてしまっているもの。

閉塞感ただよう狭い世界での毎日の中で、作って食べて、洗って、笑って、寝るを繰り返している。それはとても恵まれていてしあわせなことだと思う。つながりたい人とだけつながって、大切な家族との時間が密になり、増えていく。圧倒的な他者に出会うリアルな機会はどんどん失われ、腹が立ったり悲しかったり、マイナスの感情を大きく揺さぶられることも少なくなった。ミニマムになったわたしの社会。

けれども他者が不在になればなるほど毎日の輪郭はぼやけていって、心の内部がポジティブな化学反応を起こすことも少なくなった。

手を伸ばして自分の外側に触れること。外の世界に触れること。それは時にヒリヒリとした痛みをもたらす。
けれどもそこで生まれるハプニングのような出会いや、それがもたらす豊かさは、自分が望むものばかりに目を向けていてはなかなか手に入らない。そういうものに最近はとても飢えている。
ないものねだりだとも思う。でも、本棚と本棚の間をするすると歩いているときの浮遊するような気持ちや、スパークした時の感覚が忘れられない。忘れちゃいけないと思った。この毎日に慣れてしまったけれど、それは生きていく上で必要な力だけれど、日常の中にアンテナを張って、その濃度は低くても外側に触れる努力をしようとあらためて思った。

意識して新しいことを体験したり、吸収していくこと。偶発的になにかに出会うこと。散歩だってなんだっていい。たとえばいつもとちがう道を歩いてみたり、同じ道でも時間帯を変えてみたり。見えてくる風景や、空の色や温度が違うだけで、引き出される感情もきっと変わってくる。



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