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大前粟生作品について

最初は「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」
のタイトルに惹かれて大前粟生という作家の本を読み始めた。(最初は大前くりおだと思っていたけど、粟生であおだったのに途中で気付いた……)購入はせず、どれも図書館で探して借りていた。
ので、今から書く感想はもしかしたら記憶違いや思い込みが結構あるかもしれないのでそこはご注意。

大前粟生が書く主人公は二十代の今時の男性が多い。そしておそらく意図して男性性を埋没させるような書き方をしている。
それも女装をするとか気持ちが女性的であるとか女性的な感じにするのではなく、注意深く中性的に書かれている。
その上で、自身の男性性について悩んだりする。恋愛等において男女がどうしたら対等になれるかということが共通するテーマの一つであるのかなと思う。

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」では、ぬいぐるみとしゃべるのを目的とした大学サークルが出てくる。しかし、主人公はサークルに所属しているものの実際にぬいぐるみとしゃべる人ではない。
そこが、タイトルに惹かれた私にとって意外だった。「しゃべるぬいぐるみ」ではなく、主人公目線から「ぬいぐるみとしゃべる人」であるサークルメンバーが客観的に書かれるのである。
しかも、メンバーはぬいぐるみとしゃべっている内容を聞かないようにするのがマナーだから、どんな会話がなされているのかも殆ど分からない。

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」では主人公が悩んだ理由が、地元に帰った時の、同級生の女性に対する差別的な視線についてだった。
また、主人公の女友達は、電車で痴漢を目撃したことで傷ついていた。
どちらも、本人が直接傷つけられたわけではない。他人が傷ついているのを想像して、間接的に自分の心が傷ついている。
これは、生きづらいだろうなぁ……。
「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」の感想で「キャラクターがHSP気質」であると言っているのを見たことがあるが、実際彼らは繊細である。

この繊細さが私は理解出来る。理解は出来るのだが、普段彼らより割り切って過ごしている。仕方ないと思ったり開き直ったりしている。
で、あるから私が普段から目を逸らしているような世の中の理不尽さを直接突きつけてくるようなこの作品は私にはちょっと辛い。理解は出来るけど共感は出来ない感じ。
私が大前粟生作品を読んで心を揺さぶられるしすごく考えさせられるのにも関わらず購入して手元に置こうと思わなかった理由がこれである。
「分かる分かる辛いよね」じゃなくて「分かる分かるけどこいつ面倒臭いな!」と登場人物に対して思ってしまう。

「きみだからさびしい」

恋愛についての対等性についても思う。特に「きみだからさびしい」では、主人公圭吾は、好きな女性あやめさんと対等でありたいと願う。自身の男性性を厭う気持ちがある。

一方私は別に対等じゃなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。それは自身の恋愛でも、理想の恋愛でも創作物の恋愛に対しても、他人の恋愛でも恋愛全般に思う。
完全な対等を求めるのも完全な主従であればいいと思っているのでもなくて、たとえば日によって片方が優位である時が入れ替わるとか、支配的な側が敬語を使っているとか、そういうバランス感覚があればそれでいいんじゃないかと思っている。
だから恋愛の対等に関して、圭吾の真摯さは面倒臭いなとちょっと思ってしまう。

さて、あやめさんはあやめさんで、社会の男性に対して舐められたくないという強い気持ちを持っていたり、複数の人を同時に愛せるポリアモリーであったりする。
「きみだからさびしい」のキャッチではこの「ポリアモリー」が大きく打ち出されていた。
ポリアモリーであることについて、あやめさんは「違う種類の穴が空いていてそれを埋められるのはそれぞれ違う人」という表現をしていて、一理あると思うと同時に正直「それって両方とも恋人である必要があるのかな」と思ってしまった。

ただ、あやめさんの圭吾に対する申し訳なさのような感覚は、私も感じたことがある。
あやめさんのように同時期に複数と付き合ったことはないが、元恋人に振られた直後に新しい人と付き合ったことがあり、比べたり新しい人に元恋人との付き合いを話したりした。
あやめさんが圭吾にしたのと似た仕打ちをしてたな、と思い出した。時間軸がずれてただけで、あやめさんのような立場自体にはなったことがある。

圭吾はあやめさんに対して一途である。逆に、異様に一途であると言ってもいいくらいだ。
圭吾は先輩女性にキスマークを付けられ、そういう雰囲気になったことがあるし、後輩女性とは男女の友情のようなものを築いているし、同期の男性には告白された。
だが、それらの関係については圭吾は殆ど悩んでいない。これが特異なように感じる。キスマークを付けられた時なんて、あやめさんのことを思い出して興奮していたくらいだ。
好きじゃない人と関係を持ちそうになってしまった……とか、好きじゃない人に告白されてしまった……とはそんなに悩まないわけである。ぶれない一途さでびっくりする。
圭吾は恋愛では深く悩むけど、それ以外のところでは案外あっさりしている。「きみだからさびしい」では圭吾とその周りの人物を通して、恋愛以外の男女の関係性についても描いている。

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」も大学生の主人公と大学で知り合った友人女性が友人として、あまりにナチュラルに幼稚園児の友人同士のように接している。
主人公は他の女性と何となくで交際してみたりして、それでいて三角関係にはならなくて自己完結的に終わったりしてあっさりしている。

そして、この面倒臭さとあっさり感のミックスさこそ今時の若者なのだろうなと思う。
大前粟生作品にすごく感情移入してそれこそ共感するタイプの人って多いんじゃないかなぁと感じる。
私は、大前粟生が書く登場人物たちよりも上の世代であり、鈍感なんだなと思わされる。考えすぎなタイプである私ですらそう思う。
そういうわけで私にジャストマッチするような感覚はない。しかし、考えさせられることは多いし良い読書をしたと思った。

他作品について

「おもろい以外いらんねん」「まるみちゃんとうさぎくん」と短編いくつかを読んだ。
「おもろい以外いらんねん」は「人を傷つけない笑い」への模索があり、「まるみちゃんとうさぎくん」はコロナのようでありギフテッドのようでもある、奇病が流行った世界を描いている。
いずれも「多様性」を意識して描かれているし、それでいながら、「意識のアップデート」に取り残された人に対しての眼差しを残してもいることが特徴的であるとも思った。
意識のアップデートに取り残された人を無視しないことって大事だと思う。意識高い系のSNSを見てるとアップデート出来ない人への攻撃性を感じ気分が悪くなることもあるからそう思う。

大前粟生の作品を読んでいると、時々登場人物の誰の台詞か分からなくなるような会話の連なりがある。「おもろい以外いらんねん」ではこれわざとやってるな、と気づいた。
「おもろい以外いらんねん」は端的にいうと方向性の違いでお笑いコンビが決裂しそうになったが、共通の知人である主人公を迎え入れてトリオになるラストの作品である。
三人で喋っているからどの台詞を誰が言ってるのか本当に分からなくなる。
この、誰が何を言ってるのか分からない感覚みたいなのがトリオであることの良さであり、この手法をもっと突っ込むと属人化を低くして平等になる感じがあるのかなぁと思う。

それと、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」でも感じたのだが、モノ(ぬいぐるみでありアクリル板)に過度な感情移入しないまま適度に擬人化して吐き出し口にしようみたいな思想があるのかもしれないなぁ、ともちょっと思った。

人を傷つけない笑い→お笑いをする側がネタの属人化を低くする、人ではなくモノを笑いにする…ってことなのか?

お笑いについてはもう少し考えてみたさがある。

というわけで、最近よく読む作家、大前粟生の小説に対する感想でした。まとまりのない文になったような気がするけど、まあこんなところで…。

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