なぜ生きるのか を考えるということ

「なぜ生きるのか」
という問いは哲学的なものだと思います。
これに対して
「なぜ生きるのか、となぜ考えるのか」
という問いは科学(生物学や心理学)で考えられるのではないかと思います。

何かの現象や状況がなぜ引きおこされるのかを考えることは科学だと思うのです。
また、それがどんな結果をもたらすのかを考えるのも科学でしょう。

その現象や状況のもつ意味合いというか、それにどのような価値があるのか、どうとらえるべきなのかなど
そういった意味とか価値とかを考えるのは哲学だと思うのです。

だから、
「なぜ生きるのか」
という生きることの意味や価値を考えるのは哲学なんじゃないかな、と。
これが
「どういう仕組みで生きる(生きている)のか」
という問題になると、それを考えるのは科学だろうと思うのです。
また
「なぜ生きるのか」
という思考がどの部分でどのように生ずるのか、それがどのようなきっかけで思考を開始するのか、そういうことを考えるのも科学だろうとおもうのです。

ということで
「なぜ生きるのか」
という問いは哲学的なものであるがゆえ正解がないと思います。

科学的なものには正解(にちかいもの)は存在すると思いますが、
哲学的なものには、人の数だけ(それ以上に)解が存在すると思います。
ですのでそれは「その人にとっての解」であって「正解」ではない、と考えます。

「なぜ生きるのか」
ということをどこまでも考えても正解には行きつかない。
そういうものだと思います。

正解がないなら考える意味がないということとは違います。

正解がなくとも考えることに価値があるのではないか
そう考えるのは哲学でしょうね。
正解がないのに考えてしまうのはなぜか
そう考えるのは科学・心理学でしょうね。

長くなりそうなので続きはまたそのうち。

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